道をあるいても、遠くの山を見ても美しいこの季節。

新緑の季節は紅葉と比べると長いので、晴れた週末に出かけることも可能だ。

 

車で足を延ばして、北東北の2大湖、田沢湖と十和田湖をめぐった。田沢湖も十和田湖もカルデラ湖で深い。

 

田沢湖は水深日本一で標高を差し引いても海面下174mというからなんだか不思議である。近くのスキー場の上まで行くと晴れた日には湖面がきらびやかに輝く。今年リフトを上がったところにブランコが設置され、強めに漕ぐと湖に飛び出すような感覚を味わうことができる。

 

一方十和田湖は水深は田沢湖、支笏湖についで3位だが、なにせ景観が美しい。周囲も山が深いので紅葉も本当にきれいである。そして、遠くに見えるのは八甲田連峰である。

 

今年は暑くなると言われているので、皆さんもあまり暑くなる前に早めに出かけてみてはどうだろうか?

先週末にはまだ蕾がどうのと言っていたのに、3日前から急に暖かくなり北国のさくらも一挙に開花。

 

昨日は五分咲くらいかな、と思っていましたけど、あまりの暖かさに今週末には見ごろを終えてしまっている可能性大になりました。まあ、少し山に行けば、遅れた桜をみることもできるのですが、今年はすでにクマも出現という話。短いのがさくらとは言え、週末の見ごろがないのでは少し悲しいですね。

 

写真は秋田県と山形県の境にある鳥海山という山を背景に桜を見られる小さな公園です。昨日は近くにお菓子屋さんがあったので、そこで買った団子を食べながらのんびり歩きました。先週東京にいたけど、もはや散ってしまっていて、今週も出かけますが、もうみられるところ北海道くらいしかないかも。青森県の弘前のさくらはそれはそれは見事ですよ。今週末あたりがよいかもです。

 “昔は・・だったのに”という年寄りじみた言い方を避け“最近は・・”と言い換えたところで懐古という本質は同じであろうか。“最近”学会で「?」という発表に出くわす機会が増した。“若手”は検索上手で知識は豊富だが、どのようにしてそこに至ったのか経緯を知らず発表していることがある。インターネットで容易に情報を入手でき、生成系AIという人間の知的活動を阻害しかねないものまで出てきた。道具は使いようではあるが、論文を読みこみ孫引きする、という地道な作業はすたれ、経緯は飛ばされがちなのかもしれない。“昔”先輩から受けた熱血指導を今は受けられないことも影響しているのだろう。 


 自身、コロナ禍になり毎朝の科内カンファに出られない日々が続いた。長年発表レベルを保つのに腐心してきたが、予演に出られないと指導の機会はない。そんな折、なじみの印刷会社から「何か書いて本にしませんか?」との誘いがあった。そこで、プレゼンで気をつけていることをまとめ「市中病院における学術発表・論文作成のための手引き」という冊子にして科内医師と研修医に配布した。A4版125ページ、本として体をなすギリギリの分量であるが装丁はそこそこ立派である。印刷物という古典的媒体を通してではあるが、これも流行りの“プッシュ型情報発信”と言えるであろうか。 


 「あとがき」で“Publish or perish! 発表したら論文に”ということを強調した。かつての恩師に“礼儀”という大義のもと押しつけがましく冊子を送ったが、そこは流石師である。「筆者の学問に対する真摯な姿勢が伝わる著作であり、Publishしたことでこの先残るのは大変に意義深い」との身に余るお言葉をいただいた。“著作”と言われると自費出版なので本屋に並ぶ予定はないしこそばゆいが、このようなことを言ってくださる方がいるだけでも手間暇かけて作った甲斐があったというものだ。折しも身近な先輩が定年になり、勤務医としての“終活”を考える時期である。今度は“自己マン”という言葉が見え隠れするが、そのどこが悪いと開き直っているので余計に始末が悪い。次なる著作の準備をはじめているのである。

 筆者は1986年から2007年までの22年間大学の消化器外科医局に在籍した。その間、手術手技では腹腔鏡手術が導入され長足の進歩を遂げた。1989年に開始された生体肝移植は日本で脳死移植数が頭打ちの中医療として定着し、世界へと広がった。肝切除前門脈塞栓は1984年に日本で報告され、肝胆膵がんに対する血管切除の普及と時を同じくして1990年以降国内外へと広まった。この時期は、わが国の肝胆膵外科におけるそれまでの地道な努力が一気に結実し、技術革新を遂げながら世界をリードすべく、急速に発展した時期である。

