第五章:記憶の列車


列車は静かに、まるで夢の中を滑るように進んでいた。

誰も声を発さず、誰も眠らず、それでいて全員がどこかを見つめていた。


私の隣には、夫が座っている。

手を伸ばせば触れられる距離なのに、どこかとても遠い。


彼の目は、車窓の外に向けられていた。

だがそこには、何も映っていなかった。

世界は白く、霧がすべてを飲み込んでいた。


「覚えてないの?」

私は静かに訊ねた。


彼はしばらく答えなかった。

やがて、わずかに首を横に振る。


「あなたの夢に、私は出てこなかった?」


今度は、少しだけ目を伏せた。

その沈黙が、何よりの答えだった。


車掌がやって来て、一枚の紙を手渡してきた。

そこには、彼の「記憶更新票」と書かれていた。


——対象記録:2015年・初夏/記憶候補:不明女性(接続不可)/処理:保留中


「これ、私のこと?」


車掌は答えなかった。ただ、申し訳なさそうに帽子のつばを下げた。


「でも、思い出そうとしてるんでしょ」

私は夫にそう言った。


彼はゆっくりとこちらを見て、小さくうなずいた。


その瞬間、列車が軋むように揺れた。


扉が開いた。

着いたのは、白い駅。名前はない。看板もない。


けれど私には、わかっていた。

これは“試される駅”だ。


この先へ進むには、二人とも「名前」を思い出さなければならない。

自分の、本当の名前を。


——けれど、ここでは名前すら記録に支配される。


ホームの中央に、古びた電話機があった。

夫がゆっくりと受話器を取る。


耳を当てると、どこか遠くから、子どもの声が響いてきた。


「……ぱぱ、いつ帰ってくるの?」


夫の表情が変わった。

その目が、私の方を、はっきりと見た。


夫が口にした名前。

それは確かに、私の名前だった。

この国に来て、初めて呼ばれた、私の名前。


私は答える代わりに、その手を握った。

冷たくて、でも確かに血が通っていた。


そして、白い霧の中に、黒い門が現れた。


門の上には、小さな文字で書かれていた。


「帰還申請、承認」


私は夫とともに、門をくぐった。

その先にあるのが帰り道なのか、さらなる記録の奥なのかは、まだ分からなかった。


でも、彼が隣にいるというだけで、心は不思議と静かだった。


──その国では、時間は後ろにしか流れない。

けれど、想いは、少しだけ前へ進んだ気がした。