第一章:二度目の訪北
夫を迎えに、北の、閉ざされた国へ行かねばならなくなった。
家族に話せば、反対されるに決まっている。だから黙って行くことにした。まさか、これが二度目の訪北だとは、誰も想像しないだろう。
前回の帰国後、荷解きの途中で失くしたバッグを、父が見つけてくれた。
夫がよく使っていた、黒字に青のラインが入ったショルダーバッグだ。
荷物はできるだけ最小限に。小さなショルダーバッグに、着替えとクレンジングを詰め込む。キティちゃんのイラストが描かれたホッカイロは、現地の人と何かを交換するのに使えるかもしれない。
少し迷って、父がくれた柔軟剤も忍ばせた。きっと、あの土地で、家族を恋しく思う時間が訪れる気がした。
今回は、学校を休み、夜中に家を抜け出して出発する予定だ。
二階の窓から見える四面の田んぼ。苗を植えたばかりの水面が、月と街灯の光を静かに跳ね返していた。
荷造りをしながら、初めての訪北を思い出す。
ジープの車体に土や草を被せ、整備されていない道を、ライトもつけずに進んだ。草むらに潜む大勢の目が、今にも飛び出してきそうに光っていた。市場では、闇にひっそりと灯る火と声。そして、ヘリコプターで越えた国境線の風。
静かで、奇妙な決意が、胸の奥にじんわりと灯っていた。
列車に乗った。始発駅の構内はがらんとしていて、空気はやけに乾いていた。ベンチには誰も座っていない。音もなく電光掲示板の数字だけが、次々と形を変えていく。
座席は、思ったより柔らかかった。窓の外に見える風景が、次第に都会の光を手放し、山の輪郭だけを残して遠ざかっていく。
この列車がどこまで繋がっているのか、本当のところは誰にもわからない気がした。
途中で乗ってきた中年の女性が、私のバッグから覗くホッカイロに目を留めた。
「それ、北の子どもに人気あるのよ。キティちゃん。」
「そうなんですか?」
そう答えたきり、会話は続かなかったが、その人は私の斜め前の席に座り、飴玉をひとつくれた。少し梅の香りがした。
深夜の国境は霧が出ていた。
無人の検問所の前で列車が止まり、しばらくしてから警備兵がゆっくりと乗り込んできた。私は手の中のホッカイロを少し握りしめた。まだ温かい。何も言われず、車内を素通りしていく兵士の足音が、やけに大きく響いた。
一度目の訪北で見た風景が、だんだんと重なってくる。闇市の光、道なき道、無表情の看板、遠くで鳴る犬の声。
そして今、再びこの国に足を踏み入れようとしている。夫を迎えに行くために。
ふと、不安がよぎる。その国では、人ひとりを見つけるには、あまりに狭くて広い世界のような気がした。