切り絵で作ったような月が、夜空に浮かんでいた。それはつや消し加工を施されたか、アクリル絵の具を塗りたくられたような無光沢な夜だった。
風も音も湿度も気温もない暗闇の中、私は高速道路沿いの脇道を農業三輪車で走行していた。三輪車と言ってもエンジンを積んでいるし、前方に小さな運転席が備わっているので、ハンドルを握って前を向いている分には軽自動車を運転しているのとさほど変わらなかった。荷台の部分は深緑色のフレームで、バケットには毛布や布団をたっぷり積んでいる。
物音ひとつない夜道には眠気が付き纏う。交差点の手前で眠気は極限に達し、ついに意識を手放してしまった。
後ろから音もなく一台の車が近付いてきて、私の三輪車を抜かすことなくじっと待っていた。運転席に座る四角い顔の男が、真っ直ぐに私の三輪車を見ていた。その光景は眠る私の脳に直接入り込み、車を動かさなければと思うも体が言うことを聞かない。彼は表情を変えることなく、ただ待っていた。
一瞬だったか、数分か、はたまた数十分か。どれくらいの時間が経ったか分からないが、やっとの思いで鉛のような体を動かして三輪車を路肩に寄せると、砂利敷きの小さな駐車場があった。深緑の小さな三輪車にちょうど良さそうだった。
三台分のスペースがあり全て空車だったが、端から停める余裕もなく石灰で描かれた線と線の間に斜めに停めるのがやっとだった。
後ろの車も、交差点の先へは進まずに駐車場に入ると私の隣へ停車した。線と平行に真っ直ぐ停められた彼の車もまた、後ろは三輪車になっていた。もっとも、その荷台にはシャベルや土嚢袋といった農業三輪車に似つかわしい物が積まれていた。
私は運転席を降りて荷台へ乗り込むと、一番上の赤い布団をめくってふかふかの綿に体を埋めた。
薄れる意識の中でザッ、ザッ、と土を掘る音が聞こえた。
市街地を抜け、有料トンネルに続く大きな道の脇にある坂を登ると、小都市が一望できる。その眺めの良い土地に、三軒の焼き肉屋が店を構えていた。北側に高級店、東側にチェーン店、西側に個人経営の店が建っており、砂利の敷かれた駐車場で繋がっていた。
ランチタイムが終わり営業中の看板が準備中に変わって少しすると、どの店も店員が廃棄処分になったり客が食べ残したりした肉を捨てに出てくる。
その事を知った夫に肉を拾ってくるよう言われた私は、お気に入りのウォーキングシューズに足を入れた。
ランチタイムが終わる時間を狙って坂を登る。途中、すれ違った車にパッシングされた気がした。
坂の上に三つの屋根が見えてくると、鼻の先に食欲をそそる脂の匂いが漂ってきた。久しく口にしていない、肉の味が脳の中に充満した。
店員が出てくるまでの間、私は店の向かいに生えている紫陽花の木に隠れて待つことにした。
「一番高い店の肉を優先して拾ってくるように」という夫の言葉を思い出し、焦点は奥の建物に合わせておくことにした。
するとしばらくして木の引き戸が開いてエプロンをした着物姿の女性が出てきた。手にはステーキ肉のような分厚い肉を持っている。私は気分が高揚するのを感じた。心の中ではウサギが輪になって飛び回っている。
着物の女性が店の外に肉を放ると、隣のチェーン店からも人が出てきた。バイトと思われる若い女の子が足早に道路の近くまで来くると、両手の中の肉を歩道に撒いた。彼女は帰りもまた小走りで、砂利の音を鳴らしながら店へ戻って行った。
紫陽花の陰から暫く様子を伺うが、もう一店舗から誰かが出てくる気配はなかったし、野生の鳥や動物などのライバルがいるので悠長にはしていられなかった。
まずは高級店のそばへ行くと、火の通っていない生肉を拾った。砂利を払って用意しておいた台車の上に置く。真っ赤な肉の塊は新鮮に見え、見た目だけでは廃棄されるべきものか私には判断できなかった。
歩道に出るともう一店舗の肉を拾った。こちらは焼けた肉で、客の食べ残しと思われるサイコロ状の細かい肉が幾つか落ちていた。それらを拾い集めて手早く台車に乗せる。
不揃いな肉の乗った銀色の台車を押して、登ってきたのとは別の坂道を下る。長い急な坂道を台車に引っ張られるような形で足早に駆けている途中、おばあさんとすれ違った。
やましい気持ちを隠して平静を装ったが、じろじろと見られているような気がしたし、通り過ぎるまでの時間がやけに遅く感じた。
坂を下り終わると、この辺りでは見たことのない立派な屋敷が建っていた。庭は隅まで手入れされ、池の周りに咲く石楠花が美しかった。
この広い敷地に暮らすのはおじいさん一人で、一日の大半を縁側で庭を眺めて過ごしている。家に出入りする者は滅多になかった。和室の奥の箪笥には、いかにも高価そうな巻物や花器が仕舞われている。
屋敷を見つめているだけで、その家の情報がなぜか手に取るように分かった。
ポケットから取り出した野球帽を目深に被ると、軍手に手を通した。再び私の心の中のウサギが跳ね始めるのを感じた。月まで届きそうなほど、高く跳ねた。
しかし銃声がしたかと思うと一匹の一番耳の長いウサギが横たわり、動かなくなった。他のウサギは散り散りに逃げて行く。
意識を現実に戻すとウサギではなく、おじいさんが倒れていた。
どこからか現れた四角い顔の男が屋敷の中で現場検証を始めた。彼は鋭い目線をこちらに向けると、私と目を合わせたまま唇を動かした。「犯人は現場に戻ってくる」
低い声が空気を伝って頭の中に響いた。
耳の長いウサギが庭を横切って行くのが見えた。