中野重治の詩をめぐる

江藤と吉本の読みの対立

   前回、吉本隆明が江藤淳の「昭和の文人」について、昭和63年(1988)に行われた「文学と非文学の倫理」という対談の中で「あれは物凄いラジカルですね」と感嘆の声を上げていたことを紹介したが、吉本はその3年後の平成3年(1991)に刊行した「新・書物の解体学」の中で、この「昭和の文人」について7頁にわたって比較的詳しく論じている。

  吉本は、本書について自由な保守主義の台頭と左翼勢力の退潮という現在を先駆的に告げる書として全般的には肯定的に評価しているのだが、一か所だけ、江藤の読みを明確に「誤読」と指摘した部分がある。その部分とは、中野重治の「雨の降る品川駅」という詩についての江藤の批評に関してであった。孫引きになるが、まずその詩を以下に引用してみよう。

 

辛よ さようなら

金よ さようなら

君らは雨の降る品川駅から乗車する

 

李よ さようなら

も一人の李よ さようなら

君らは君らの父母の国にかえる

 

君らの国の河はさむい冬に凍る

君らの叛逆する心はわかれの一瞬に凍る

 

海は夕ぐれのなかに海鳴りの声をたかめる

鳩は雨にぬれて車庫の屋根からまいおりる

 

君らは雨にぬれて君らを逐う日本天皇をおもい出す

君らは雨にぬれて 髯 眼鏡 猫背の彼をおもい出す

 

ふりしぶく雨のなかに緑のシグナルはあがる

ふりしぶく雨のなかに君らの瞳はとがる

 

雨は敷石にそそぎ暗い海面におちかかる

雨は君らのあつい頬にきえる

 

君らのくろい影は改札口をよぎる

君らの白いモスソは歩廊の闇にひるがえる

 

シグナルは色をかえる

君らは乗りこむ

 

君らは出発する

君らは去る

 

さようなら 辛

さようなら 金

さようなら 李

さようなら 女の李

 

行ってあのかたい 厚い なめらかな氷をたたきわれ

ながく堰(せ)かれていた水をしてほとばしらしめよ

日本プロレタリアートの後(うしろ)だて前だて

さようなら

報復の歓喜に泣きわらう日まで

 

 江藤淳はこの詩が好きで、大学へ講義に向かう途中、品川駅のプラットフォームに佇んでいる時によく思い出していたという。「昭和初期の詩歌」について講義していた折にも、学生の前でこの詩を朗読中に、突然胸が締め付けられるような思いがして読み続けられなくなったという思い出を、「〝辛よ、金よ、李よ、…〟」の章の前半部に記している。

   無論、江藤は「日本プロレタリアート」という言葉に込められたイデオロギーに共感しているのではなく、「さようなら 辛/さようなら 金/さようなら李/さようなら 女の李」という詩句の響きに、思いがけなくもある「戦慄」を感じたために朗読を中断せずにはいられなかったのである。

 この詩に対する江藤の批判的分析の要点は、前半の「さようなら 辛/さようなら 金/さようなら 李/さようなら 女の李」の詩句には存在する日本人と朝鮮人の間の「超えることができない距離」が、最後の連の「日本プロレタリアートの後だて前だて」という呼び掛けの詩句によって、「あたかも距離が存在しないか解消可能であるかのような錯覚を作り出している」ところにあった。

「日本天皇の臣民」であることを強いられ差別され、「屈辱と憤怒と悲しみ」にまみれながら、「ふりしぶく雨のなか」を品川駅から「父母の国」へ向かう「辛」や「金」や「李」や「も一人の李」にとっては、「日本天皇」への反抗は、「祖国への忠誠」に対する裏切り行為にはならない。だが、中野重治は、「好むと好まざるとにかかわらず」、日本天皇の「正統的な臣民」であり、「報復の歓喜に泣きわらう」とは、明らかに「日本天皇」への「叛逆」である。「日本国臣民」である中野重治と「辛、金、李、も一人の李」の間には決して超えることができない距離が存在するにも拘らず、中野は「日本プロレタリアートの後だて前だて」という詩句を挿入することによって、両者の間に厳然としてあるはずの距離が存在しないかのような錯覚を拵え上げている。江藤は、中野重治のこのような朝鮮人への強い同一化願望の背後には、日本人であることを恥じ、日本人であることを否定しようとする「熾烈な変身願望」が存在していたと洞察するのである。1)

