移民政策で欧米の轍を踏みつつある岸田政権。

 

移民優遇政策が欧米に齎した惨状を顧みない、底の浅い人権主義者で、財務省には従順な岸田文雄首相、〈多民族国家〉を政策に掲げる茂木敏充幹事長、親中・再生可能エネルギー利権派の頭目河野太郎デジタル相。この三人を核とした今の自民党を放置していると、日本は取り返しのつかない状況に陥る。

 

左翼リベラリズムに絡め取られ、腐り切った自民党に鉄槌を下せるのは日本保守党しかない。

 

 https://twitter.com/hoshuto_jp?s=21&t=DLZJqW_Jtrq86Nyx26rxMw

 

 

                                 

 

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 作家の百田尚樹氏は、木原官房副長官夫人の前夫不審死事件について週刊文春の記事をベースに何本か動画をアップしているが、7月7日の動画は大胆な推理で事件の核心に迫っていて最も面白かった。私も週刊文春7/13、20号と続けて記事を読んでみて百田氏が語っている内容以外にも幾つか素朴な疑問を感じたので挙げておきたい。

 平成18(2006)年4月10日午前3時過ぎ、息子の不審死の第一発見者となった父親は警察から、息子が亡くなった時、息子の妻が「二階の奥の寝室」にいて「『私が寝ている間に、隣の部屋で夫が死んでいました』と供述した」と聞かされている。天井に「血飛沫」が飛び、「血の海」に横たわるほどの死に方をした夫の異変に気付かず寝ていたなどということがあり得るだろうか。余りにも不自然だ。

 亡くなった安田種雄氏とその妻が親しかったY氏の供述も奇妙だ。Y氏は、種雄氏の妻から「『刃物を(夫に)握らされたので切ってしまった』と告白された」と供述している。だが、種雄氏の実際の傷は「頭上から喉元に向かって」「肺近く」まで刺されたものであって、「切った」という表現とは合致しない。

 仮に自殺ではなく、誰かがナイフを種雄氏に振り下ろしたとしても、身長180cmを超える長身の種雄氏の「頭上から喉元に向かって」ナイフを差し込み、肺近くまで到達させるには、加害者の側にもある程度の腕力や上背が必要ではなかろうか。身長163cm程度の妻に果たしてそうした行為は可能だろうか。

 Y氏の供述によると、種雄氏の妻X子(現木原夫人)から「殺しちゃった」と電話で告白されてから、種雄氏宅に駆けつけたことになっているが、本当だろうか。種雄氏が生きている間にY氏が現場に駆け付けた可能性はないのか。Y氏の車がNシステムで捕捉された時刻と種雄氏の死亡推定時刻の関係は以上の可能性を排除するのか否か。

 木原誠二官房副長官は、週刊文春を刑事告訴するそうだが、仮に名誉毀損に該当する部分があるとしたら、Y氏の「X子から『殺しちゃった』と電話があった」以降の供述ぐらいだと思える。だが、これはY氏の「証言」であり、無論、文春側も事実と断定していない。Y氏の供述を事実と思い込むのは相当そそっかしい読者だけであろう。

 総じて、週刊文春7/13、20号の記事の内容は黒澤明監督の初期の傑作を彷彿とさせるのである。



 昨日7月17日、ニコニコ生放送の百田尚樹チャンネルの会員限定有料部分の動画で、"猫組長"こと菅原潮氏が語った内容で、私は、木原官房副長官夫人の前夫安田種雄氏の死因が自殺ではなく、他殺であると確信した。警察は、平成18(2006)年当時の初動捜査の段階で初歩的なミスを犯していた。そのミスは一人の政治家の運命をも変えてしまうほどの決定的なものであった。木原官房副長官が捜査員に漏らしたとされる嘆きの言葉「どうして、そのときに…」については誠に尤もという他ない。

 

中野重治の詩をめぐる

江藤と吉本の読みの対立

   前回、吉本隆明が江藤淳の「昭和の文人」について、昭和63年(1988)に行われた「文学と非文学の倫理」という対談の中で「あれは物凄いラジカルですね」と感嘆の声を上げていたことを紹介したが、吉本はその3年後の平成3年(1991)に刊行した「新・書物の解体学」の中で、この「昭和の文人」について7頁にわたって比較的詳しく論じている。

  吉本は、本書について自由な保守主義の台頭と左翼勢力の退潮という現在を先駆的に告げる書として全般的には肯定的に評価しているのだが、一か所だけ、江藤の読みを明確に「誤読」と指摘した部分がある。その部分とは、中野重治の「雨の降る品川駅」という詩についての江藤の批評に関してであった。孫引きになるが、まずその詩を以下に引用してみよう。

 

辛よ さようなら

金よ さようなら

君らは雨の降る品川駅から乗車する

 

李よ さようなら

も一人の李よ さようなら

君らは君らの父母の国にかえる

 

君らの国の河はさむい冬に凍る

君らの叛逆する心はわかれの一瞬に凍る

 

海は夕ぐれのなかに海鳴りの声をたかめる

鳩は雨にぬれて車庫の屋根からまいおりる

 

君らは雨にぬれて君らを逐う日本天皇をおもい出す

君らは雨にぬれて 髯 眼鏡 猫背の彼をおもい出す

 

ふりしぶく雨のなかに緑のシグナルはあがる

ふりしぶく雨のなかに君らの瞳はとがる

 

雨は敷石にそそぎ暗い海面におちかかる

雨は君らのあつい頬にきえる

 

君らのくろい影は改札口をよぎる

君らの白いモスソは歩廊の闇にひるがえる

 

シグナルは色をかえる

君らは乗りこむ

 

君らは出発する

君らは去る

 

さようなら 辛

さようなら 金

さようなら 李

さようなら 女の李

 

行ってあのかたい 厚い なめらかな氷をたたきわれ

ながく堰(せ)かれていた水をしてほとばしらしめよ

日本プロレタリアートの後(うしろ)だて前だて

さようなら

報復の歓喜に泣きわらう日まで

 

 江藤淳はこの詩が好きで、大学へ講義に向かう途中、品川駅のプラットフォームに佇んでいる時によく思い出していたという。「昭和初期の詩歌」について講義していた折にも、学生の前でこの詩を朗読中に、突然胸が締め付けられるような思いがして読み続けられなくなったという思い出を、「〝辛よ、金よ、李よ、…〟」の章の前半部に記している。

   無論、江藤は「日本プロレタリアート」という言葉に込められたイデオロギーに共感しているのではなく、「さようなら 辛/さようなら 金/さようなら李/さようなら 女の李」という詩句の響きに、思いがけなくもある「戦慄」を感じたために朗読を中断せずにはいられなかったのである。

 この詩に対する江藤の批判的分析の要点は、前半の「さようなら 辛/さようなら 金/さようなら 李/さようなら 女の李」の詩句には存在する日本人と朝鮮人の間の「超えることができない距離」が、最後の連の「日本プロレタリアートの後だて前だて」という呼び掛けの詩句によって、「あたかも距離が存在しないか解消可能であるかのような錯覚を作り出している」ところにあった。

「日本天皇の臣民」であることを強いられ差別され、「屈辱と憤怒と悲しみ」にまみれながら、「ふりしぶく雨のなか」を品川駅から「父母の国」へ向かう「辛」や「金」や「李」や「も一人の李」にとっては、「日本天皇」への反抗は、「祖国への忠誠」に対する裏切り行為にはならない。だが、中野重治は、「好むと好まざるとにかかわらず」、日本天皇の「正統的な臣民」であり、「報復の歓喜に泣きわらう」とは、明らかに「日本天皇」への「叛逆」である。「日本国臣民」である中野重治と「辛、金、李、も一人の李」の間には決して超えることができない距離が存在するにも拘らず、中野は「日本プロレタリアートの後だて前だて」という詩句を挿入することによって、両者の間に厳然としてあるはずの距離が存在しないかのような錯覚を拵え上げている。江藤は、中野重治のこのような朝鮮人への強い同一化願望の背後には、日本人であることを恥じ、日本人であることを否定しようとする「熾烈な変身願望」が存在していたと洞察するのである。1)

 

 以上のような江藤の読みについて、吉本は、「新・書物の解体学」の中で「左翼的な思考方法や語彙の使い方に慣れていないための誤読」と評し、次のように批判している。

 

「このばあい左翼的な常識では、『辛』や『金』や『李』も一個の人間(性)であり、中野重治もまた一個の人間(性)であり、その同体感覚は普遍的な人間性からくるので、人種や民族の異同からくるのではない。それが国際プロレタリアートの連帯感情の源泉だと考えるのが、左翼の常識だとおもう。この本の著者は意識的にも無意識的にも、民族人種という概念を強力に押し出すことで誤読することになっている。そして、普遍人間性などは民族感情や国家感情を受肉することでしか成り立ちようがないので、抽象的な普遍人間性などは偽の実体だと主張しているのだとおもえる」2)

 

 筆者が、中野重治の「雨の降る品川駅」に対する江藤の批評を要約して紹介してきたのも、江藤の読みを「誤読」と論評する吉本の批評の中に、左翼的思考の致命的な欠陥が潜んでいるのではないかと考え、その点を指摘しておきたかったからだ。

  吉本は、中野重治が「雨の降る品川駅」の中で、「日本プロレタリアートの後だて前だて」という詩句で、中野自身と「辛」、「金」、「李」、「もう一人の李」を同一化しているのは、左翼の場合、民族や人種の相違を超えて同じ一個の人間(性)であるという同体感覚に基づいた国際プロレタリアートの連帯感情があるからだと解説している。江藤淳はそのような左翼の思考方法に慣れていないために、中野重治の「日本プロレタリアートの後だて前だて」という言葉を、日本人と朝鮮人の間に厳然としてある距離が存在しないかのように錯覚させる「詩的なレトリック」とのみ解しており、これは明らかな誤読だと批判しているのである。

  だが、果たして本当に吉本の批判は当たっていると言えるだろうか。筆者は、以下に箇条書きにして吉本の「誤読」という指摘を批判しておきたい。

 

①   「左翼的常識」に基づいていないから「誤読」と言えるか

  言うまでもない事だが、吉本の言うように中野重治の「日本プロレタリアートの後だて前だて」という詩句が「左翼的な常識」や「国際プロレタリアートの連帯感情」から発せられた言葉であるとしても、この詩句が、中野重治が福井県坂井郡高椋村(現坂井市丸岡町)一本田で生まれ、この村の小地主でもあった父藤作の次男であるという事実を覆せる訳ではない。中野重治は日本国籍を持つ「天皇の臣民」であり、中野重治と、「辛」、「金」、「李」達、朝鮮人では「叛逆」という言葉の持つ意味や性格が自ずと異なってくるからである。

 

②   「後だて前だて」の微妙なニュアンスを見逃していないか

   吉本の解説通り、「日本プロレタリアートの後だて前だて」という詩句について、中野重治と『辛』や『金』や『李』の間に生じている「同体感覚」が普遍的な人間性からきており、「同じ一個の人間(性)であることに由来するプロレタリアートの連帯感情」の表現であると仮定してみよう。では、何故「後だて前だて」という言葉が「日本プロレタリアート」の言葉の後に付け加えられているのだろうか。実態はどうあれ、中野重治には、『辛』や『金』や『李』が朝鮮人として日本人プロレタリアート以上に虐げられ差別されているという意識があるからこそ「後だて前だて」という言葉が付加されていると思われる。やはりこの詩句には中野重治の微妙な民族人種意識が反映されていると見るべきである。

 だからこそ、江藤淳は「ここには、『辛』や『金』や『李』や、『女の李』に対して、『日本プロレタリアートの後(うしろ)だて前だて』と呼び掛けることにより、彼らがあたかも同胞であるかのような印象をつくり出し、そのことによって逆に自己の立脚点を、一挙に朝鮮人と同一化させてしまおうとする意図が秘められている」と分析し、「もとよりこの態度は、なによりも朝鮮人であることの矜持によって生きているはずの、『辛』や『金』や『李』や、『も一人の李』に対して傲慢な態度と言わざるを得ない」と批判したのである。

 