 大学在籍中、肝胆膵領域を中心に総説・著書を執筆した。読み返してみて、手術適応や周術期管理に関する基本的な考え方は、当時からほとんど変わっていないことを改めて感じた。本誌では、そのうち今読んで参考になり、基本として知っておいてもらいたい論文(総説的原著を含む)を選んだ。術前・術後管理総論、合併症治療、肝臓・胆道・膵脾外科、門脈圧亢進症など領域別の総説を読むことで、現在行われている治療のアウトラインと歴史的経緯を把握することができよう。

 筆者が臨床で注力した領域は肝不全の病態解明と治療である。掲載論文をみると当時いかに術後肝不全が日常的であったかがわかる。1995年の「外科治療」には1986年から94年までの教室の消化器外科術後肝不全9例の一覧表があるが、その後も筆者が在籍した2007年まで肝不全は後を絶たなかった。このテーマは時代そして教室の必然であった。筆者らは肝硬変例でのAT-III製剤投与を嚆矢として、炎症性サイトカインがELISAキットで測定可能になると肝切除後のマクロファージ系細胞のTNF-α、IL-1β産生能を研究し数多く発表した。その後プロスタグランディンE1に着目し、当時行われていた末梢静脈・門脈投与に代わり、肝動脈投与・SMA投与が肝再生の鍵である肝血流・酸素供給を改善し、重症肝障害に有効であることを動物実験で明らかにした。肝不全ならびにハイリスクの肝切除例に対して臨床応用し、筆者らの方法はドイツで肝移植後患者に対して追試された。

 2007年市中病院に異動し肝切除の可否を自ら判断する立場になってからは、肝不全の治療でなく、肝不全を起こさないことを絶対的な目標としてきた。的確な術前評価、門脈塞栓術、適切な胆道ドレナージと安全・確実な手術手技などが肝要であるが、結果、肝不全を経験せずに手術を遂行できている。発表のネタは減ったが、かつて数多くの肝不全を経験した者として何よりであると思う。

 この文献集を通して1990年以降20年の外科の変遷に触れることは、若手医師にとって貴重な機会となろう。臓器不全発生機序としてのsecond attack theoryは日常的に経験するし、CHDFなどの血液浄化療法についても救急科が充実し外科医が導入・管理する必要性は低くなったものの、知識は必要である。救急医とともに外科医が心血を注いで臓器不全の治療を発展させてきたのであり、これを機会に膜や回路、体外循環による生体反応など、基礎的なことを学んでほしい。

 腹腔鏡からロボット支援へと変遷する時代、外科医は“手技”に目を奪われがちである。しかし侵襲学、外科治療の学問的根拠や歴史的経緯こそ、外科医が第一に学ぶべきことであるのは今も昔も変わりない。そして、この中の何であれ、読者研究への興味をかきたてるものがあれば幸いである。

2023年3月

 自分にとってすべてのことが可能に思え、同時にすべてが不可能に思えた。どうしようもなく傲慢でいながら、小さなことに絶えず傷ついていた。大人の狡猾さに強く反発しながら、同時に強くあこがれていた。多感な高校時代、ラグビーを通じて監督の教えをうけたことは私にとって望外の幸運であり、今も貴重な財産である。

 

 私がラグビー部に入ったのは、六歳上の兄の影響を受けてのことである。兄は花園、国体で華やかな戦績を残し当時慶応大学でプレーしていた。その弟として先輩に誘われるまま練習に参加したが、選択の誤りに途方に暮れることになる。体力のない私はきつい練習にまったくついていけなかったのである。兄弟選手を多く見てきたであろう監督は兄と私の資質の違いを即座に見抜いていたに違いない。しかし、監督は私に体力がつき、やがて走れるようになるのを辛抱強く待っていてくださっていた。間違って兄の名前を叫ぶのは習慣化していたが、私はそれに喜んで応じていた。

 