 

 以上のような江藤の読みについて、吉本は、「新・書物の解体学」の中で「左翼的な思考方法や語彙の使い方に慣れていないための誤読」と評し、次のように批判している。

 

「このばあい左翼的な常識では、『辛』や『金』や『李』も一個の人間(性)であり、中野重治もまた一個の人間(性)であり、その同体感覚は普遍的な人間性からくるので、人種や民族の異同からくるのではない。それが国際プロレタリアートの連帯感情の源泉だと考えるのが、左翼の常識だとおもう。この本の著者は意識的にも無意識的にも、民族人種という概念を強力に押し出すことで誤読することになっている。そして、普遍人間性などは民族感情や国家感情を受肉することでしか成り立ちようがないので、抽象的な普遍人間性などは偽の実体だと主張しているのだとおもえる」2)

 

 筆者が、中野重治の「雨の降る品川駅」に対する江藤の批評を要約して紹介してきたのも、江藤の読みを「誤読」と論評する吉本の批評の中に、左翼的思考の致命的な欠陥が潜んでいるのではないかと考え、その点を指摘しておきたかったからだ。

  吉本は、中野重治が「雨の降る品川駅」の中で、「日本プロレタリアートの後だて前だて」という詩句で、中野自身と「辛」、「金」、「李」、「もう一人の李」を同一化しているのは、左翼の場合、民族や人種の相違を超えて同じ一個の人間(性)であるという同体感覚に基づいた国際プロレタリアートの連帯感情があるからだと解説している。江藤淳はそのような左翼の思考方法に慣れていないために、中野重治の「日本プロレタリアートの後だて前だて」という言葉を、日本人と朝鮮人の間に厳然としてある距離が存在しないかのように錯覚させる「詩的なレトリック」とのみ解しており、これは明らかな誤読だと批判しているのである。

  だが、果たして本当に吉本の批判は当たっていると言えるだろうか。筆者は、以下に箇条書きにして吉本の「誤読」という指摘を批判しておきたい。

 

①   「左翼的常識」に基づいていないから「誤読」と言えるか

  言うまでもない事だが、吉本の言うように中野重治の「日本プロレタリアートの後だて前だて」という詩句が「左翼的な常識」や「国際プロレタリアートの連帯感情」から発せられた言葉であるとしても、この詩句が、中野重治が福井県坂井郡高椋村(現坂井市丸岡町)一本田で生まれ、この村の小地主でもあった父藤作の次男であるという事実を覆せる訳ではない。中野重治は日本国籍を持つ「天皇の臣民」であり、中野重治と、「辛」、「金」、「李」達、朝鮮人では「叛逆」という言葉の持つ意味や性格が自ずと異なってくるからである。

 

②   「後だて前だて」の微妙なニュアンスを見逃していないか

   吉本の解説通り、「日本プロレタリアートの後だて前だて」という詩句について、中野重治と『辛』や『金』や『李』の間に生じている「同体感覚」が普遍的な人間性からきており、「同じ一個の人間(性)であることに由来するプロレタリアートの連帯感情」の表現であると仮定してみよう。では、何故「後だて前だて」という言葉が「日本プロレタリアート」の言葉の後に付け加えられているのだろうか。実態はどうあれ、中野重治には、『辛』や『金』や『李』が朝鮮人として日本人プロレタリアート以上に虐げられ差別されているという意識があるからこそ「後だて前だて」という言葉が付加されていると思われる。やはりこの詩句には中野重治の微妙な民族人種意識が反映されていると見るべきである。

 だからこそ、江藤淳は「ここには、『辛』や『金』や『李』や、『女の李』に対して、『日本プロレタリアートの後(うしろ)だて前だて』と呼び掛けることにより、彼らがあたかも同胞であるかのような印象をつくり出し、そのことによって逆に自己の立脚点を、一挙に朝鮮人と同一化させてしまおうとする意図が秘められている」と分析し、「もとよりこの態度は、なによりも朝鮮人であることの矜持によって生きているはずの、『辛』や『金』や『李』や、『も一人の李』に対して傲慢な態度と言わざるを得ない」と批判したのである。

 