③   江藤淳は「抽象的な普遍人間性を偽の実体」と考えていたか

  もう一つの根本的な疑問は、江藤の中野重治に対する批判が、吉本の言うように「普遍人間性などは民族感情や国家感情を受肉することでしか成り立ちようがないので、抽象的な普遍人間性などは偽の実体だと主張している」ことになるかという点である。

  私は、江藤淳は、民族や人種、国籍の相違によって本来あるはずの距離を無視して、「日本プロレタリアートの後だて前だて」という言葉で、自己と朝鮮人を強引に同一化してしまおうとする中野重治の精神を批判したのであって、民族や国家を超えた普遍人間性まで否定したのではないと思う。

  人種や民族の異なる者同士が、民族や人種の相違を超えて、普遍的な人間性に基づいて共感するのは、日常茶飯に起きている事柄であろう。外国の文学や映画に深く感動するのも、民族や人種を超えた普遍的な人間性の機微に触れるからである。これは吉本の言う左翼的な常識や思考法に拠らなくても、ごく日常的な経験の積み重ねのうちに了解される真実であり、そのような真実を江藤淳が否定するはずもないのである。

  江藤は「民族感情や国家感情を受肉しない、抽象的な普遍人間性」を認めていないのではなく、抽象的な普遍人間性による同体感覚に由来するとされる「国際プロレタリアートの連帯」などというイデオロギーを以て、民族や人種の間にある厳然たる「距離」を解消できるものではないと言いたいのだ。筆者は以下に、江藤淳が民族や人種を超えた抽象的な普遍人間性を「偽の実体」と見做していなかったことを裏付ける例を幾つか挙げて反証しておきたい。

 

在日の作家を高く

評価していた江藤淳

  江藤は、昭和45年9月、毎日新聞の文芸時評で、この2年後に芥川賞を受賞した在日朝鮮人の作家李恢成の小説「伽倻子のために」を論じて次のように述べている。

 

「この小説の焦点をかたちづくっているのは、伽倻子の内部からこのような暗いものが、一歩、また一歩とある力をもって噴き出して来る過程である。作者はこの暗さが、時代や民族などという外的要因に完全に帰し去ることのできぬなにものかであることを知っているように見える。あえていえば、それは生そのものの暗さであるが、それをとらえ得ているために『伽倻子のために』は文学作品になっている」3)

 

 上の一節で、江藤は、民族という概念を「外的要因」として捉えており、そのような外的要因に帰すことができない何かを捉え得ているからこそ文学作品として成立していると論評している。吉本の江藤に対する指摘とは全く反対に、民族感情や国家感情に帰すことができない普遍人間性こそが小説を文学たらしめると述べている。すなわち、民族や人種という概念には還元できない普遍人間性を照射できていなければ文学にはならないと自らの文学観を語っているのである。

 

 また、昭和48年11月の文芸時評では、金鶴泳の「石の道」について次のように批評している。

 

「金氏が、『凍える口』で文芸賞を受賞したのは、四、五年前のことだったように記憶する。

 それ以後、私はごく稀にしか金氏の作品を見なかったような気がするが、今度の『石の道』は、明らかにこの作家が新しい境地を開いたことを証拠立てている。

 それは、この作品が、まぎれもなく在日朝鮮人の少女を描いた作品でありながら、一個の人間を描いた作品になり得ているからである」4)

 

 江藤はここでも、在日朝鮮人であることの描写よりも、金鶴泳が普遍的な一個の人間像を描出し得ている点に評価の重きを置いている。吉本の言うように江藤が「民族感情を受肉しなければ普遍人間性は成り立ちようがない」と考えていたならば、「在日であること」の葛藤や苦悩の方に評価の重点が置かれるはずだが、江藤は、在日である無しに拘らず、より普遍的な人間性を描けているか否かで文学作品の質を評価しようとしている。このことは、江藤に、民族感情や国家感情を超えた「抽象的な普遍人間性」が信じられていた証左と言える。

 

「東西文明の落差」を超える

可能性を示唆した白鳥論

   もう一つの例として、江藤の「正宗白鳥」論を挙げておきたい。「リアリズムの源流」等に収録されている正宗白鳥論は、昭和35年(1960)に日本読書新聞に寄稿した文章と、昭和40年に新潮社版正宗白鳥全集月報に寄せた「正宗白鳥断想」という文章を合わせたものである。

   昭和37年(1962)夏、ロックフェラー財団の研究員として渡米した江藤は、秋に留学先のプリンストン大学で、正宗白鳥の訃報に接した。正宗白鳥はこの年の10月28日に83歳で亡くなった。正宗白鳥と江藤淳はこの三年前、昭和34年(1959)11月、別冊中央公論の文芸特集秋季号で対談している。当時、白鳥は80歳、江藤は26歳であった。江藤の論は、この二つの思い出も絡めて展開されている。

 正宗白鳥は、青少年期に植村正久や内村鑑三の強い影響を受け、明治30年(1897)、19歳の時に牧師植村正久によってキリスト教の洗礼を受けたが、明治34年(1901)、23歳の時に懊悩の末、棄教し、その後、本格的に執筆活動に入っている。以後、白鳥は自然主義文学の代表的作家、批評家として最晩年まで才筆を揮い続けるが、聖書は常に白鳥の座右にあった。

   白鳥が亡くなる直前に再びキリスト教に入信した事については、当時新聞でも取り上げられ、文壇でも大きな話題となった(翌昭和38年(1963)1月号の雑誌「文藝」では、「白鳥の精神」と題して小林秀雄と河上徹太郎が対談している)。この時、米国プリンストンでこれらの事実を伝え聞いた江藤淳は、同じプロテスタント系の大学であるプリンストン大の同僚や学生達と、白鳥の最後の回心を巡って「激論を闘わせた」のである。

 白鳥の信仰を、「多分日本的な信仰」であり、「正統的なカルヴィニズムの立場からはほとんど信仰とはいいがたい」と主張するプリンストン大学の同僚や学生達に対し、若き日の江藤は「正統的カルヴィニズムをもって自任するプリンストンの同僚や学生に、いったい亡き白鳥のそれに匹敵する苦悩があるとでもいうのだろうか。そういう緊張や劇のない信仰は因習ではないか」と強く反発している。

 明治以降のキリスト教の我が国への移植について、江藤の解釈は凡そ次のようなものである。明治初期に宣教師達は、「罪」という「異国の病気」を移植しようとした。キリスト教の「神」が、真実に救いの神となるのは、「罪」という業病に真に罹患した者だけである。内村鑑三のような信仰者は、「罹病し得るかどうかを問う」以前に、この「罪」を引き受けてキリスト教に帰依(commit)し、その生涯を「壮烈な実験」の場とした。正宗白鳥は青年期にキリスト教から離れたが、幼少期に聞かされた仏教の地獄のイメージからくる「漠然たる来世の不安」「漠然たる恐怖」は白鳥の「血肉のなかにひそんでいた感受性のとらえた病」であり、白鳥は生涯を通じてこの病から癒されることはなかった。だが、もしキリスト教の「神」が唯一普遍の「神」なら、白鳥を幼年期からとらえてきた「漠然たる来世の不安」「漠然たる恐怖」からも「救い得るはず」ではないか。江藤淳は、白鳥は生涯をかけてこのような問いをキリスト教の「神」に問い続けたと観ていた。「正宗白鳥」論の末尾は、次のような問いかけを含む一節で締め括られている。

 

「それは問うにあたいする問いであり、また氏以外に問う勇気のある者を持たぬような問いであった。そのあげくに、正宗氏はおそらく『神』にむかって肯いたのである。何故か。それを私は知らない。しかし、それがまことに信仰復帰なら、氏はついに観念によってでなく、その感受性に執することによって普遍にいたった、というよりも東西の文明の落差を超えたことになる。これが最も独創的な魂の実験でなくて何であろうか」5)

 

 吉本が言うように、もし江藤が本当に「普遍人間性などは民族感情や国家感情を受肉することでしか成り立ちようがないので、抽象的な普遍人間性などは偽の実体」と考えていたならば、白鳥のキリスト教信仰を「たぶん『日本的』な信者であり、ほとんど信仰とはいいがたい」と否定するプリンストン大の同僚や学生達に対し、反発して激論に及ぶことはなかったであろう。また、白鳥の信仰について「感受性に執することによって普遍にいたった」、或いは「東西の文明の落差を超えた」可能性を示唆することもなかったであろう。江藤が「国家感情や民族感情を受肉しない抽象的な普遍人間性」の在処を最初から否定していたならば、このような可能性を暗示するはずもないのである。

 

「昭和の文人」が投げかける

近現代の思想と政治の問題

  以上、江藤淳の中野重治の詩に対する批判を「誤読」と認定し、江藤が「民族や国家を超えた抽象的な普遍人間性を偽の実体と主張している」と論評する吉本隆明を批判してきた。「誤読」の件に関して言えば、吉本は、あくまで昭和初期当時の左翼的思考法や左翼の常識に照らして、江藤の読みは「誤読」だと言いたかったのかも知れないが、「新・書物の解体学」の本文中には、「左翼的思考法」や「左翼の常識」について、時代的限定を示す「当時の」などと言った言葉は一切記されていないのだから、そうした斟酌は殆ど無用だろう。

   また、吉本の江藤の読みに対する批判の文章は、「…左翼の常識だとおもう」、「…偽の実体だと主張しているのだとおもえる」などと「おもう」「おもえる」と末尾に付け加えることで、断言形を回避しているところに自身の判断に対する微かな迷いや躊躇いを感じさせる文章になっている。吉本隆明には思想的に、どうしても国家や国籍(nationality)を肯定的に捉える思想に対する拒否反応があって、その分、既成の左翼思想に心情的に加担してしまいがちな面があったように思う。

   読者によっては、何故このように中野重治の詩の読みに拘って吉本隆明批判を続けているのか不可解に思われるかも知れない。しかし、こういう細部の批評の中にこそ現代の世界状況と繋がる人間性の真実が潜んでいると筆者は考える。

   今日の世界情勢を顧みる時、吉本の言う「左翼的思考法」や「左翼的な常識」、すなわち、「普遍的な人間(性)同士の同体感覚に基づく国際プロレタリアートの連帯」なるものが、いかに欺瞞に満ちた虚偽であったか、旧ソ連や中国共産党が行ってきた少数民族への弾圧の歴史によって白日の下に暴露されてきたと言っても過言ではないだろう。とりわけ、ウイグル人に対するジェノサイドや強制労働、強制不妊、強制臓器収奪、チベットやモンゴルにおける固有の文化の破壊等によって、吉本の言う「左翼的な常識」が2022年の今日、自由と民主主義を支持する世界の「非常識」となったのはもはや明白な事実である。

 むしろ、江藤淳が中野重治の詩の中に見出したように、民族や人種の間にある「厳然たる距離」を、「日本プロレタリアートの後だて前だて」という詩句や「国際プロレタリアートの連帯」というイデオロギーで解消可能なように錯覚させる詐術にこそ、今日の中共の悪辣かつ強引な民族同化政策に繋がる「左翼的思考」の起源があると言えよう。

 江藤が「昭和の文人」において指摘したような、詩句やイデオロギーによって民族や人種の間に本来厳然としてある距離を、存在しないかのように錯覚させて「連帯」や「一体化論」を掲げる思考の詐術の問題は、単に戦前・戦後を通じた左翼の問題にとどまらず、戦前の東亜新秩序の確立論やその基礎となった大アジア主義の思想、更には明治43年(1910)の韓国併合等、近代の日本思想や政治にも通底する普遍性を有していると言えるのかも知れない。

  「昭和の文人」は、平野謙、中野重治、堀辰雄の文学の読解を通じて、「一身にして二生を経るが如く、一人にして両身あるが如し」(福澤諭吉)であった昭和という時代の構造そのものを浮き彫りにしようとした力作であるが、私は、本書が投げかける問題が、昭和という時代を超えてさらに我が国の近現代史にまで拡張できる普遍性を有しているという意味で、江藤淳の文芸批評の中でもとりわけ重要な意義を持つ作品として、今後も少数の文学愛好家や文学研究者に読み継がれていくに違いないと考えている。

 

 

[引用・参考文献]

 

