第四章: 迎えの夜
あの少年と別れてから、私はしばらく歩いた。
彼の言葉の余韻が、耳の奥で反芻していた。
「この国では、時間は後ろにしか流れない。」
風が、地面を這うように吹き抜けていく。
日が暮れたあとの空は澄んでいて、星が、まるで整然と並んだ言葉のように静かに光っていた。
村に戻ると、道に人影が増えていた。
肩を寄せ合って話す者、ランタンを持って立ち尽くす者、家の中から誰かを見送る者。
言葉のない時間が、この場所では会話よりも意味を持っていた。
広場の奥にある建物──それは、どこか教会のようであり、学校のようでもあった。
中に入ると、冷たい空気が頬を撫でた。
「夫の記録を見せてください。」
私はまっすぐに言った。
答えを待たず、扉の奥へと導かれる。蝋燭の光だけが、記録の棚を照らしていた。
背表紙に並ぶ名もなき冊子たちの中から、一冊が選ばれた。
まるでそれが予定されていたかのように、すぐに見つかった。
私がそのページを開いたとき、胸の奥がひんやりとするのを感じた。
そこには、夫の“記憶の抜け殻”のような映像が並んでいた。
無表情で何かを運ぶ彼。凍った川の上を歩く彼。
そして、最後のページには──見知らぬ少女の笑顔と、手をつなぐ彼の後ろ姿。
「これは…?」
私は声を出すのが怖かった。
そのとき、そばにいた記録係の老人がぽつりと言った。
「この国ではね、迎えに来た人にしか“真実”が見えないんだよ。」
私は本を閉じた。手が震えていた。
——それでも、私は夫に会わなければならない。
その夜、迎えの列車が来るという噂が広まった。
地の奥から響くような音が、遠くから近づいてくる。
闇を切り裂くような音を響かせて、鉄の巨体がゆっくりとホームに現れた。
列車の扉が開いたとき、私は目を凝らした。
そこに──夫がいた。
けれど、その目には私の姿が映っていなかった。
まるで初めて会った人を見るような、静かな目だった。
「……迎えに来たよ。」
そう言った私の声に、彼はほんの少しだけ、瞬きをした。
その一瞬に、私は確かに見た。
遠い記憶が、小さくきらめいたのを。
——私は、忘れられている。
けれど、まだすべてを失ったわけじゃない。
列車が動き出す。
私は、乗り込んだ。
たとえ記憶の向こうにいても、迎えに来た意味を手放したくなかった。
車窓の外で、記録の村が遠ざかっていく。
星が一つ、軌道を描いて流れた。
そして、夜の向こうに、朝が待っていた。