③   江藤淳は「抽象的な普遍人間性を偽の実体」と考えていたか

  もう一つの根本的な疑問は、江藤の中野重治に対する批判が、吉本の言うように「普遍人間性などは民族感情や国家感情を受肉することでしか成り立ちようがないので、抽象的な普遍人間性などは偽の実体だと主張している」ことになるかという点である。

  私は、江藤淳は、民族や人種、国籍の相違によって本来あるはずの距離を無視して、「日本プロレタリアートの後だて前だて」という言葉で、自己と朝鮮人を強引に同一化してしまおうとする中野重治の精神を批判したのであって、民族や国家を超えた普遍人間性まで否定したのではないと思う。

  人種や民族の異なる者同士が、民族や人種の相違を超えて、普遍的な人間性に基づいて共感するのは、日常茶飯に起きている事柄であろう。外国の文学や映画に深く感動するのも、民族や人種を超えた普遍的な人間性の機微に触れるからである。これは吉本の言う左翼的な常識や思考法に拠らなくても、ごく日常的な経験の積み重ねのうちに了解される真実であり、そのような真実を江藤淳が否定するはずもないのである。

  江藤は「民族感情や国家感情を受肉しない、抽象的な普遍人間性」を認めていないのではなく、抽象的な普遍人間性による同体感覚に由来するとされる「国際プロレタリアートの連帯」などというイデオロギーを以て、民族や人種の間にある厳然たる「距離」を解消できるものではないと言いたいのだ。筆者は以下に、江藤淳が民族や人種を超えた抽象的な普遍人間性を「偽の実体」と見做していなかったことを裏付ける例を幾つか挙げて反証しておきたい。

 

在日の作家を高く

評価していた江藤淳

  江藤は、昭和45年9月、毎日新聞の文芸時評で、この2年後に芥川賞を受賞した在日朝鮮人の作家李恢成の小説「伽倻子のために」を論じて次のように述べている。

 

「この小説の焦点をかたちづくっているのは、伽倻子の内部からこのような暗いものが、一歩、また一歩とある力をもって噴き出して来る過程である。作者はこの暗さが、時代や民族などという外的要因に完全に帰し去ることのできぬなにものかであることを知っているように見える。あえていえば、それは生そのものの暗さであるが、それをとらえ得ているために『伽倻子のために』は文学作品になっている」3)

 

 上の一節で、江藤は、民族という概念を「外的要因」として捉えており、そのような外的要因に帰すことができない何かを捉え得ているからこそ文学作品として成立していると論評している。吉本の江藤に対する指摘とは全く反対に、民族感情や国家感情に帰すことができない普遍人間性こそが小説を文学たらしめると述べている。すなわち、民族や人種という概念には還元できない普遍人間性を照射できていなければ文学にはならないと自らの文学観を語っているのである。

 

 また、昭和48年11月の文芸時評では、金鶴泳の「石の道」について次のように批評している。

 

「金氏が、『凍える口』で文芸賞を受賞したのは、四、五年前のことだったように記憶する。

 それ以後、私はごく稀にしか金氏の作品を見なかったような気がするが、今度の『石の道』は、明らかにこの作家が新しい境地を開いたことを証拠立てている。

 それは、この作品が、まぎれもなく在日朝鮮人の少女を描いた作品でありながら、一個の人間を描いた作品になり得ているからである」4)

 

 江藤はここでも、在日朝鮮人であることの描写よりも、金鶴泳が普遍的な一個の人間像を描出し得ている点に評価の重きを置いている。吉本の言うように江藤が「民族感情を受肉しなければ普遍人間性は成り立ちようがない」と考えていたならば、「在日であること」の葛藤や苦悩の方に評価の重点が置かれるはずだが、江藤は、在日である無しに拘らず、より普遍的な人間性を描けているか否かで文学作品の質を評価しようとしている。このことは、江藤に、民族感情や国家感情を超えた「抽象的な普遍人間性」が信じられていた証左と言える。

 

「東西文明の落差」を超える

可能性を示唆した白鳥論

   もう一つの例として、江藤の「正宗白鳥」論を挙げておきたい。「リアリズムの源流」等に収録されている正宗白鳥論は、昭和35年(1960)に日本読書新聞に寄稿した文章と、昭和40年に新潮社版正宗白鳥全集月報に寄せた「正宗白鳥断想」という文章を合わせたものである。