1)     昭和の文人       江藤淳  38~52頁 新潮社    平成元年7月10日

2)     新・書物の解体学  吉本隆明 62~63頁 メタローグ  1992年9月1日

3)     全文芸時評 上巻  江藤淳  447頁   新潮社    平成元年11月28日

4)     全文芸時評 下巻  江藤淳  141頁   新潮社    平成元年11月28日

5)     リアリズムの源流  江藤淳  167頁   河出書房新社 平成元年4月20日

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

安易に使われ過ぎている

‟保守”という言葉

   昨年九月の総裁選の頃、憲法学者で保守派の論客としても知られる八木秀次氏が、最近の政治家は「猫も杓子も保守を自称する」などと苦々し気に総裁候補であった河野太郎氏を批判していた。確かに昨今、保守という言葉は余りに安易に曖昧に使われ過ぎている。以前、岩田温氏がリツィートして窘めていた或る人のツィートの中に「保守左翼」という言葉が出て来て唖然とした覚えがある。

   私も以前に、「保守ラディカリズム」という言葉を使ったことがある。この言葉も学問的に見ると、保守とラディカリズムを接合した珍妙な造語ということになるのかも知れない。トランプ前大統領もポンペオ前国務長官も左翼を批判するツィートの中でよくradical leftと表現しており、conservativeとradicalは対極的な意味で使っている。その意味で欧米の政治思想からみれば、矛盾した言葉になるのだろう。

  「保守ラディカリズム」という言葉は、江藤淳を念頭に置いて、戦後の言論空間の中では真正の保守はラディカルにならざるを得ないという趣旨で用いた。この場合のラディカリズムとは根本的という意味で、左翼的意味合いはない。江藤も、吉本隆明との対談の中で吉本の「あの『昭和の文人』というのも、あれはラジカルですね(笑)、ものすごいラジカルですね」という感嘆の言葉に応えて「それはラジカルではあります。ラジカルであることは間違いないです」1)と述べ、自身のラディカリズムを認める発言をしており、必ずしも不当な言葉とは思っていない。

 

江藤淳は何故ラディカルに

ならざるを得なかったのか

   江藤淳は何故ラディカルにならざるを得なかったのか。戦後、出版物や放送の検閲を通じて戦前の我が国の精神史を封殺したGHQやその占領政策に迎合した左翼アカデミズムや大手マスコミが、人工的に禁忌を設け、戦前と戦後はあたかも断絶しているかのような擬制的な言語空間を作り出しているのに気付いたからである。江藤淳は、戦前の歴史の真実を封印した戦後の言語空間の中では、言葉は歴史の中で培われた文化的実質を失い、「言葉の意味がはじから消えてしまう」2)とさえ考えていた。「キツネからもらった小判のような言葉」3)とまで形容している。

  注意すべきは、こういう江藤の確信は、新聞紙上で長年に亘り文芸時評を担当して夥しい作品を読み解き、批評していく中で深められたのであって、単に興味や関心が文学から政治や外交問題に移行した結果ではないということだ。江藤は、「閉ざされた言語空間-占領軍の検閲と戦後日本」の中で次のように回顧している。

 

「昭和44年の暮から昭和53年の晩秋まで、私は毎月『毎日新聞』に文芸時評を書いていた。それは三島由紀夫の自裁にはじまり、〝繁栄〟のなかに文学が陥没し、荒廃して行った九年間だったが、来る月も来る月も、その月の雑誌に発表された文芸作品を読みながら、私は、自分たちがその中で呼吸しているはずの言論空間が、奇妙に閉ざされ、かつ奇妙に拘束されているというもどかしさを、感じないわけにはいかなかった。

 いわば作家たちは、虚構のなかでもう一つの虚構を作ることに専念していた。そう感じるたびに、私は、自分たちを閉じ込め、拘束しているこの虚構の正体を、知りたいと思った」4)

 

  江藤が近代文学同人の本多秋五との間で「無条件降伏論争」を繰り広げたのは昭和53年(1978)、毎日新聞の文芸時評の紙面においてであった。この論争は、昭和30年代初頭に筑摩書房版「現代日本文学全集」の別巻所収・現代日本文学史「昭和」編の中で、平野謙が書き記した以下の文章を、江藤が批判したところから始まった。すなわち、平野の「日本が無条件降伏の結果、ポツダム宣言の規定によって、連合軍の占領下におかれることとなったのは、昭和二十年(一九四五)のことである」という記述を、江藤は「重大な事実の誤認がある」と指摘したのである。

  江藤の主張を大まかに纏めると次のようになる。ポツダム宣言においては、「日本国軍隊の無条件降伏」を宣言するよう求められたのであって、「日本国の無条件降伏」を要求されたわけではない。従って、日本国は「主権を維持しつつ約束ずくで」降伏したのである。ポツダム宣言にそれ以前のカサブランカ声明等による「無条件降伏の精神が底流した」などとする本多秋五の主張は、江藤に言わせれば「牽強付会の妄説」ということになる。この論争等を通じて、江藤は、本多や平野ら近代文学同人の「無条件降伏説」が、実はポツダム宣言自体にではなく、GHQによる「占領政策の実施過程」に内在していたのを見出したのである。5)

  江藤はこの年の12月に「占領史録」研究会を立ち上げるとともに、翌昭和54年(1979)から、後に「落葉の掃き寄せ」に纏められることになる、占領下の検閲と文学に関する一連のエッセイの発表を開始した。そして、同年10月から米国ワシントンD.C.にあるウィルソン研究所に国際交流基金研究員として赴任し、国立公文書館、同分室、メリーランド大学中央図書館で、戦後GHQが行った検閲の実態に関する原資料の調査に当たり、参謀第二部所属の民間検閲支隊(CCD)による検閲指針の文書を発見するに至ったのである。

   前回の「新版・日本国紀」の書評でも述べたが、百田尚樹氏が同書において、二度にわたって江藤淳の功績に触れ、「閉ざされた言語空間-占領軍の検閲と戦後日本」について「言論史を塗り替える画期的な本」6)と高く評価しているのも、GHQによるウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムの実在性に関する百田氏の主張が、少なからず江藤の先行研究に負っている事を百田氏自身がよく認識しているからである。

   江藤は、この3年後、昭和57年(1982)の4月に行われた吉本隆明との対談の中で、何故文学者が占領期の統治構造の実証研究に血道をあげるのかという趣旨の疑問を投げかけられ、自分にとってこの仕事は何ら「政策科学的な提言」ではなく、「文学」であり、「結果的にある持続を確認したい」「公明正大な知的空間を再建したい」ためだと答えている7)。この場合の「持続を確認する」とは〈戦前〉と〈戦後〉があたかも明確に断絶しているかのように仮構された言語空間に抗し、歴史の持続の感覚を取り戻そうとする営みであった。

  前回、小林秀雄の言う“歴史感覚”について若干解説を加えたが、江藤淳は、究極的に言えば、こういう歴史の持続の感覚を取り戻すためにこそ、占領軍の統治構造と検閲に関する実証研究に向かわざるを得なかったのであり、そのためにこそラディカルにならざるを得なかったのだ。百田尚樹氏も同様で、歴史の持続の感覚を取り戻し、また、読者に歴史の持続の感覚を取り戻してもらいたいからこそ、文庫版で上下計約800頁に亘る日本通史を書き上げて刊行したのだと言えよう。

 

王政復古で実現した

保守とラディカリズムの一致

   そもそも我が国の歴史は、この保守とラディカリズムの一致を明治維新の折に王政復古の大号令によって見事に実現している。この点は井上勲博士が「王政復古」(中公新書)の結語8)の中で鮮やかに分析しているのでその趣旨を紹介しておこう。

   井上氏によれば、ある時代の秩序の崩壊期には、「存立の原理」に立ち返って「秩序の再構築」を図ろうとする気運が生まれてくる。秩序の崩壊が進めば進むほど、「存立の原理」の生誕の時が意識され、後の時代に付加された様々な制度を意匠とみなして、「存立の原理」の生誕の時に立ち返って秩序を再構築しようとする構想力が求められるようになる。と同時に、「存立の原理」が秩序の再構築を正当化する根拠ともなる。復古という歴史の始原の時への回帰が、逆説的に革新の遂行を促すのである。

  本書によれば、ペリーの黒船来航以来、江戸幕府の内部でも復古運動はあった。文久二年の幕政改革令は、寛永以前に復古しようという主旨であり、幕府はさらに慶長・元和の時代に復古の時を求めた。これに対して、尊攘派志士達、例えば、久坂玄瑞は、延久年間、後三条天皇の治世(治暦四年[1068]~延久四年[1072])の時代への復古を訴え、山縣狂介(後の有朋)は皇極四年から大化元年[645]に改元された年、乙巳の変の時代への復古を提言した。徳川慶喜を蘇我入鹿に擬えたのである。そして、慶喜の大政奉還後、王政復古においては、遂に神武創業の時代への復古が宣言された。岩倉具視が国学者玉松操の意見を容れた結果であった。

  岩倉は後醍醐天皇の治世を参考にしようとする公家達の意見を「建武中興の制度は、以て模範となすに足らず」と退け、摂関制度、幕府の廃絶に加え「内覧・勅問御人数・国事用掛・議奏・武家伝奏、京都守護職・京都所司代、くわえて摂簶つまり五摂家の制と門流」の廃止を宣言した。

  以上のように、諸外国の脅威に伴う幕末の動乱によって江戸幕藩体制という秩序の崩壊が進めば進むほど、尊攘派の公家や志士達、岩倉具視始め後に明治の元勲となった政治指導者たちは、より遠い過去に遡及して「存立の原理」を求めた。そして、とうとう王政復古の大号令においては、遥か悠久の神話の時代、神武帝創業の御世にまで遡って「存立の原理」が打ち立てられた。そうでなければ、幕府と摂関制、それらに伴う「制度・組織・慣行の集積」を廃絶できず、新しい時代の政治体制という秩序を構築できないと考えられたからである。換言すれば、維新後に新政府が成就した廃藩置県、四民平等、国民徴兵等の革命的政策は、神武創業期への復古という政治理念がなければ、実現できなかったと考えるのが至当である。

   昨今、ネット上では、徳川慶喜は薩長討幕派によって朝敵に仕立て上げられたとする陰謀論が盛んである。確かに中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之、岩倉具視によって“討幕の密勅”が秘かに作成され、慶喜は慶應三年十月に大政奉還の上書を朝廷に提出したにもかかわらず朝敵にされ、慶應三年末の王政復古を宣言する朝廷会議からも排除されたのは明らかな史実である。

   しかし、もし仮に慶喜が朝廷会議に参画して維新後も政治生命を維持していれば、維新後にあのようにラディカルな改革を次々と実行できたであろうか。慶喜が、朝廷会議に参画すれば、幕藩体制や摂関制の長い歴史の中に蓄積された「制度・組織・慣行の集積」をあれほど大胆に廃絶することはとうてい不可能であったろう。

 

フランス革命とは

根本的に異なる明治維新

  以上のように見てくると、明治維新はその改革のラディカリズム、つまり急進的かつ根本的な点において左翼の志向する革命に一見似ている。実際、文芸評論家で優れた評伝作家でもあった村松剛は、木戸孝允の評伝「醒めた炎」の中で明治維新について次のように評している。

 

「維新政府はいくどもいうけれど単に徳川政権を倒し、七百年余にわたってつづいた武家政治に終止符を打っただけではなく、千年の歴史をもつ摂関制を廃止し、公武双方の特権を奪って日本史上はじめての国民国家をつくり上げた。短時日のうちに、しかも比較的少い流血をもってこれだけの大事業をなしとげたのであって、世界史上特筆にあたいする大革命だろう」9)

(太字;引用者)

 

   筆者はこの村松剛の言葉に共感する。だが、この革命は、左翼のように過去の歴史や伝統を全否定する革命ではなく、過去の歴史の尊重の上に、つまり、我が国の歴史の連続性を認めた上で秩序の誕生期にまで遡及して成立するのであるから、左翼の革命とは本質的に異なる。

