安易に使われ過ぎている

‟保守”という言葉

   昨年九月の総裁選の頃、憲法学者で保守派の論客としても知られる八木秀次氏が、最近の政治家は「猫も杓子も保守を自称する」などと苦々し気に総裁候補であった河野太郎氏を批判していた。確かに昨今、保守という言葉は余りに安易に曖昧に使われ過ぎている。以前、岩田温氏がリツィートして窘めていた或る人のツィートの中に「保守左翼」という言葉が出て来て唖然とした覚えがある。

   私も以前に、「保守ラディカリズム」という言葉を使ったことがある。この言葉も学問的に見ると、保守とラディカリズムを接合した珍妙な造語ということになるのかも知れない。トランプ前大統領もポンペオ前国務長官も左翼を批判するツィートの中でよくradical leftと表現しており、conservativeとradicalは対極的な意味で使っている。その意味で欧米の政治思想からみれば、矛盾した言葉になるのだろう。

  「保守ラディカリズム」という言葉は、江藤淳を念頭に置いて、戦後の言論空間の中では真正の保守はラディカルにならざるを得ないという趣旨で用いた。この場合のラディカリズムとは根本的という意味で、左翼的意味合いはない。江藤も、吉本隆明との対談の中で吉本の「あの『昭和の文人』というのも、あれはラジカルですね(笑)、ものすごいラジカルですね」という感嘆の言葉に応えて「それはラジカルではあります。ラジカルであることは間違いないです」1)と述べ、自身のラディカリズムを認める発言をしており、必ずしも不当な言葉とは思っていない。

 

江藤淳は何故ラディカルに

ならざるを得なかったのか

   江藤淳は何故ラディカルにならざるを得なかったのか。戦後、出版物や放送の検閲を通じて戦前の我が国の精神史を封殺したGHQやその占領政策に迎合した左翼アカデミズムや大手マスコミが、人工的に禁忌を設け、戦前と戦後はあたかも断絶しているかのような擬制的な言語空間を作り出しているのに気付いたからである。江藤淳は、戦前の歴史の真実を封印した戦後の言語空間の中では、言葉は歴史の中で培われた文化的実質を失い、「言葉の意味がはじから消えてしまう」2)とさえ考えていた。「キツネからもらった小判のような言葉」3)とまで形容している。

  注意すべきは、こういう江藤の確信は、新聞紙上で長年に亘り文芸時評を担当して夥しい作品を読み解き、批評していく中で深められたのであって、単に興味や関心が文学から政治や外交問題に移行した結果ではないということだ。江藤は、「閉ざされた言語空間-占領軍の検閲と戦後日本」の中で次のように回顧している。

 

「昭和44年の暮から昭和53年の晩秋まで、私は毎月『毎日新聞』に文芸時評を書いていた。それは三島由紀夫の自裁にはじまり、〝繁栄〟のなかに文学が陥没し、荒廃して行った九年間だったが、来る月も来る月も、その月の雑誌に発表された文芸作品を読みながら、私は、自分たちがその中で呼吸しているはずの言論空間が、奇妙に閉ざされ、かつ奇妙に拘束されているというもどかしさを、感じないわけにはいかなかった。

 いわば作家たちは、虚構のなかでもう一つの虚構を作ることに専念していた。そう感じるたびに、私は、自分たちを閉じ込め、拘束しているこの虚構の正体を、知りたいと思った」4)

 

  江藤が近代文学同人の本多秋五との間で「無条件降伏論争」を繰り広げたのは昭和53年(1978)、毎日新聞の文芸時評の紙面においてであった。この論争は、昭和30年代初頭に筑摩書房版「現代日本文学全集」の別巻所収・現代日本文学史「昭和」編の中で、平野謙が書き記した以下の文章を、江藤が批判したところから始まった。すなわち、平野の「日本が無条件降伏の結果、ポツダム宣言の規定によって、連合軍の占領下におかれることとなったのは、昭和二十年(一九四五)のことである」という記述を、江藤は「重大な事実の誤認がある」と指摘したのである。