   昭和37年(1962)夏、ロックフェラー財団の研究員として渡米した江藤は、秋に留学先のプリンストン大学で、正宗白鳥の訃報に接した。正宗白鳥はこの年の10月28日に83歳で亡くなった。正宗白鳥と江藤淳はこの三年前、昭和34年(1959)11月、別冊中央公論の文芸特集秋季号で対談している。当時、白鳥は80歳、江藤は26歳であった。江藤の論は、この二つの思い出も絡めて展開されている。

 正宗白鳥は、青少年期に植村正久や内村鑑三の強い影響を受け、明治30年(1897)、19歳の時に牧師植村正久によってキリスト教の洗礼を受けたが、明治34年(1901)、23歳の時に懊悩の末、棄教し、その後、本格的に執筆活動に入っている。以後、白鳥は自然主義文学の代表的作家、批評家として最晩年まで才筆を揮い続けるが、聖書は常に白鳥の座右にあった。

   白鳥が亡くなる直前に再びキリスト教に入信した事については、当時新聞でも取り上げられ、文壇でも大きな話題となった(翌昭和38年(1963)1月号の雑誌「文藝」では、「白鳥の精神」と題して小林秀雄と河上徹太郎が対談している)。この時、米国プリンストンでこれらの事実を伝え聞いた江藤淳は、同じプロテスタント系の大学であるプリンストン大の同僚や学生達と、白鳥の最後の回心を巡って「激論を闘わせた」のである。

 白鳥の信仰を、「多分日本的な信仰」であり、「正統的なカルヴィニズムの立場からはほとんど信仰とはいいがたい」と主張するプリンストン大学の同僚や学生達に対し、若き日の江藤は「正統的カルヴィニズムをもって自任するプリンストンの同僚や学生に、いったい亡き白鳥のそれに匹敵する苦悩があるとでもいうのだろうか。そういう緊張や劇のない信仰は因習ではないか」と強く反発している。

 明治以降のキリスト教の我が国への移植について、江藤の解釈は凡そ次のようなものである。明治初期に宣教師達は、「罪」という「異国の病気」を移植しようとした。キリスト教の「神」が、真実に救いの神となるのは、「罪」という業病に真に罹患した者だけである。内村鑑三のような信仰者は、「罹病し得るかどうかを問う」以前に、この「罪」を引き受けてキリスト教に帰依(commit)し、その生涯を「壮烈な実験」の場とした。正宗白鳥は青年期にキリスト教から離れたが、幼少期に聞かされた仏教の地獄のイメージからくる「漠然たる来世の不安」「漠然たる恐怖」は白鳥の「血肉のなかにひそんでいた感受性のとらえた病」であり、白鳥は生涯を通じてこの病から癒されることはなかった。だが、もしキリスト教の「神」が唯一普遍の「神」なら、白鳥を幼年期からとらえてきた「漠然たる来世の不安」「漠然たる恐怖」からも「救い得るはず」ではないか。江藤淳は、白鳥は生涯をかけてこのような問いをキリスト教の「神」に問い続けたと観ていた。「正宗白鳥」論の末尾は、次のような問いかけを含む一節で締め括られている。

 

「それは問うにあたいする問いであり、また氏以外に問う勇気のある者を持たぬような問いであった。そのあげくに、正宗氏はおそらく『神』にむかって肯いたのである。何故か。それを私は知らない。しかし、それがまことに信仰復帰なら、氏はついに観念によってでなく、その感受性に執することによって普遍にいたった、というよりも東西の文明の落差を超えたことになる。これが最も独創的な魂の実験でなくて何であろうか」5)

 

 吉本が言うように、もし江藤が本当に「普遍人間性などは民族感情や国家感情を受肉することでしか成り立ちようがないので、抽象的な普遍人間性などは偽の実体」と考えていたならば、白鳥のキリスト教信仰を「たぶん『日本的』な信者であり、ほとんど信仰とはいいがたい」と否定するプリンストン大の同僚や学生達に対し、反発して激論に及ぶことはなかったであろう。また、白鳥の信仰について「感受性に執することによって普遍にいたった」、或いは「東西の文明の落差を超えた」可能性を示唆することもなかったであろう。江藤が「国家感情や民族感情を受肉しない抽象的な普遍人間性」の在処を最初から否定していたならば、このような可能性を暗示するはずもないのである。