   保守派の中には、英国保守主義の祖エドマンド・バークがフランス革命を批判したように、日本の明治維新の革命性や急進性を批判する人々がいるが、全くの見当違いである。ジャン・ジャック・ルソーの「社会契約論」に思想的淵源があるフランス革命では、王権が全否定され、ルイ十六世や王妃マリー・アントワネットが処刑されたが、日本の明治維新は、皇室の万世一系護持を秩序の根幹として成立しており、全く似て非なるものである。

   尊攘派の志士たちや明治の元勲たちは皆、日本の古代からの歴史を尊び、歴史上のある時代を理想の治世とする憧憬を有していた。逆説的に言えば、明治維新という大革命は、皇室の万世一系が護持されていたからこそ成就した。そのラディカリズムは、古代の神武創業期からの我が国の歴史の持続の感覚の上に成立したと言える。

 

持続の感覚を取り戻そうとする

保守ラディカリズム

   最後にまとめとして、保守主義と保守のラディカリズムについて私なりに定義しておこうと思う。私見では、保守主義とは、自己の裡に祖国や祖国の先人達と結び付いた歴史の時間軸が確固として定位しており、先人達が伝統の中で育んだ叡智や技を尊重し、自己の内にそれらを蘇生させつつ、今を生き、未来を拓こうとする態度や営為を指している。

   それ故、自己の裡に歴史の時間軸が確固として定位していなければ保守ではなく、その時間軸が祖国と結び付いていなければ保守ではない。マルクス・エンゲルスの唯物史観は言うまでもなく、ヘーゲル流の弁証法的歴史観やスペンサー流の進歩史観の信奉者は当然保守ではあり得ない。また、祖国と自己の歴史的時間軸を結び付けるのは情緒であって理性や論理ではない。

   保守のラディカリズムは、江藤淳の文業において明らかなように、歴史の持続の感覚を取り戻そうとする姿勢と態度の中に胚胎する。保守のラディカリズムは、明治維新が王政復古であったように、神武創業期からの我が国の歴史の持続の感覚の上に成立する。

 

 

[引用・参考文献]

1)  江藤淳 連続対談「文学の現在」所収「文学と非文学の倫理」258頁 河出書房新社 1989.5.20

2) 3)「難かしい話題」吉本隆明対談集所収「現代文学の倫理」69頁 青土社 1985.10.5

4)「閉ざされた言語空間 占領軍の検閲と戦後日本」 江藤淳 8頁 文藝春秋 平成元年八月十五日

5)「全文芸批評〈下巻〉」 江藤淳 383~385頁、421~427頁 新潮社 平成元年十一月二十八日 

6)「新版・日本国紀」下巻  百田尚樹  274頁 幻冬舎文庫 令和3年11月15日 

7)「難かしい話題」吉本隆明対談集所収「現代文学の倫理」68、73頁 青土社 1985.10.5

8)「王政復古 慶応三年十二月九日の政変」 井上勲 333~341頁 中公新書1033 1991年8月25日

9)「醒めた炎(四)」 村松剛 161頁 中公文庫 1991年10月31日 

 

  

 

 


*昨年の総裁選で河野太郎氏は自分の保守観を説明した際、「地域に古くからあるものに新しいものを付け加えていく」と言った。保守における「古いもの」と「新しいもの」の関係は本来、このように足し算で表せるものではない。「古いもの」は「古い」まま存在するのではなく、自分の内部で「新しいもの」として蘇らせることができなければ保守主義とは言えない。

 

*日本維新の会も、「維新」を標榜しながら歴史について語らない。創設者である橋下徹氏や代表の松井一郎氏が、明治維新の頃の政治家について敬意の念を表しつつ語るのを聴いたことがない。仮にも「維新の会」を名乗るなら、近現代史の象徴とも言える靖國神社への参拝を公約にすべきであり、近現代史の歴史的展望の中で、党の理念を語るべきである。

 

 なぜ通史でなければならなかったか

 

 フランス後期印象派の画家ポール・ゴーギャンが晩年にタヒチで描いた作品(1897~1898)に「D’où venons-nous?Que sommes-nous?Où allons-nous?(我々は何処から来たのか、我々は何者か、我々は何処に行くのか)」という大作がある。西欧近代の文明・文化を捨ててタヒチに渡ったゴーギャンにとってもこの問いは逃れられないテーマであった。そして、この言葉は、ゴーギャンの絵からも一人歩きして、今も根源的問いかけとして我々に突き付けられているのである。

 作家の百田尚樹氏は、この普遍的問いに、日本通史を書くことで答えようとした。換言すれば、この問いに答えるためにこそ、日本の歴史を通史として書かなければならなくなったとも言えよう。

 我が国の古典的史書にも、「大鏡」、「増鏡」、「吾妻鏡」等とあるように、歴史は本来、我々自身の鏡である。だが、大東亜戦争敗戦後は、この鏡がGHQの占領政策やその政策に相乗りした左翼・リベラルの学者や知識人達、朝日新聞に代表される左翼マスメディアによってひどく歪められ、曇らされてきた。百田氏は、その鏡の歪みを平に直し、曇りを拭い去って、古代から現代までの見晴らしのよい透視図を我々に提供してくれたのである。

 但し、二次元上に描出される絵画の古典的遠近法とは異なり、通史の叙述においては視点を一点に固定することはできない。ある時代の中に入り込んで歴史上の人物や事件に近接し、共感していくミクロ的な視点とともに、日本史全体を俯瞰するマクロ的な視点の双方を兼ね備え、しかも二つの視点を絶えず往復する必要がある。高い視点に固執していれば、淡々とした史実の羅列に終始してしまい、ダイナミックで生彩のある歴史叙述は生まれない。逆にミクロ的な視点に拘れば、日本史全体を俯瞰する史観が失われてしまう。

 少しでも歴史の叙述に取り組んだ者であれば経験上分かるが、古代以前から現代までの通史を書き通して一冊の単行本(文庫本では上下巻で計約800頁)の分量に圧縮するだけでも、大変な難事業である。叙述の正確さを期すためには、史料や研究書の森に分け入っては出て来るという作業を繰り返さなければならないが、一つの史実にも多種多様な要因が複雑に絡み合っているので、正確に書こうとすればするほど、叙述量が膨れ上がってしまう傾向は避けられないからだ。その矛盾を乗り越えて文章を削りに削り、叙述を可能な限り簡潔に抑えていくには、コンパスの効かない富士山の樹海に入り込んで抜け出てくるような勇気と胆力が必要である。

 百田氏は、各章の始めにリードの短文を執筆し、歴史という大海を航海する羅針盤とし、また、各章末にコラムを設けて、感銘を受けた人物や逸話等を語り、通史の叙述で生じやすい、以上のようなジレンマと単調さを回避している。だが、上下巻に纏め上げることに成功した要因は恐らくそれだけではあるまい。

 百田氏は、大伴部博麻や北条時宗の生涯に心打たれて感涙にむせぶほど、歴史上、自らを犠牲にして国を護った人物への思い入れは深く、情感の容量も大きいが、一方で、生半可な思想やイデオロギーには騙されない、冷徹なリアリストの側面もある。たとえば、文永、弘安の役については、執権時宗と鎌倉武士達の国を護る戦いぶりに密着し、コラムを含め文庫本で12頁分を費やしているが、江戸城内で刃傷沙汰を起こした浅野内匠頭については「単に精神錯乱」と私見を述べ、赤穂浪士事件についても2頁弱の分量にとどめている。こういう見切りの良さ、史実に対する拘りを切って捨てる果断さがなければ、叙述はとめどなく膨れ上がって収拾がつかなくなったであろう。

 加えて、百田氏には大きな方向性を見失わない直覚力がある。ここ数年Twitterで氏のツィートに目を通してきたが、状況の先を読む氏の予見力の確かさには幾度となく舌を捲いてきた。こうした百田氏の作家としての特質が、読み応えのある面白い通史の成立に如何なく効果を発揮したものと考えられる。

 

史上空前の快挙となった「新版・日本国紀」 

 

 明治以来、西欧近代の歴史学が我が国に流入し、史学会に移植されて以後、講座・日本史学の序巻として日本史全体を概観した著作物は、或いは様々な歴史学者達によって書かれてはいるのかも知れない。しかし、元々は専門の歴史学者ではない著者が唯一人で日本通史を執筆し、尚且つベストセラーになった例は極めて少ない。筆者の調べた範囲では、日清戦争終結後の明治29年(1896)に刊行された竹越輿三郎の「二千五百年史」、大東亜戦争開戦2年前の昭和14年(1939)に刊行された大川周明の「日本二千六百年史」、平成11年(1999)に刊行された西尾幹二氏の「国民の歴史」の三作品のみである。

(昭和の時代の知識階層によく読まれた徳富蘇峰の「近世日本国民史」は大正7年(1918)に書き始められ、昭和27年(1952)に完成した100巻に上る大著であるが、信長の時代から書き起こされており、日本通史ではない。最近では、井沢元彦氏の「逆説の日本史」シリーズは数百万の読者を獲得し、現在26巻まで刊行されているが、まだ完結していない)

 

 竹越輿三郎は、慶應義塾に学び、福澤諭吉の勧めで時事新報社に入社、青年期にはキリスト教に入信している。その後「国民新聞」を発行していた民友社で政治評論を担当するなど、記者・ジャーナリストから出発し、英国クロムウェルの伝記を執筆して在野史家としての経歴を開始した。徳富蘇峰や山路愛山等の史家、伊藤博文、陸奥宗光、西園寺公望等の政治家とも交流があり、「二千五百年史」を刊行して広範な読者を得た後、伊藤内閣の西園寺公望文部大臣の秘書官も務めた。その後、立憲政友会から立候補して衆議院議員となり、当選5回を重ねた。大正11年(1922)には宮内省臨時帝室編修局の御用掛として明治天皇紀の編纂を主導し、枢密顧問官も務めている。

 大川周明は、東大でインド哲学を専攻し、青年期は古今東西の宗教や西欧の哲学・思想に没頭、「道会」というキリスト教系新興宗教団体にも入信している。その後、ラース・ビハーリー・ボースを自宅に匿うなどインド独立運動を支援し、日英同盟を重視する政府を批判する論文も執筆。大正七年(1918)、南満州鉄道に入社し満鉄東亜経済調査局に勤務、次第に陸海軍のエリート将校・士官達と交流を深め、北一輝とも親交を結んだ。三月事件から始まる一連の軍部によるクーデタ計画に関わり、海軍急進派将校らが中心となって首相官邸に乱入し、犬養毅首相を射殺した五・一五事件では、青年将校達に拳銃や実弾、現金を供与した反乱罪幇助の罪で禁固五年の判決を受けた。

 戦後、民間人として唯一人A級戦犯として起訴されたが、東京裁判で東条英機の頭を叩く等の奇行から進行麻痺と診断されて米軍病院に収容され、有罪判決を免れた。大川はイスラム教についても造詣が深く語学も堪能で、晩年はコーランの全訳を完成している。「日本二千六百年史」は昭和十年代に50万部を超えるベストセラーとなっている。

 西尾幹二氏は、ニーチェ研究から出発し、初期評論が三島由紀夫や福田恒存に評価され、文芸評論家として本格的な文筆活動を開始した。平成8年(1996)、「新しい歴史教科書をつくる会」の設立発起人の一人となり、初代会長に就任した。「国民の歴史」も「編/新しい歴史教科書をつくる会」とあるように、この会の活動の副産物として西尾氏によって生み出された著作である。本書も平成の時代に70万部以上のベストセラーとなった。

 以上の三人の著者は、学界や官界に籍を置いた経験があり、アカデミズムとの人的交流も豊富であったと想像される。百田尚樹氏のように、大学での教員経験も、著名な歴史家達との交流歴もない在野の作家が日本通史を書き通して刊行し、尚且つ非常に広範な読者を獲得した例は他にないと言えるのではないか。同書は、すでに旧版と合わせて100万部を超えるベストセラーとなっているのである。

 唯一人の著者が日本通史を書き通した先蹤を近代以前の歴史に求めるならば、一挙に南北朝時代の延元4年(1339)に「神皇正統記」を著した北畠親房や、鎌倉時代初期の承久2年(1220)に「愚管抄」を書き記した慈円にまで遡らなければならなくなる。両著とも、単なる歴史書という枠を超え、日本思想、日本文学の古典として永く読み継がれてきている。ある歴史書の価値は、単に史実の実証的正確さだけではないのは明白である。