  江藤の主張を大まかに纏めると次のようになる。ポツダム宣言においては、「日本国軍隊の無条件降伏」を宣言するよう求められたのであって、「日本国の無条件降伏」を要求されたわけではない。従って、日本国は「主権を維持しつつ約束ずくで」降伏したのである。ポツダム宣言にそれ以前のカサブランカ声明等による「無条件降伏の精神が底流した」などとする本多秋五の主張は、江藤に言わせれば「牽強付会の妄説」ということになる。この論争等を通じて、江藤は、本多や平野ら近代文学同人の「無条件降伏説」が、実はポツダム宣言自体にではなく、GHQによる「占領政策の実施過程」に内在していたのを見出したのである。5)

  江藤はこの年の12月に「占領史録」研究会を立ち上げるとともに、翌昭和54年(1979)から、後に「落葉の掃き寄せ」に纏められることになる、占領下の検閲と文学に関する一連のエッセイの発表を開始した。そして、同年10月から米国ワシントンD.C.にあるウィルソン研究所に国際交流基金研究員として赴任し、国立公文書館、同分室、メリーランド大学中央図書館で、戦後GHQが行った検閲の実態に関する原資料の調査に当たり、参謀第二部所属の民間検閲支隊(CCD)による検閲指針の文書を発見するに至ったのである。

   前回の「新版・日本国紀」の書評でも述べたが、百田尚樹氏が同書において、二度にわたって江藤淳の功績に触れ、「閉ざされた言語空間-占領軍の検閲と戦後日本」について「言論史を塗り替える画期的な本」6)と高く評価しているのも、GHQによるウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムの実在性に関する百田氏の主張が、少なからず江藤の先行研究に負っている事を百田氏自身がよく認識しているからである。

   江藤は、この3年後、昭和57年(1982)の4月に行われた吉本隆明との対談の中で、何故文学者が占領期の統治構造の実証研究に血道をあげるのかという趣旨の疑問を投げかけられ、自分にとってこの仕事は何ら「政策科学的な提言」ではなく、「文学」であり、「結果的にある持続を確認したい」「公明正大な知的空間を再建したい」ためだと答えている7)。この場合の「持続を確認する」とは〈戦前〉と〈戦後〉があたかも明確に断絶しているかのように仮構された言語空間に抗し、歴史の持続の感覚を取り戻そうとする営みであった。

  前回、小林秀雄の言う“歴史感覚”について若干解説を加えたが、江藤淳は、究極的に言えば、こういう歴史の持続の感覚を取り戻すためにこそ、占領軍の統治構造と検閲に関する実証研究に向かわざるを得なかったのであり、そのためにこそラディカルにならざるを得なかったのだ。百田尚樹氏も同様で、歴史の持続の感覚を取り戻し、また、読者に歴史の持続の感覚を取り戻してもらいたいからこそ、文庫版で上下計約800頁に亘る日本通史を書き上げて刊行したのだと言えよう。

 

王政復古で実現した

保守とラディカリズムの一致

   そもそも我が国の歴史は、この保守とラディカリズムの一致を明治維新の折に王政復古の大号令によって見事に実現している。この点は井上勲博士が「王政復古」(中公新書)の結語8)の中で鮮やかに分析しているのでその趣旨を紹介しておこう。

   井上氏によれば、ある時代の秩序の崩壊期には、「存立の原理」に立ち返って「秩序の再構築」を図ろうとする気運が生まれてくる。秩序の崩壊が進めば進むほど、「存立の原理」の生誕の時が意識され、後の時代に付加された様々な制度を意匠とみなして、「存立の原理」の生誕の時に立ち返って秩序を再構築しようとする構想力が求められるようになる。と同時に、「存立の原理」が秩序の再構築を正当化する根拠ともなる。復古という歴史の始原の時への回帰が、逆説的に革新の遂行を促すのである。

