「自分を信用していない」
「他人を信用していない」
これ、つまりは
「人間不信」ですよね…
さて、
この「人間不信」を克服する前段階として、
これらに加えて、もう一つ、
私がもっていた “こだわり” を思い出しました。
そのこだわりとは、
「人の愚痴を言わない」
ということ。
ん?
それってダメなの?
というか、愚痴を言わないって、
ある意味立派なことですよね。
かの有名な斎藤一人さんも、愚痴を言わない修行をしよう!って仰ってたし。
で、ですね、
私は立派であろうとしてたのかというと、そうではなくてですね、
私にとって愚痴というものは、
非生産的で、
不健康で、
自己満足にすらならないもので、
溜めておくのは辛いけど、
吐いたら吐いた分だけ疲れる…
というもので。
飲み過ぎた後のリバースと同じかしら←汚噺スミマセン、若気の至りですー
誰かに愚痴を吐けば吐くほど、
迷走するというか、
アドバイスをもらっても
「それができないから悩んでるんじゃーい
」
た堂々巡りになる感じ。
すんまそん!
私にとって愚痴とは、
溜めずにはいられないけど
吐いたところでどうにもならないもの。
というよりも、
愚痴にして溜め込んだ時点でどうする気もないものだったのだろうと思います。
要するに、
自分が勝手にムカつく!と感じるものを、
自分で勝手に集めて
大事に抱え込んで
他人に何と言われようと手放さなかったものが、
私のいうところの「愚痴」ですね。
なんでそんなもん抱え込むのーというツッコミはごもっともながら、やはりそれも冒頭の「人間不信」と深く関わっているので、簡単には解消できないと思います。
あ、愚痴を溜めても、
聞いてくれる誰かがいて、吐いてスッキリできる人は、溜めてもいいのではないかと思います。
(例えば、
①嫌なことがある
②愚痴を吐く「聞いて!あいつ腹立つ!」「うわ、ひどいねそれ!」
③リセットできる「グチったらスッキリしたわありがとー!」「よかった、また何かあったら言ってね!」
というパターンができている人)
しかし私の場合は、
愚痴を吐けなかったんです。
吐き方も上手じゃなかったんだと思います。
聞いてくれる人はいたけど、吐いてもスッキリしませんでした。
(相手も聞き甲斐がないですねぇ)
そして、吐けないくせに溜め込むという厄介なタチで。
ならば、
そもそも愚痴を溜めないマインドシステム(?)にしておくことが、最も健康的ではなかろうか!
と思いついてはみたものの、
イラッとムカッとすることはなくならないし、
いきなりそんなマインド・フルモデルチェンジなんてできないし、
ということで、
せめて、
溜め込む前に早めにリリースできるように工夫すること、
「軽くて明るい愚痴の吐き方★」を心がけるようにしました。