(江戸末期の文政9年に完成した頼山陽の「日本外史」は、幕末の尊攘派志士達に愛読されたが、平安末期の源平時代から書き起こされた武家列伝であり、日本通史ではない。徳川光圀による「大日本史」の編纂が本格的に開始されたのは、明暦の大火があった明暦3年(1657)に光圀が史局を設置して以来であり、この全397巻よりなる大史書が完成したのは明治39年(1906)。本紀・列伝については、光圀の存命中にほぼ完成していたとされているが、神武天皇から後小松天皇の御代に南北朝が統一された明徳三年(1392)までの歴史であり、当時の現代までの通史とも言えない)

 

小林秀雄の云う”歴史感覚”とは

 

 上に挙げた竹越輿三郎の「二千五百年史」や大川周明の「日本二千六百年史」については、小林秀雄が昭和14年(1939)に執筆した「歴史の活眼」というエッセイで知った。当時、小林は三十七歳で、明治大学の文芸科講師をしていたが、文学概論やフランス語等、自分の知っている事だけを教えるのに飽き足らなくなり、「教師がよく知らない事を教えてはいけない理屈はない」などと小林一流のユーモラスな理屈を付け、昭和11年から大学側の許可を得て「日本文化史研究」という講座名で日本史の授業を続けていた。

 小林のユニークな講義振りについては、後、昭和27年に「喪神」で芥川賞を受賞し、「柳生武芸帳」で人気作家となった五味康祐が、当時、明治大学に籍を置いていたので聴講して目撃しており、その風変りな授業スタイルと小林の独創的な史観について感嘆した思い出をエッセイに残している。

 小林はこの「歴史の活眼」の中で、自分が歴史を教えるようになった経緯を語りつつ、「自分の知らぬことを教えるこの教師にとって、都合のいゝ様な歴史の本が實にないといふ事がわかった。矢鱈に専門的な本はある。しかし日本歴史について國民の常識を養ふといふ目的に適った本は實にないのである」、「學校を卒業して暗記の勞から逃れて、みんな忘れて了った人々に、歴史とは理解すべき思想であるといふ事を教へる歴史の本がまるでないといふ事は、悲しむべき事である」1)などと嘆いている。

 小林は、この文章のくだりの後、続けて大川周明の「日本二千六百年史」について触れ、「ああいうものも専門の歴史家から言へば、いろいろ難點があるだろう」、竹越輿三郎の「二千五百年史」についても「歴史家の間では、採るに足らぬものとされてゐる」等と歴史学者の評価を予想し、また当時の評判を述べている。竹越や大川の日本通史も、当時の専門の歴史学者から際物的評価を受けていたことが窺えるのである。

 だが、小林は「そんな事は問題としては小さいのである。日本歴史といふものはどういふものかを、常識と一貫した歴史眼とを以て、誰にでも面白く讀める様に纏め上げた本が他にない。あれでは不足だと言った處で、他にない、といふ方が、問題は大きいのだ」2)と言う。

  小林は翌昭和15年の「モオロアの『英国史』について」という書評でも、「一般人が讀んでも面白く、學問的にも正確な史書というものが、今日わが國にはまことに少いのである」3)と現状を憂いている。

 以上のように、昭和10年代の小林の経験について紹介したのも、令和の今日でも、自国の歴史に関する教養事情は、あまり変わりがないように思えたからだ。百田氏の日本国紀も三年前に旧版が出版されて以来、専門の歴史学者や左翼マスメディアから様々な批判や攻撃に晒された。だが、今日でも最も大きな問題は、「日本歴史といふものはどういふものかを、常識と一貫した歴史眼とを以て、誰にでも面白く讀める様に纏め上げた本が少ない」という点にあるのであって、百田氏の「新版・日本国紀」は、約80年前に小林秀雄が嘆きと憂いを込めて提起した問題に、見事に応えた本ではないかと思えるからだ。

 小林は、「モオロアの『英国史』について」の中で、菊池寛の「現代のインテリゲンチャほど歴史を知らぬものはない」という発言を引きつつ、菊池の言葉を「歴史觀を云々してゐれば歴史を知ってゐる様な気がして來る人々に對し、恐らく菊池寛氏は、面白さは歴史觀なぞには斷じてないと言ってゐる」と解釈し、次のように分析する。

 

「かういふちぐはぐな事になるのは、簡單な言葉にして言ふと、元來一つのものでなければならぬ歴史解釋といふものと歴史感覺といふものが、現代では分離してゐる事を示す。歴史觀や歴史解釋には習熟はするが、歴史の現實的な力を鋭敏に感ずる皮膚は、全く不感症になってゐるといふまことに不健全な状態に僕等がゐる事を示すのだ」4)

 

 小林がこのエッセイを発表した昭和初期は、マルクスやエンゲルス、レーニン等、共産主義に関する書籍が大量に出回り始めた時期であり、共産主義に批判的な学者や知識人・文化人でも、マルクスやエンゲルスの唯物史観やヘーゲルの弁証法的歴史観の影響は免れ難かった。この時代の少し前には、ハーバート・スペンサーの進化史観やオーギュスト・コントの実証主義史観が日本の知識階層の歴史解釈に少なからず影響を与えていた。

 だが一方で、昭和九年には、中島商工相筆禍事件のように政界を揺るがした事件も起きている。当時、斎藤実内閣で商工大臣を務めていた中島久万吉が、足利尊氏を礼賛する文章を雑誌「現代」に載せたために、国会で糾弾され、辞職に追い込まれた事件である。昭和九年は、後醍醐天皇の建武の新政六百年記念事業が開始された年であったことも影響していた。皇国史観や南朝正統史観を、歴史を論じるうえで当然の前提とする時代の空気もあった。5)この一年後には、貴族院議員も務めていた美濃部達吉の天皇機関説が国会で追及され、美濃部は議員辞職に追い込まれ、著書を発禁にされている.。

 このように左右の歴史解釈が入り乱れて錯綜する時代にあって、小林秀雄の洞察は令和の現代までの射程をも貫き通す鋭さを持っている。小林の云う歴史感覚とは何か。

 

「過去の事實が、殆ど單に過去の事實だといふ理由で、現在の人間の虚心の裡に蘇る。歴史といふものの持つ根柢の力は其處にあるので、史書の原始的な形が素朴な年代記である事が、それを證してゐる。この根柢の力は歴史がどの様に精緻に複雑に解釋されようと變りはしない。この測り知れぬ力に關する感受性或は情操の陶冶といふものに、歴史教育の根幹があると僕は思ってゐる。さうして瑣細な事實から豊富な想像を生み出す鍵とも言ふべき歴史感覺が養はれるのだ」6)

 

「歴史の面白さとは、過去が現在に生き返る面白さに極まると言ふより寧ろ過去が現在に生き返るのと歴史が面白いのとは同じ事柄だと言ひたい」7)

 

 小林秀雄によれば、現代の読者の心に、過去を生き生きと蘇らせる力を持ち、些細な史実の背後に豊富な想像を生み出す歴史本の書き手こそ、真に歴史感覚の優れた著者ということになる。新版・日本国紀は、正しくそのような著者によって書かれた歴史書である。歴史書の質を決めるのは、そこに盛られた歴史観に関する学術的評価や史実の実証的厳密さだけではないのだ。

 

江藤淳の継承者としての百田尚樹氏

 

 百田氏は今回の新版で、古事記や日本書紀の編纂者が、応神天皇や継体天皇のくだりで万世一系を史実として叙述することに苦心していることを記しているが、自分は万世一系を否定しようと意図しているのではなく、むしろ、これらの編纂者が、飛鳥から奈良時代にかけて、万世一系を日本人の自己同一性の根幹となる思想として培っていたことに「深い感動を覚える」と記している。百田氏の歴史叙述について「万世一系を否定している」と批判する人々は、意識的にせよ無意識的にせよ、実証主義史観に囚われ過ぎ、却って歴史の真実を見失っているのである。

 また、日露戦争後に、桂太郎首相と米国の鉄道王エドワード・ハリマンの間で交わされた、南満州鉄道の共同経営に関する覚書(桂・ハリマン協定)は、米国から帰国した小村寿太郎外相の大反対に遭い破棄されたが、百田氏は、この協定の破棄を外交的な「大失態」と評し、日本の命運を決めた「分水嶺」とまで表現している。こういう歴史評価も、戦前に日本通史を執筆した竹越輿三郎や大川周明らの東亜新秩序の確立論や大アジア主義とは異なり、一つの史観やイデオロギーに囚われない柔軟なリアリストの眼が窺える。

 百田氏は、今回の新版では、ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP;War Guilt Information Program )について「存在しない妄想」等と一笑に付す池田信夫氏や秦郁彦氏の批判に応えて、一次資料を明示したうえでかなり踏み込んで解説して反論している。その際、江藤淳の研究の功績についても二度にわたって触れている(文庫版下巻256、274頁)。江藤淳のこの方面での業績は、江藤の生前、一部の学者や研究者には高く評価されていたが、文学界ではほとんど認められず、同時代の文学者達から揶揄されたり中傷されたりしていた。百田氏においてようやくその正統的な継承者を得た感がある。

 因みに、上に挙げた竹越輿三郎も大川周明も徳富蘇峰も菊池寛も、戦後は全てGHQによって公職を追放されているのである。GHQとその協力者達が、如何に日本人から戦前の近現代史の記憶を剥奪し、抹殺しようとしていたかが分かるのである。

 

戦後の言論空間を叩き割る爽快な一撃

 

  筆者は今回、「新版・日本国紀」を読了した後、最近復刊された大川周明の「日本二千六百年史[増補版]」も若干目を通してみた。「吾らは必ず日本的生命を支配する法則を掴まねばならぬ。而してこの法則に従って行動せねばならぬ」8)、「フランス革命はナポレオンの専制によって成った。ロシア革命はレーニン及びスターリンの専制によって成りつつある。而して明治維新は、実にその専制者を明治天皇に於て得た(昭和15年版にのみあり)」9)等の記述には少々辟易し首を傾げつつも、その密度の濃い精神史的・思想史的叙述には感銘を受けた。たとえば、道元については、仏教の宗教改革者として丸々一章を割いて論じており、江戸期の思想界についても、伊藤仁斎、荻生徂徠の古学、契沖に起こり、荷田春満、賀茂真淵に受け継がれ、本居宣長によって集大成される国学の系譜が、やがて幕末における尊王攘夷運動や王政復古実現の原動力となっていった経緯についても簡潔明瞭に解説している。「新版・日本国紀」にはこうした思想史的側面に物足りなさを感じさせる面もあるが、百田氏は、普段、日本史に関心がない読者や歴史の初学者にも、小林秀雄の言葉を借りれば、「誰にでも面白く読める」よう敢えてそうした面は捨象したのであろう。

  ともあれ「新版・日本国紀」は、戦後GHQの占領政策の中で作り上げられた欺瞞的で閉塞的な言論空間を叩き割る爽快な一撃である。すでに崩壊期に入っている退嬰的な戦後の言論空間は、百田氏によってとどめを刺されることになるだろう。

 嘗てオーストリアの作家シュテファン・ツヴァイクはニーチェの著作について「彼の書物に一歩踏み込むと、人はオゾーンを感じる。根源的な大気、息苦しさや霧や鬱陶しさをつゆほども孕んでいない空気である」10)と表現した。我々が現に呼吸している現代の生活空間は、左翼やリベラルの知識人・文化人、マスメディアの影響により左翼的風潮や雰囲気が薄く瀰漫していて、精神の自由に必要な大気が希薄化された状態に喩えることができよう。そのような言論空間の中で窒息死しそうになっている若い読者層には、「新版・日本国紀」を読み通すことによって「根源的な大気」の中で深呼吸することをお薦めしたい。

 

1)2)新訂小林秀雄全集 第七巻 歴史と文學189~190頁 新潮社 昭和53年11月25日   

3)4)6)7)同上 196頁 

5)日本の歴史 9 南北朝の動乱 佐藤進一 3頁 中公文庫 1974年2月10日

8)日本二千六百年史[増補版] 3頁 毎日ワンズ 二〇二一年二月一一日

9)同上 262頁  

10)ツヴァイク全集9 デーモンとの闘争  フリードリッヒ・ニーチェ  410頁 杉浦博訳 みすず書房 1973年5月10日

 