 

「昭和の文人」が投げかける

近現代の思想と政治の問題

  以上、江藤淳の中野重治の詩に対する批判を「誤読」と認定し、江藤が「民族や国家を超えた抽象的な普遍人間性を偽の実体と主張している」と論評する吉本隆明を批判してきた。「誤読」の件に関して言えば、吉本は、あくまで昭和初期当時の左翼的思考法や左翼の常識に照らして、江藤の読みは「誤読」だと言いたかったのかも知れないが、「新・書物の解体学」の本文中には、「左翼的思考法」や「左翼の常識」について、時代的限定を示す「当時の」などと言った言葉は一切記されていないのだから、そうした斟酌は殆ど無用だろう。

   また、吉本の江藤の読みに対する批判の文章は、「…左翼の常識だとおもう」、「…偽の実体だと主張しているのだとおもえる」などと「おもう」「おもえる」と末尾に付け加えることで、断言形を回避しているところに自身の判断に対する微かな迷いや躊躇いを感じさせる文章になっている。吉本隆明には思想的に、どうしても国家や国籍(nationality)を肯定的に捉える思想に対する拒否反応があって、その分、既成の左翼思想に心情的に加担してしまいがちな面があったように思う。

   読者によっては、何故このように中野重治の詩の読みに拘って吉本隆明批判を続けているのか不可解に思われるかも知れない。しかし、こういう細部の批評の中にこそ現代の世界状況と繋がる人間性の真実が潜んでいると筆者は考える。

   今日の世界情勢を顧みる時、吉本の言う「左翼的思考法」や「左翼的な常識」、すなわち、「普遍的な人間(性)同士の同体感覚に基づく国際プロレタリアートの連帯」なるものが、いかに欺瞞に満ちた虚偽であったか、旧ソ連や中国共産党が行ってきた少数民族への弾圧の歴史によって白日の下に暴露されてきたと言っても過言ではないだろう。とりわけ、ウイグル人に対するジェノサイドや強制労働、強制不妊、強制臓器収奪、チベットやモンゴルにおける固有の文化の破壊等によって、吉本の言う「左翼的な常識」が2022年の今日、自由と民主主義を支持する世界の「非常識」となったのはもはや明白な事実である。

 むしろ、江藤淳が中野重治の詩の中に見出したように、民族や人種の間にある「厳然たる距離」を、「日本プロレタリアートの後だて前だて」という詩句や「国際プロレタリアートの連帯」というイデオロギーで解消可能なように錯覚させる詐術にこそ、今日の中共の悪辣かつ強引な民族同化政策に繋がる「左翼的思考」の起源があると言えよう。

 江藤が「昭和の文人」において指摘したような、詩句やイデオロギーによって民族や人種の間に本来厳然としてある距離を、存在しないかのように錯覚させて「連帯」や「一体化論」を掲げる思考の詐術の問題は、単に戦前・戦後を通じた左翼の問題にとどまらず、戦前の東亜新秩序の確立論やその基礎となった大アジア主義の思想、更には明治43年(1910)の韓国併合等、近代の日本思想や政治にも通底する普遍性を有していると言えるのかも知れない。

  「昭和の文人」は、平野謙、中野重治、堀辰雄の文学の読解を通じて、「一身にして二生を経るが如く、一人にして両身あるが如し」(福澤諭吉)であった昭和という時代の構造そのものを浮き彫りにしようとした力作であるが、私は、本書が投げかける問題が、昭和という時代を超えてさらに我が国の近現代史にまで拡張できる普遍性を有しているという意味で、江藤淳の文芸批評の中でもとりわけ重要な意義を持つ作品として、今後も少数の文学愛好家や文学研究者に読み継がれていくに違いないと考えている。

 

 

[引用・参考文献]

 

1)     昭和の文人       江藤淳  38~52頁 新潮社    平成元年7月10日

2)     新・書物の解体学  吉本隆明 62~63頁 メタローグ  1992年9月1日

3)     全文芸時評 上巻  江藤淳  447頁   新潮社    平成元年11月28日

4)     全文芸時評 下巻  江藤淳  141頁   新潮社    平成元年11月28日

5)     リアリズムの源流  江藤淳  167頁   河出書房新社 平成元年4月20日