  本書によれば、ペリーの黒船来航以来、江戸幕府の内部でも復古運動はあった。文久二年の幕政改革令は、寛永以前に復古しようという主旨であり、幕府はさらに慶長・元和の時代に復古の時を求めた。これに対して、尊攘派志士達、例えば、久坂玄瑞は、延久年間、後三条天皇の治世(治暦四年[1068]~延久四年[1072])の時代への復古を訴え、山縣狂介(後の有朋)は皇極四年から大化元年[645]に改元された年、乙巳の変の時代への復古を提言した。徳川慶喜を蘇我入鹿に擬えたのである。そして、慶喜の大政奉還後、王政復古においては、遂に神武創業の時代への復古が宣言された。岩倉具視が国学者玉松操の意見を容れた結果であった。

  岩倉は後醍醐天皇の治世を参考にしようとする公家達の意見を「建武中興の制度は、以て模範となすに足らず」と退け、摂関制度、幕府の廃絶に加え「内覧・勅問御人数・国事用掛・議奏・武家伝奏、京都守護職・京都所司代、くわえて摂簶つまり五摂家の制と門流」の廃止を宣言した。

  以上のように、諸外国の脅威に伴う幕末の動乱によって江戸幕藩体制という秩序の崩壊が進めば進むほど、尊攘派の公家や志士達、岩倉具視始め後に明治の元勲となった政治指導者たちは、より遠い過去に遡及して「存立の原理」を求めた。そして、とうとう王政復古の大号令においては、遥か悠久の神話の時代、神武帝創業の御世にまで遡って「存立の原理」が打ち立てられた。そうでなければ、幕府と摂関制、それらに伴う「制度・組織・慣行の集積」を廃絶できず、新しい時代の政治体制という秩序を構築できないと考えられたからである。換言すれば、維新後に新政府が成就した廃藩置県、四民平等、国民徴兵等の革命的政策は、神武創業期への復古という政治理念がなければ、実現できなかったと考えるのが至当である。

   昨今、ネット上では、徳川慶喜は薩長討幕派によって朝敵に仕立て上げられたとする陰謀論が盛んである。確かに中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之、岩倉具視によって“討幕の密勅”が秘かに作成され、慶喜は慶應三年十月に大政奉還の上書を朝廷に提出したにもかかわらず朝敵にされ、慶應三年末の王政復古を宣言する朝廷会議からも排除されたのは明らかな史実である。

   しかし、もし仮に慶喜が朝廷会議に参画して維新後も政治生命を維持していれば、維新後にあのようにラディカルな改革を次々と実行できたであろうか。慶喜が、朝廷会議に参画すれば、幕藩体制や摂関制の長い歴史の中に蓄積された「制度・組織・慣行の集積」をあれほど大胆に廃絶することはとうてい不可能であったろう。

 

フランス革命とは

根本的に異なる明治維新

  以上のように見てくると、明治維新はその改革のラディカリズム、つまり急進的かつ根本的な点において左翼の志向する革命に一見似ている。実際、文芸評論家で優れた評伝作家でもあった村松剛は、木戸孝允の評伝「醒めた炎」の中で明治維新について次のように評している。

 

「維新政府はいくどもいうけれど単に徳川政権を倒し、七百年余にわたってつづいた武家政治に終止符を打っただけではなく、千年の歴史をもつ摂関制を廃止し、公武双方の特権を奪って日本史上はじめての国民国家をつくり上げた。短時日のうちに、しかも比較的少い流血をもってこれだけの大事業をなしとげたのであって、世界史上特筆にあたいする大革命だろう」9)

(太字;引用者)

 

   筆者はこの村松剛の言葉に共感する。だが、この革命は、左翼のように過去の歴史や伝統を全否定する革命ではなく、過去の歴史の尊重の上に、つまり、我が国の歴史の連続性を認めた上で秩序の誕生期にまで遡及して成立するのであるから、左翼の革命とは本質的に異なる。