 

 

 大手新聞各紙のアンケート調査によれば、憲法改正については、すでに軒並み、改憲派が護憲派を上回るようになっている。朝日新聞のような極左新聞でさえそうである。未だに九条を後生大事に護ろうとしているのは、世間知らずの馬鹿左翼知識人、文化人と立憲民主党や共産党といった、民意から大きく乖離した素っ頓狂な野党のみである。

 中共による度重なる尖閣諸島周辺への領海侵入等、我が国を取り巻く国際情勢を鑑みても、憲法改正は国会議員にとって緊要の課題であり、政治家は憲法改正のための準備作業を急ぐべきである。だが、現憲法の抱える問題点は数多く、それらを全て一挙に改正しようとすれば、必ず頓挫すると予想される。私見では、やはり本丸である九条の改正から着手するのが遠回りのように見えて一番の近道である。緊急事態条項の明記の問題も九条の壁を突破できれば、自ずと実現できると予測できる。

 まず現憲法第二章の表題(見出し)「戦争の放棄」を「国防軍の保持と侵略戦争の放棄」に改正すべきである。その上で、第九条の第一項を「日本国の主権及び国民の生命と財産を守るため、陸海空軍は、これを国防軍として保持する」に改正する。現憲法九条の第一項は第二項とし、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、他国の侵略を目的とした武力の行使は、永久にこれを放棄する」に改正する。現憲法九条の第二項は丸ごと削除する。つまり加憲プラス減憲論である。

 現憲法九条第二項の「国の交戦権は、これを認めない」の削除は、我が国の国家としての自発性と意志を回復する上でとりわけ重要である。九条の壁を突破できれば、現憲法が抱える数多の問題を解決する道も自ずと開けると考える。九条の全面的な改正は、東アジアの平和と安定のためにも不可欠である。


〔現日本国憲法・第九条〕

  第二章 戦争の放棄

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

 ② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

          ↓

〔我が改正試案〕

  第二章 国防軍の保持と侵略戦争の放棄

第九条 日本国の主権及び国民の生命と財産を守るため、陸海空軍は、これを国防軍として保持する。

②  日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、他国の侵略を目的とした武力の行使は、永久にこれを放棄する。



   イギリスの映画監督アラン・パーカーが7月31日に亡くなった。「ミッドナイト・エクスプレス」「バーディ」「コミットメンツ」「ミシシッピー・バーニング」等、忘れ難いシーンが幾つかあり、自分と感性が近いなと思える、好きな監督だった。

「バーディ」は、ピーター・ガブリエルが音楽を担当したのでサントラを聴いていたし、「コミットメンツ」も映画を観た後、登場人物達のバンド演奏がまた聴きたくなって、サントラ盤をCDショップで探し出して買い求め、家でよく流していた。

   「The rhythm of the heat 」はピーターの4枚目のソロアルバムの最初の曲だが、「Birdy 」のサントラにはこの曲の一部のインストゥルメンタルとも言える「The heat」という曲が収録されている。ピーターの最初のライブアルバム「PLAYS LIVE」の冒頭の曲でもある。

 ピーターもすでに哀悼の言葉をサイトで述べていたが、自分も懐旧の情とともに深く哀悼の意を表したい。




















 

 前回、小林秀雄が「歴史と文学」や「ドストエフスキイの生活」の序文「歴史について」で、歴史の必然と自由の関係については論じていないにもかかわらず、吉本隆明は、何故か、小林における歴史の必然と自由の問題に固執して、「現実から異常な事件によって痛めつけられなければ、自由をかんじられない生活者の思想」、「小林の必然と自由との相関が被虐的」等と、誇張され、歪められた小林像を描き出していると述べた。

 思うに、吉本隆明は、近代文学同人である本多秋五や平野謙の小林秀雄論を意識し過ぎたのである。本多や平野が提起している問題に、自分なりの解決を与えようとする余り、小林が論じていない歴史の必然と自由の問題こそが、小林秀雄の精神を解読する鍵であると錯覚したのである。

 本多秋五の小林秀雄論については、「昭和21年の小林秀雄をめぐって」のその4とその5ですでに論じたので興味のある方はお読み頂きたいが、その4でも紹介した通り、本多は、昭和21年1月の近代文学主催の座談会において、「小林さんは戦争に対しては原始的な自由の信念というものを適用なさった。適用し得る範囲外の所にまで適用なさったのではないですか。或は必然というものをあまり早く諦めてしまって、そのまま肯定されすぎたと云うようなことはないですか」と小林に問い掛けている。この問いに対する答えが前回引用した小林の「君のいう意味がはっきりしないが、必然性というものは図式ではない…」以下の発言である。

 平野謙もまた、昭和16年12月に発表した「小林秀雄」の中では、哲学者田辺元の言葉を引きつつ、小林秀雄における歴史の必然と自由の関係を主題にして論を展開している。

 吉本隆明は、これらの近代文学同人の批評を踏まえ、彼等が提起した歴史の必然と自由の問題に対して思想的に応えつつ、戦前から戦後への小林秀雄の軌跡を論じようとしたために、この主題に引き摺られて、その批評は小林の真実の姿からは大きく乖離してしまう結果になってしまったものと思われる。

 

 小林秀雄は、昭和14年の「疑惑Ⅱ」という時事批評で、歴史の必然とは関連付けて論じてはいないが、自由については次のような見解を述べている。

 

「一體、人間の自由といふ様な大問題が、自由主義が流行るのすたるのといふ様な問題にあって堪るものではない。それは人間の本當の幸福とか不幸とかの問題が、政治問題などではないのと一般である。言はば不易の問題であって、流行の問題ではない。不易の問題を信ずる念などは、流行によって陳腐と思ひ込まされた様な文學者が、文學の新しい「モラル」などと言って騒いでゐるのは片腹痛い事である。個人主義のなかに自我を見附ける様なあんばいに、自由主義のなかに、自由を見附けた處で何になろう。そんな自由は贋物である。さういふ自由を抱えて、統制を専ら弾厭と考へ、只管(しかん[筆者註;ひたすらの意])文化の敵と考へるのは、思想恐怖病の様に、事毎に自由主義的な物の考へ方が怪しからぬと言ふ當局の下手な取締りと丁度いゝ勝負である。

 僕は人間の自由をそんな風には考へない。鑿を振って大理石に向ふ彫刻家は、大理石の堅さに不平を言ふまい。鍛錬が、彼に統制のない處に創造の自由もない事を教へたのであって、彼の考へ方に何んのからくりもない。今日の政治的統制には、統制の技術がたとへ拙劣にせよ、新しい事態に基礎を置いた大理石の様な堅さがある事に間違ひはないのだ。又例へば精神的にも物質的にも、極度に統制されて戦ふ兵隊に、人間の自由がないと言ふか。言ひたい事が言へぬなどと言ってゐる文學者より、兵隊の方が遥かに立派な文學を書いてゐる事も間違ひない事である。又、廣く考へて人間の精神は肉體といふ統制を離れて自由であるか。抵抗が感じられない處に自由も亦ないのだ。さういふ自由に想ひをひそめ、これを體得する道に、思想の自由の問題がはじめて起るのであって、其處以外には起り得ぬ」

(新訂小林秀雄全集 第七巻 歴史と文學 新潮社 昭和53年11月25日 「疑惑Ⅱ」[初出「文藝春秋」昭和14年8月號])(太字;引用者)

 

  以上の一節で、小林秀雄は、自由の問題を、大理石に鑿を振う彫刻家の行為に喩えて「抵抗が感じられない處に自由はない」と語っている。空気があるから風が生じ、大空を飛翔できるように、自由な行為には必ず抵抗が付き纏う。抵抗があるからこそ自由な行為が可能であるという意味であろう。

  問題となるのは、自由の前提となる抵抗物を自己の意識の中でどのように措定するかである。少なくとも、小林は、日支事変(日中戦争)開戦後の統制下という現実には、「新しい事態に基礎を置いた大理石の様な堅さ」があると認識していた。彫刻家が、堅い大理石に向き合い鑿を振るうように、「大理石のような堅さ」がある戦時下の現実という抵抗物を、自由の前提と考えることも可能ではないかと小林は問い掛けている。

  「精神的にも物質的にも、極度に統制されて戦ふ兵隊に、人間の自由がないと言ふか」という問いは現代においても通じる、本質的な極めて重い問いである。現代でも、自衛隊員は統制された規律の中で、災害時の人命救助等、国民の生命を守るための任務を遂行している。他国から攻撃された場合には、国家の自衛権を行使するために、時に自らの生命を犠牲にする覚悟をしなければならない。だが、彼等に「人間の自由がない」と言えるだろうか。そのような発言をする知識人達は、往々にして政治的統制により言論の自由が侵されるのを批判するが、彼等の観念的な議論の中に果たして本当の自由を見出すことができようか。この問いは21世紀の現代でも生きているのである。

  小林は「言ひたい事が言へぬなどと言ってゐる文學者より、兵隊の方が遥かに立派な文學を書いてゐる事も間違ひない事」と述べているが、この「疑惑Ⅱ」という時評を執筆する約1年半前の昭和十三年三月、文藝春秋の特派員として中国に渡り、杭州にて、「麦と兵隊」の著者火野葦平に芥川賞を授与している。小林はこの作品について「人の肺腑を衝くもの」があり、「迫撃砲弾が雨下する中で、全力を挙げて勇敢なる兵隊たらんとする自分を、全力を挙げて冷静に観察せんとするもう一つの自分がある。その緊迫した有様は異様な美しさを以って読者に迫る」と書評で率直に感銘を受けた事を吐露している。「兵隊の方が遥かに立派な文学を書いてゐる事も間違いない事」と小林が述べる時、火野葦平の作品が念頭にあったのは確かであろう。

  いずれにせよ、小林は、「歴史と文学」や「ドストエフスキイの生活」の序文ばかりではなく、この「疑惑Ⅱ」という時事批評の中でも自由と歴史の必然の関係については論じてはいない。ところが、吉本隆明は、執拗なまでに歴史の必然と自由の問題に関連付けて、戦後の小林秀雄の精神の軌跡まで跡付けようとするのである。

 

「もはや抵抗しようもない戦後の現実のなかで、ニヒリズムはますます深くじぶんのなかにもぐりこむ。現実がかれの自由を保証してくれないとすれば、第二の現実をもとめなければならない。戦後の音楽論や美術論への没入は、ほぼこういうモチーフからなされているようにみえる。音楽や美術品はかれにとって自由を約束してくれる必然として、いわば第二の現実として考えられている。まず、対象が贋物か真物かということが、とことんまで問われなければならないのは、それが『必然』として強固な役割を負わねばかれにとって意味をなさないからである」

(「小林秀雄の方法」 吉本隆明 文芸読本「小林秀雄」 河出書房新社 昭和58年7月25日 [勁草書房『吉本隆明全著作集』7所収] )

 

  吉本は、戦後、小林秀雄が自己の自由の保証を求めて、音楽や美術品等の第二の現実に没入していったかのようにモチーフを語っている。だが、小林の古美術への没入は、大東亜戦争開戦前、昭和16年の秋頃から始まっており、吉本の言うように、戦後の現実が自由を保証してくれないために求めた「第二の現実」ではなかった。吉本は、対象の「真贋」と小林の求める「必然」とを関係付けて論じているが、例えば、小林がゴッホの絵に最初に圧倒的な感銘を受けてしゃがみ込んでしまったのは、「カラスのいる麦畑」の複製であり、「贋物」であった。無論、小林は、感銘を受けた後で調べてその絵が複製であるのを知ったのだが、「ゴッホの手紙」を刊行した際には、最初から複製であったと断っており、贋物と知ったことで感動が薄れたなどとは記していないのである。