 高校2年の秋、花園予選決勝は一生忘れられない痛恨の記憶である。わが校は押し気味に試合を進め前半をリードし折り返した。ハーフタイムでの監督のアドバイスは「相手はブラインドサイドのウィングを走らせてくる。それに注意しろ!」だった。わが校が2点リードのままインジャリータイムに入り、誰もが6年ぶりの花園出場を確信した。その矢先、敵の左ウィングにブラインドサイドを走り切られ、8対6で逆転負けを喫したのだった。(あのトライがなければ、あの時全国大会に出場していれば人生が変わっていたのではないか、と思うのは私だけではあるまい。)監督は助言を守れなかった私たちを叱責することなく、言葉少なに労をねぎらってくださった。悔しい思いをしたのは監督とて同じ、いや私たち以上の忸怩たる思いがあったはずである。

 

 昭和53年、監督がわが校のグラウンドに立たれた最後の年に私は主将を務めた。前年ほどのチーム力はなかったが6月の高校総体まで覇を争っていた。しかしまたしても決勝で敗れ、目標としていた国体単独出場の道は絶たれた。そして、この年に始まった共通一次という入試制度により11月に花園予選を控える部員は厳しい現実に直面した。総体終了後3年生は顧問の先生に集められ、部を継続するか、花園出場を諦め受験勉強に専念するか、一人ひとり選択を迫られたのである。その結果、夏休みの練習に参加した3年生はわずかとなった。主将としての私に求心力がなかったことは否めない。それでも秋に入ると練習を離れていた3年生が何人か復帰しチームとしての形を成したが、もはやよい戦績をあげられるはずもなかった。

 

 私は当時、顧問の先生がなぜ私たちにあのような選択を強いたのか納得がいかなかった。多数の3年生が抜けることで部員の士気は大きく低下した。教師としての立場もわからぬではないが、文武両道を謳ってきたわが校ラグビー部のその後に深い翳を落とした出来事ではなかったかとの疑念を今も捨てきれない。この事態を監督はどのように受け止めておられたのか。私は今でもそれを尋ねたい衝動に駆られる。選手の自主性を重んじる監督であるがゆえ、私たち一人ひとりの選択を静観されていた。私たちは果たして正しい選択をしたのか。

 

 監督が話されたことで印象に残っていることはいくつもあるが、それ以上に記憶に焼き付いているのは、グラウンドに立つあの姿である。雨の日も、砂塵の舞う風の日も、炎天下の夏の日も、そして吹き荒ぶ雪の日も、休むことなく私たちを見守っていた。自らが脚光を浴びることを決して望まず、何ら見返りを求めず、ただひたすらにラグビーに、ラグビーを通して私たちに、熱い情熱を注いでいた。その姿にこそ私たちは魅きつけられる何かを感じ、成長の糧としたのではなかったか。私たちも青春のエネルギーのすべてをラグビーに注ぎ、それに応えたつもりであった。

 

 練習を終え、監督を囲んで皆で輪をつくる時、小さな至福の時である。監督が吸う甘いパイプの香りとともに記憶が呼び起こされる。「ご苦労さん。・・・」監督の短くも適切なアドバイスが今も私たちの心に響く。監督に教わったラグビー魂と情熱は今も私たちの心の深奥に息づいている。目を閉じると、監督はあの姿のまま私たちを見守ってくれている。監督の教えを享けた者として、あの情熱にこたえることをこれから先もやめてはならないと思う。

 

(1995年記)

暖冬で雪が降らず、しかし明日から東~北日本、日本海側で雪のようです。

今年のさくら前線の予想は難しいだろうけど、北でもいつもよりずっと早く咲きそうな気がします。

 

雪景色や桜の前に、昨年みた紅葉の写真をアップしておこうと思います。

 

10月半ばに1000mくらいの温泉に行ったのですが、500mよりも高いところで季節外れのまさかの雪。道すがら、紅葉と雪をいっぺんにみるという得難い体験をしました。その後、地元2ヵ所で紅葉をみました。有名な場所ではないのですが、とてもきれいでした。

 

地面からわきあがる温泉と雪山を望む風景は、秋田県と岩手県の県境付近八幡平の大沼というところです。この温泉には初めて行きましたが、オンドルなどもあって、とても温まりました。

 

広大なダム湖を背景にした写真では、山頂の雪と中腹の紅葉、そして麓の緑がいっぺんにみられます。

 

11月に岡山に行ってそこでも紅葉を見られました。というわけで去年は紅葉には恵まれた年でした。

 

 

暖冬そして雪不足と、冬のスポーツを生業としている方々には結構しんどいシーズンになっているのではなかろうか。

 

冬将軍が来てもすぐに霧散してしまい、陽差しや雨によりや雪もすぐに解けてしまう。北国では、雪がないと困るまつりも少なくない。

 