   保守派の中には、英国保守主義の祖エドマンド・バークがフランス革命を批判したように、日本の明治維新の革命性や急進性を批判する人々がいるが、全くの見当違いである。ジャン・ジャック・ルソーの「社会契約論」に思想的淵源があるフランス革命では、王権が全否定され、ルイ十六世や王妃マリー・アントワネットが処刑されたが、日本の明治維新は、皇室の万世一系護持を秩序の根幹として成立しており、全く似て非なるものである。

   尊攘派の志士たちや明治の元勲たちは皆、日本の古代からの歴史を尊び、歴史上のある時代を理想の治世とする憧憬を有していた。逆説的に言えば、明治維新という大革命は、皇室の万世一系が護持されていたからこそ成就した。そのラディカリズムは、古代の神武創業期からの我が国の歴史の持続の感覚の上に成立したと言える。

 

持続の感覚を取り戻そうとする

保守ラディカリズム

   最後にまとめとして、保守主義と保守のラディカリズムについて私なりに定義しておこうと思う。私見では、保守主義とは、自己の裡に祖国や祖国の先人達と結び付いた歴史の時間軸が確固として定位しており、先人達が伝統の中で育んだ叡智や技を尊重し、自己の内にそれらを蘇生させつつ、今を生き、未来を拓こうとする態度や営為を指している。

   それ故、自己の裡に歴史の時間軸が確固として定位していなければ保守ではなく、その時間軸が祖国と結び付いていなければ保守ではない。マルクス・エンゲルスの唯物史観は言うまでもなく、ヘーゲル流の弁証法的歴史観やスペンサー流の進歩史観の信奉者は当然保守ではあり得ない。また、祖国と自己の歴史的時間軸を結び付けるのは情緒であって理性や論理ではない。

   保守のラディカリズムは、江藤淳の文業において明らかなように、歴史の持続の感覚を取り戻そうとする姿勢と態度の中に胚胎する。保守のラディカリズムは、明治維新が王政復古であったように、神武創業期からの我が国の歴史の持続の感覚の上に成立する。

 

 

[引用・参考文献]

1)  江藤淳 連続対談「文学の現在」所収「文学と非文学の倫理」258頁 河出書房新社 1989.5.20

2) 3)「難かしい話題」吉本隆明対談集所収「現代文学の倫理」69頁 青土社 1985.10.5

4)「閉ざされた言語空間 占領軍の検閲と戦後日本」 江藤淳 8頁 文藝春秋 平成元年八月十五日

5)「全文芸批評〈下巻〉」 江藤淳 383~385頁、421~427頁 新潮社 平成元年十一月二十八日 

6)「新版・日本国紀」下巻  百田尚樹  274頁 幻冬舎文庫 令和3年11月15日 

7)「難かしい話題」吉本隆明対談集所収「現代文学の倫理」68、73頁 青土社 1985.10.5

8)「王政復古 慶応三年十二月九日の政変」 井上勲 333~341頁 中公新書1033 1991年8月25日

9)「醒めた炎(四)」 村松剛 161頁 中公文庫 1991年10月31日 

 

  

 

 


*昨年の総裁選で河野太郎氏は自分の保守観を説明した際、「地域に古くからあるものに新しいものを付け加えていく」と言った。保守における「古いもの」と「新しいもの」の関係は本来、このように足し算で表せるものではない。「古いもの」は「古い」まま存在するのではなく、自分の内部で「新しいもの」として蘇らせることができなければ保守主義とは言えない。

 

*日本維新の会も、「維新」を標榜しながら歴史について語らない。創設者である橋下徹氏や代表の松井一郎氏が、明治維新の頃の政治家について敬意の念を表しつつ語るのを聴いたことがない。仮にも「維新の会」を名乗るなら、近現代史の象徴とも言える靖國神社への参拝を公約にすべきであり、近現代史の歴史的展望の中で、党の理念を語るべきである。