第六章:灰色の帰還地
門を抜けると、そこは“帰還地”と呼ばれる中継地だった。
灰色の空。灰色の建物。人々の衣服まで、すべてが灰に包まれていた。
この場所では、いったんすべての記憶が洗い直される。
“北”から戻る者たちは、ただちに無菌の待機区域へと案内され、記録の照合と感情の整合性チェックを受けるのだ。
私たちも例外ではなかった。
案内されたのは、白いカーテンで仕切られた小さな部屋。
そこに夫と並んで座ると、無感情な職員が記録書を開いた。
「ご主人の記憶との照合には、あと少し時間がかかります。その間、こちらをお読みください」
差し出されたのは、一冊の薄い冊子だった。
表紙には金のインクでこう記されていた。
『幻想からの帰還者へ』
中を開くと、淡々とした言葉が並んでいた。
“あなたが見たもののうち、いくつかは夢です。
いくつかは現実でした。
そして、その区別に意味はありません。
あなたが確かに感じたことだけが、あなたをあなたたらしめるのです。”
ページをめくるごとに、心の中に何かがほどけていくようだった。
そして気づいた。
これは、「帰る」ための手続きではない。
“自分がどこまでを信じられるか”を試されているのだ、と。
やがて、職員が再び現れた。
「照合、完了しました。ですが、ご主人の中に、ひとつだけ“空白”があります。あなたに関する記憶のうち、最初の出会いの場面だけが、どうしても蘇りません」
私は静かに夫を見た。彼も私を見ていた。その瞳は、もう“遠くの誰か”を見る目ではなかった。
私は言った。
「だったら、もう一度出会い直せばいい。何度でも」
夫は、少しだけ笑った。その笑みに、私は初めて、完全な“帰還”を感じた。
ふたりで出口に向かって歩く。
灰色の建物を抜けると、外の空気は思いのほか温かかった。
空に雲が流れていた。
光が滲んで、空の端がほんの少しだけ色を取り戻していた。
遠くで、犬が鳴いた。
——私は振り返らなかった。
この場所では、後ろを向くことが、一番強く過去に囚われることだから。
手の中にある温度だけを信じて、前へ。
道の向こうに、懐かしい日常が、音もなく広がっていった。