しかし被災地のことを考えると今年は寒くない方がよいに決まっている。

 

過去の写真で満足したいと思う。

 生成系AI利用に関して、まだ明確な制限はないが、近い将来、学会や雑誌でAI利用に関するさまざまな規制が設けられることになろう。

 実際ChatGPTを利用してみるとこれほど便利なものはないし、特に英文を書くには有用だと感じる。逆にAIの一番の問題点は、情報源がインターネット等にあり引用しているにもかかわらず、引用元が明らかでないことであろう。論文化した後に文献を引用していないと将来的に版権問題に発展する可能性がある。AIは、要約され体裁の整った、おそらく文法的にも正しい文章を提示してくれるが、その信頼性がどの程度なのかは引用元がわからないために未知数である。ホームページなどの科学的でない情報が入っている可能性もあるかもしれない。

 これらの問題を回避するために、AIで示された文章をそのまま転記することを避けることが基本になろう。AIによって書かれた内容について文献はないか改めて調べ、文献を参照しながら自分で書くのがよい。論文を書きなれておらず、何から手をつけてよいか悩む人は多い。そういう人はAIをきっかけに論点を整理し、copy & pasteを避けながら、引用元の明らかな文献の主張を展開すれば問題はないし、書くことにも困らないのではないだろうか。今自分で抱えているテーマがあるなら、一度AIの活用を試してみてはどうかと思う。

 今のところ、生成系AIは使い方次第だと思う。

1月10日は110番の日。正しい110番通報を心がけるよう、国民に周知する日なのだそうです。

では1月19日は119番の日かなと思ったら、違いました。119番の日は11月9日でした。
110番の正しい通報を周知するのと同様119番を正しく使う方法を教えるのだろうと思ったのですが、かなり違いました。

11月9日は「119番の日」
消防庁では、消防に対する正しい理解と認識 を深めるとともに、防災意識の高揚、地域ぐるみの防災体制の確立に資することを目的として、昭和62年より 11月9日を「119番の日」としています。 住民からの的確な119番通報は、国民の生命財産を守る消防活動の迅速さ、確実性につながります。 119番通報時の留意点をまとめましたのでご活用ください。

ということで、こんなことで救急車を呼ばないで、という話ではないようです。消防庁でやっていることなのでよいのだけれど、厚労省もコンビニ受診やタクシーがわりの救急要請とかについて、1月19日に救急車の日つくって広報してはどうかなと思いました。

2024年の働き方改革で変わるのは流通運送業だけじゃなくて、病院もなのですよ。マスコミでももっと取り上げてほしいけど、あんまり大事と思われていないのか、関係がないと思われているのか。

勤務時間まじめに守っていたら一番困るのは患者さんなんです。それを知って欲しいです。

コロナが落ち着きつつあった2023年、4月に長崎、7月に函館に行って夜景をみた。函館は3回目だが40年ぶり、長崎は初めてであった。

 

ネオン街の減少、人口減、節電など、夜景を取り巻く環境は厳しさを増しているのかもしれないが、まだまだ絶景である。昔は香港、モナコ、函館などが夜景の美しい都市として有名だったと思うが、3年前に世界夜景サミット in 長崎で「世界新三大夜景」に認定されたのは、モナコ、上海、長崎とのこと。長崎にサッカースタジアムが完成すれば景色に色どりを添えることになるのだろうか? 楽しみである。昔の函館はイカ釣り船の漁火が華を添えていた記憶があるが、漁場の変化で減ってしまったのかもしれない。函館も長崎も山の高さは330mほど。おおよそそれくらいの高さから眼下に見える景色が絶景なのであろう。札幌の藻岩山は500m以上あるが、何せ街が大きい。昼も夜も、おススメの場所である。

 

海外ではラスベガスと半年暮らしていたペンシルバニア州のピッツバーグ。ラスベガスは中心部のはずれにあるタワーからみる夜景が美しかった。ピッツバーグはワシントン山という山に登ると、大きな川に挟まれたダウンタウンのきれいな夜景をみることができた。香港もやはりすばらしかった。

 

日本新三大夜景で長崎、札幌を抑えて第一位に輝いたのは北九州市。今年行けるかどうかわからないが、近いうちに行ってみたいと思っている。

 

(写真は順に 長崎2024年4月、函館2024年7月、香港2002年8月、Pittsburgh 1988)