 小林は「ゴッホの手紙」の序で「近代の日本文化が飜譯文化であるといふ事と、僕等の喜びも悲しみもその中にしかあり得なかったし、現在も未だないといふ事は違ふのである」「誰も、或る一種名状し難いものを糧として生きて来たのであって、飜譯文化といふ様な一観念を食って生きて来たわけではない」と述べているように、小林にとっての「必然」と第一義的に関わりがあるのは、「或る一種名状し難いもの」であって、対象の真贋ではなかった。

 

「『真贋』のなかに、良寛の書軸を手に入れて得意になって掛けていたのを、吉野秀雄に贋物だと言われて、一文字助光の名刀で縦横にきりつけてバラバラにしてしまったという挿話をかいているが、これを小林秀雄の美意識のきびしさとよむのは、おそらくまちがっている。じぶんの自由を保証してくれる『必然』がニセモノであることに耐えられないという生活者の思想をみるべきなのだ。贋物を必然と錯覚して、じぶんの自由を喚起したとすれば、かつて戦争中、現実や歴史にたいしてやったとおなじことをやることになり、それはかれの生活者の思想にとって耐えられないことだからである。かれは、美術品のなかに流動する現実よりもずっとたしかな第二の現実を発見し、それがじぶんの自由を保証してくれるかどうかをたしかめる」

(「小林秀雄の方法」 吉本隆明 文芸読本「小林秀雄」 河出書房新社 昭和58年7月25日 [勁草書房『吉本隆明全著作集』7所収] )

 

   小林秀雄は、昭和25年に発表した「真贋」という美術エッセイで、吉野秀雄に良寛の書の掛軸が贋物であるのを指摘されて、自分の所有する名刀でその書軸をばらばらに斬り捨ててしまった逸話を語っているが、吉本はその逸話に、「自分の自由を保証してくれる『必然』がニセモノであることに耐えられない生活者の思想」を見ている。小林秀雄の戦後の音楽論や美術論への没入を、戦争から受けた傷の結果として、流動する社会的現実に耐えられなくなり、確かな第二の現実を求めた結果とする考えに固執するのである。

  吉本は、戦時中の歴史や現実に対する小林秀雄の思想や対処の仕方を、「贋物を必然と錯覚して、じぶんの自由を喚起する」行為に擬えている。戦後の小林はその失敗を繰り返したくないからこそ、自分の自由を保証してくれる「必然」が贋物であることに耐えられなかったのだと解釈されている。しかし、今まで見てきたように、これらの解釈は全て吉本の思い込みに基づく錯誤である。吉本は自身の思想を展開するため、戦前から戦後への小林の精神像の変遷についての架空の物語をでっち上げる結果に陥ったのである。

 

  小林はすでに戦前から、従来の文芸批評には飽き足らなくなっており、新たな批評の形式を見出そうとする過程で、文字言語以外の、造形美術における「形」の領域にまで視野を拡大し、文学を新たに捉え直そうと模索していた。この件については拙ブログ「昭和21年の小林秀雄の発言をめぐって その2」でも触れたので参照されたいが、戦後間もない昭和21年1月の近代文学同人との座談会「コメディ・リテレール 小林秀雄を囲んで」でも、「つまり、文学というのはみなが考えているほど、文学ではないのだね、文学は又形である、美術でもある、そんなことをだんだんと考えて来たらしいのだね」と小林自身語っている通りである。吉本の言うように、小林は「敗戦の傷によって、社会的な現実をすてて、美的な現実をえらぶことを強いられた」わけではない。小林にとっては、文学も美術も音楽も、同一地平にあって等価であり、自己の裡に在って自己を超えるもの、敢えて言葉を充てるとすれば「実在」、或いは歴史や伝統という「物」を照射する、組織化された言語の構成物以外の何物でもなかった。

 小林は、昭和14年、「文學界」に、青年期に強い影響を受けたポール・ヴァレリーについての批評「テスト氏の方法」を発表している。この中でヴァレリーが青年期に創造した知性の怪物テスト氏の方法を明らかにする上で比較の対象としているのが、最初はデカルトの「方法叙説」、二番目がベルグソンの「ラヴェッソン論」である。

 小林は、この「ラヴェッソン論」の中から、ベルグソンが、形而上学における直観とは何かを解説しているくだりを引用している。ベルグソンによれば、虹の菫、青、緑、黄、赤等、様々なニュアンスを哲学的に考察する方法として、二つの方法がある。一つは、「赤から赤たらしめているもの」、「青を青たらしめているもの」、「緑を緑たらしめているもの」、それぞれの色のニュアンスの否定によって、「色という抽象的な一般的な概念」を得る方法である。其々のニュアンスの否定が色という概念を成立させるように、個々の事物の間の差異の消去によって、事物の統一的な理解に進もうとする哲学的思考法である。

 だが、ベルグソンによれば、本当の統一を得る方法は以上とは全く異なる。青、紫、緑、黄、赤の無数のニュアンスを、収斂レンズを透して一点に導いて白光を得るように、様々なニュアンスを含有しつつ、各々のニュアンスが由来する共通の光を出現させる方法こそが真の統一を得る道なのだ。

 以下に小林が訳出したベルグソンの言葉を一部引用しておくが、小林は昭和33年に連載を開始し、未完に終わったベルグソン論「感想」の四でも、このラヴェッソン論の一節を引用しており、「テスト氏の方法」の時と和訳が若干異なる。私は「感想」の訳文の方が日本語としてこなれていると考えており、ここでは後者から抜粋する。

 

「私達が、形而上学に求めねばならぬ一種の視覚とは、ラヴェッソン氏によれば、疑いなく、かくの如きものだ。真の哲学者の眼から見れば、古代の大理石像の熟視のなかに、哲学論文全体に散らばっている眞理より、一層多くの集中された眞理が迸るであろう。形而上学の目的は、個別の存在のなかに、特殊な光を取戻し、その特殊な光を、その光源まで辿る事にある。個別の存在に、その固有のニュアンスを与え、与えるというその事によって、普遍の光に結ばれている特殊の光を」

 (小林秀雄 全作品別巻1 感想(上)の四 平成17年2月10日 新潮社)

 

 小林は戦前、「テスト氏の方法」を発表した時は37歳であり、戦後、ベルグソン論「感想」を「新潮」に連載し始めた時は56歳である。この20年の間、上のベルグソンの言葉は小林の内部で鳴り響いていたのであり、小林秀雄の精神にとって極めて重要な一節であるのは間違いない。

 小林にとって批評とは、上のベルグソンの言葉のように、対象が文学であれ、美術であれ、音楽であれ、其々の個々の作品に固有な特殊な光を取戻し、普遍の光に結ばれているその固有な特殊な光の光源を辿る行為であったと言えよう。その意味では、小林の批評は一種の形而上学なのである。吉本隆明が言うように、敗戦後の流動する現実に耐えられなくなったから、音楽批評や美術批評に転向したわけでもなければ、敗戦による精神的な傷によって社会的現実を放棄し、美的な現実の選択を余儀なくされたわけでもない。もし本当にそうであるなら、63歳の時から12年の歳月をかけて大作「本居宣長」を完成させるはずもないのである。

 吉本はまた、「小林秀雄の方法」の最後に「かれ(筆者註;小林秀雄)の美術論や音楽論の核が、かならずこの種の体験(筆者註:大阪の道頓堀をうろついていた時、モーツァルトの交響曲40番ト短調第四楽章の主題が突然頭で鳴り響き、脳味噌に手術を受けたように感動に震えた体験)からできており、そこから対象の解明へつきすすみ、またこの種の美にアレストされた体験的な真へまいもどって終ることに注意しなければならない」と述べ、「小林秀雄にとって美は歴史の必然の代同物」と断じている。

 だが、ベルグソンの言うように「形而上学の目的は源泉に遡ること」(「思想と動くもの」)にあり、知性以上の「情動・感動(エモシヨン)」から知性や意志が生じる以上、その種の知性以上の情動の体験に遡り、そこから意志や知性による推進力を得て再度知性以上の情動に回帰するのは当然の精神の運動とも言えるのである。

 吉本隆明と深い交流のあった鮎川信夫は、「固窮の人」という題で、吉本の人となりについての小エッセイを残しているが、その中で、まだ吉本が30歳前後の頃、二人で駒場の民芸館へ出掛けた時の思い出話を記している。鮎川には「美しいとしか言いようがない」ように思えた陶器を前にして、吉本に感想を訊くと、直ぐに「ラーメン屋のどんぶりだって、何百年かたてばこうなりますよ」という答えが返ってきたという。この逸話には、小林秀雄とは決定的に違う資質を感じさせるものがあるが、それ以前に骨董や造形美術に纏わる俗世間的な価値観を意識的に拒否しようとする頑なさがあり、同時に、自分にとって未知の世界に対して少しも理解しようとする姿勢を示さずに、即座に斬って捨てるような傲慢さも感じられる。

 小林秀雄は一時期、骨董や造形美術に精魂を傾けて、半ば生業のような時期もあったらしく、古美術に関するエッセイも少なからず書き残しているのに、吉本は小林秀雄のそのような側面を一切捨象している。青少年期から小林秀雄の愛読者であったにもかかわらず、歪んだ小林秀雄像を描き出してしまう結果になったのは、吉本のそのような頑なな性格にも遠因があるように思えてならない。

 

「人間の歴史は、必然な発展だが、発展は進歩の方向を目指してゐるから安心だと言ふのですか。では、人類に好都合な発展だけが何故必要なのでせう。歴史の必然といふものが、その様な軽薄なものではない事は、僕等は、日常生活で、いやといふ程経験してゐる筈だ。死なしたくない子供に死なれたからこそ、母親の心には子供の死が必然な事がこたへるのではないですか。僕等の望む自由や偶然が、打ち砕かれる処に、その処だけに、僕等は歴史の必然を経験するのである。僕等が抵抗するから、歴史の必然は現はれる、僕等は抵抗を決して止めない、だから歴史は必然な事を止めないのであります」

 (新訂小林秀雄全集 第七巻 歴史と文學 新潮社 昭和53年11月25日 「歴史と文学」[初出『改造』昭和16年三月號、四月號])

 

 上の一節は、5月28日に「平野謙の小林秀雄論を批判する―歴史と文学について―」と題して掲載した記事でも冒頭に引用した。記事の中でも触れたが、平野謙の小林秀雄論批判から開始したのは、吉本隆明の小林秀雄論の中に、平野謙の批評の影響が窺える一節があったからでもある。その点については後述するが、吉本の批評は、すでに述べたように、終戦から16年後の昭和36年に発表されたものであり、上の一節に対する批判も、大東亜戦争開戦前で時局を慮った平野の批評より、更に強い違和感が表明されている。

 

「これはもう、生活者の異様なひとつの思想である。人間の望む自由や偶然が打ち砕かれるところにだけ、歴史の必然を体験するとすれば、歴史はかならず人間を打ち砕かなければならない。そうでなければ人間の自由はありえないからである。痛めつけられなければ欲望をかんじなくなった被虐者のように、現実から異常な事件によって痛めつけられなければ、自由をかんじられない生活者の思想がここにある。このかんがえは『ドストエフスキイの生活』の序文である「歴史について」のなかにも展開されているから、戦争期の小林秀雄には、なれしたしんだ思想である」

(「小林秀雄の方法」 吉本隆明 文芸読本「小林秀雄」 河出書房新社 昭和58年7月25日 [勁草書房『吉本隆明全著作集』7所収])

 

 吉本は、小林の「歴史の必然と自由」に関する思想を解釈する中で「歴史はかならず人間を打ち砕かなければならない。そうでなければ人間の自由はありえないからである」と述べているが、悪しき誇張表現に陥っているとしか思えない。小林は「僕等の望む自由や偶然が打ち砕かれる」と述べているだけで、打ち砕く主体が歴史だとは述べていない。

   小林が語っているのは、我々が内面で望む空想的な自由や偶然は、現実により打ち砕かれる、空想的な自由や偶然が現実の中で打ち砕かれるところに、現実の出来事の一回性という痛切な認識が生じ、また、一度切りの出来事を愛惜する感情が醸成されるからこそ、その出来事は歴史として蘇る、つまり、歴史の必然を経験するという、歴史に関する人間の原初的な経験の有り様についてである。

 吉本は、小林の「歴史の必然と自由」に関する思想を「痛めつけられなければ欲望をかんじなくなった被虐者のように、現実から異常な事件によって痛めつけられなければ、自由を感じられなくなった生活者の思想」と評しているが、ここまで来ると誇張を通り越して歪曲の域に入っている。批評は自己の鏡とも言えるが、以上のように吉本が表現する時、戦前は軍国青年であった吉本自身の残像がこのような誇張表現を齎しているのではないかとさえ思えてくる。

 吉本は後段の文章で、小林秀雄における自由と必然の関係を「被虐的」と形容しているが、小林はごく日常的な経験の中から学んできた知恵を語っているに過ぎない。そもそも、「歴史と文学」という講演録の中では、小林は、自由の問題を突っ込んで論じていない。

 私はこの記事を書くために、『ドストエフスキイの生活』の序の「歴史について」も読み返してみたが、この序文でも、歴史の必然と自由の問題については論じておらず、「小林秀雄の方法」を執筆した当時の吉本の記憶違いである。

 小林が歴史の必然と自由の関係について触れたのは、「文學と自分」という講演録の最後の段においてである。

 

「扨て、もうお話しする事がなくなった様でありますが、歴史の流れをそのまゝ受け容れると言ふが、歴史の流れとは必然の流れであらう。それなら人間の自由は何處にあるのか。自由は空想のうちにしかないのか。さういふ疑問にお答へしないでお話しを濟すわけにも参らぬ様であります。僕にお答へする資格があるかどうか甚だ疑問だし、又解って戴けるかどうかも解りませんが、お話ししてみます」

(新訂小林秀雄全集 第七巻 歴史と文學 新潮社 昭和53年11月25日 「文學と自分」[初出『中央公論』昭和15年11月號])

 

 以上のように前置きしたうえで、大野道賢入道の逸話と吉田松陰の辞世の歌を紹介し、前者については「眞に自由な人生とは、有りそうな話でも有りそうでもない話でもない」という言葉を添え、後者については「人間の眞の自由といふものを歌った吉田松陰の歌」と寸評を加えているだけである。

  この件については、拙ブログ「昭和21年の小林秀雄の発言をめぐって その6」ですでに解説したので、興味のある方はお読み頂きたいが、小林はここでも歴史の必然と自由の関係について正面切って論じてはいない。上に挙げた文章にも、自由の問題は非常に微妙なので、敢えて抽象的な言葉で饒舌に語るのを回避している気配がある。

 小林が歴史の必然と自由の問題について明確に述べたのは、昭和21年1月の近代文学同人との座談会で本多秋五の質問に応えて、次のように語った時である。

 

「君のいう意味がはっきりしないが、――必然性というものは図式ではない。僕の身に否応なくふりかかってくる、そのものです。僕はいつもそれを受入れる。どうにもならんものとして受入れる。受入れたその中で、どう処すべきか工夫する。その工夫が自由です」

(文芸読本「小林秀雄」 「コメディ・リテレール 小林秀雄を囲んで」 河出書房新社 昭和58年7月25日)

 

 ここで語られているのは、ごく普通の生活者の知恵であって、吉本が「被虐的」と評するような異様な感じは少しもない。吉本の「痛めつけられなければ欲望をかんじなくなった被虐者のように、現実から異常な事件によって痛めつけられなければ、自由を感じられなくなった生活者の思想」という批評から浮かび上がってくるのは、吉本の側の強い思い込みから生じた、歪んだ小林秀雄の像である。

 

 吉本は続けて次のように言う。

 

「じっさいは小林秀雄のいうところとは逆である。わたしたちが現実から自立し自由であるとふるまうところにしか、歴史の必然はおとずれない。もし、わたしたちの思想が、歴史や現実をあるがままと考えるなら、偶然の連鎖のなかでしか生きていないことになる。死なしたくない子供が死ぬのは偶然のつみかさなりとみえるから、母親はその偶然のひとつがもしも他の偶然におきかわっていたらとおもい嘆くのである。もしも、あのときこうではなくああしていたら子供は死ななかったかもしれないというように」

(「小林秀雄の方法」 吉本隆明 以下同上)

 

 私には、吉本の「現実から自立し自由であるとふるまう」という表現はかなり奇矯に思える。私たちは自らの意識によって「現実」を不変なものとも可変なものとも認識することは可能である。だが、「現実」から「自立」することなどできはしない。ある人の考え方や態度を、「現実」に対し肯定的であるとか、従属的であるとか評することはできるだろう。逆に、「現実」に対し否定的であるとか、「現実」に対し超然としているという見方もできよう。だが、「現実」に対して「自立」するという言い方はかなり奇異な表現である。「現実」とは、生きるうえで常に付き纏うものであり、意識と「現実」の相互交渉なしに生きることなどできないからである。

   吉本に「自立の思想的拠点」という題名の論文があるが、たとえこの「自立」という言葉があくまで思想の言葉として用いられているにせよ、「現実から自立し自由にふるまうところ」とは、実生活を捨象した上に成り立つ思想上の架空の地点でしかない。だが、実生活を捨象した思想上の架空の地点に、歴史上の必然を招き寄せる力があるだろうか。

 もう一つ、指摘しておきたいのは、吉本が「現実から自立し自由にふるまう」と言う時、あるが儘の「現実」とは従属を強いるものであるという認識が前提になっているということである。だが、あるが儘の「現実」を受容することは、必ずしも現実に従属することを意味しない。更に言えば、どのような思想も思想である限り、様々な出来事の連続を「偶然の連鎖」と見做すことなど出来ない。

 

  吉本は、恐らく平野謙の小林秀雄論の影響もあって「死にたくない子供が死ぬのは偶然のつみかさなりとみえるから、母親はその偶然のひとつがもしも他の偶然におきかわっていたらとおもい嘆くのである」と論じている。この件については、5月に掲載した「平野謙の小林秀雄論を批判する―歴史と文学について―」の中ですでに詳細に論じたので未読の方はお読みいただければ幸いである。  

  小林秀雄が「死なしたくない子供に死なれたからこそ、母親の心には子供の死が必然な事がこたへるのではないですか」と述べたのは、母親が子供を愛しているからこそ、子供が亡くなったという出来事が、歴史事実としての意味を持つという文脈においてであった。小林は「歴史と文学」の中で、歴史事実とは「嘗て或る出来事があったというだけでは足らぬ、今なおその出来事が在る事が感じられなければ仕方がない」と述べている。

  子供を失った母親にとって、子供の死を齎した偶然の連鎖の中の一つが他の偶然に置き換わっていたらと思い巡らすような理知的な思考では、子供の死という出来事は確実なものにはならない。すなわち、歴史事実としての意味を生じない。子供に死なれた母親には子供の死の要因をあれこれと考えながら思い嘆く状態よりも、もっと深い悲しみの感情の層がある。言わば、絶対的な喪失の経験に伴う愛惜の情が、母親の眼前に、子供の面影を今も生きているかのように蘇らせ、死んだ子供という歴史事実を確実化する、すなわち、歴史の必然を経験させるという逆説的事情を小林は語っているのだ。平野謙や吉本隆明は、以上のような小林の思想を理解できなかったか、或いは理解しようとしなかったのである。

 

    晩年、小林は河上徹太郎との対談の中で「歴史の魂はエモーショナルにしか掴めない、という大変むつかしい真理さ」と語っているが、すでに戦前から、歴史認識の問題を単に理性的、論理的には捉えず、エモーション(情動)との関わりの中で歴史を把握しようとしていた。「歴史は二度と繰返しはしない。だからこそ僕等は過去を惜しむのである。歴史とは、人類の巨大な恨みに似てゐる」(「歴史と文学」)という言葉にも、エモーションの要素を重視する小林の歴史についての考え方がよく表れている。

    晩年の小林の歴史に関わる思想には、「身ニ得ル」「心志身体、潜カニコレニ化スル」という言葉で歴史を体得する道を説く荻生徂徠の思想や、émotion(仏語ではエモシオン;情動)には知性以上の情動と知性以下の情動があり、知性以上の情動こそ、人類を歴史の新たな段階に導いてきた原初的な牽引力(「道徳と宗教の二つの源泉」)であるとするベルグソンの思想が影響しているのは確かであろう。

 

 吉本は「小林秀雄の方法」の中で更に次のように歴史についての思想を披歴している。

 

「わたしたちが、歴史の必然をものにしたいのならば、わたしたちの思想が社会や国家や権力や、そういうもろもろのものから自立していることが必須の条件である。しかし一方で、わたしたちのなかの生活者は、いつもこれらのもろもろのものと関ることによってしか生きていない。ここに過渡的な問題の全てが表れる」

(同上)

 

 吉本によれば、思想が、社会や国家や権力等に従属している状態では、歴史の必然は到来しない。我々は歴史の必然を招き寄せるために、窮極的には「社会や国家や権力、そういうもろもろのものと関らない状態」を思想的に目指さなければならない。社会や国家や権力等と関る状態を「過渡期」と規定する限り、当然そうなる。吉本の思想は、一見、社会や国家や権力等からの解放を目指しているようでいて、逆に一つの必然の道筋へ人を縛り付けるような息苦しさを感じさせるのである。

 

「わたしたちが、現実から背かれ、あるいは背いているということを自覚するとき、偶然の連鎖のようにしかみえない歴史は、ひとつの必然の過程へととびうつる。近くでみているとどこへいくのかまったくわからないようにみえた蟻のむれが、眼をはなしてみると、巣の方へ向っているのを知るように」

(同上)

 

 吉本の思想によれば、「偶然の連鎖のようにしかみえない歴史」を必然へと転化させるには、現実から背かれるか、現実に背いていると自覚しなければならない。我々が現実から否定的に処されるか、現実に対し否定的に振舞わなければ、我々が歴史を必然の過程と認識する契機は訪れないことになる。

 私は、吉本の歴史に関する考え方に、ヘーゲル―マルクス系統の思想がどの程度影響を与えているか、今検証するだけの余裕を持っていない。だが、少なくとも、次のような点は指摘できると思う。第一に、吉本の歴史の必然に関する認識には、理性による論理や直覚力は働いているかも知れないが、エモーショナルな要素は関わっていないということ、第二に、蟻の行進を俯瞰したイメージは、人間の歴史における必然を語る比喩としては適切ではないということだ。

 

 私は、吉本の上の歴史に関する思想については、ベルグソンの次のような言葉が本質的な批判となり得ると考える。ベルグソンは道徳について論じているのだが、この場合、歴史と置き換えても、十分批判として通用する言葉である。

 

「道徳を論理の尊重のうえに基礎づけようという抱負は、思弁的な事柄について論理の前に叩頭(こうとう)し慣れている哲学者や科学者、したがってまた何事においても――それも人類全体に対して――論理こそ至上の権威を持つものと思い込みがちな哲学者や科学者のうちに生じえたものにすぎない」


  

「われわれが個々の人物には関心を持っていなくても、今日、文明を持った人間社会が受け容れている道徳の一般的法式は残っている。この法式には二つのものが含まれている、――すなわち、一つは社会の有無を言わさぬ非人格的要求から発せられる命令の体系。他は、人類にあっておよそ存在した最善のものを代表する個性がわれわれ一人一人の良心へ放った呼びかけの総体。はじめの命令に結合している責務のほうは、その起源と基礎とのうえから、知性以下のものである。これに反して、かの呼びかけの持つ効力は、かつて喚起された、また今日もなお喚起されつつある、あるいは喚起可能な情動の力から出てくるものであり、この情動は、それが好きなだけ観念へ直されるという理由だけからでも、観念以上のものと言える。つまり知性以上のものである」

 

(「道徳と宗教の二つの源泉」 第一章 道徳的責務 主知主義について 森口美都男訳  世界の名著 64 責任編集 澤潟久敬 中央公論社 昭和54年1月20日)  

 

 

*先日、某書店で確認したが、吉本隆明の最初の小林秀雄論「小林秀雄の方法」は、晶文社から刊行されている吉本隆明全集では「小林秀雄 その方法」と題名が変更されていた。
















 6月21日(日)夕刻から一斉に咲き始めた月下美人計14輪。久しぶりに夜も撮影できて良かった。オレンジ色の花も一緒に花を咲かせた。