子供の頃、歴史が大好きだった私はもちろん大河も大好きだった。ただ、父親と落ち着いてテレビを見るという環境になかったため、再放送をみたりなんだりで、苦労して筋を追っていたように思う。父は県庁職員であったため単身のことも少なくなく、日曜の夜父がいない年には落ち着いて見られたのだろう。「・・・元気で留守がよい」である。

 記憶にあるのは1968年の「竜馬がゆく」からで、続く「天と地と」、「樅の木は残った」は訳もわからず見ていた。熱中したのは続く「春の坂道」「新・平家物語」そして「国盗り物語」である。やはり戦国時代は日本の歴史の最もドラマチックなところであり、役者陣も高橋英樹の信長、松坂慶子の濃姫、近藤正臣の明智光秀、火野正平の秀吉役など、記憶に残るものである。その後の元禄太平記以降は自分が成長したこともあったろうが、大河自体が何となく路線を変えたためか、興味を失っていた。

 大河を見続けるというのは体力と根性が必要である。しかし、退職近くなり、時間に余裕ができた最近は見ようと思えばみられる。最近で行くと、「真田丸」と「麒麟が来る」は見ず、「どうする家康」なぜか結構見た。そして今年の「豊臣兄弟!」これはおそらく全部見るだろう。結局ドラマとしてみるので、主人公の出来次第なのである。何といっても中野太賀さんがすばらしい。秀吉役もすばらしい。そして、小栗旬の信長。これがまたすばらしいのである。豊臣家の繁栄から滅亡の転換点が弟秀長の死去があることは歴史的事実と言ってもよいわけで、このような兄弟関係が今後どのように描かれていくのか興味深く見守りたい。ドラマとして見ているだけに心情的にリアルでないとついていけない。歴史と違っても構わないが、こんな話でもよいかもしれないと思わせる人物像の描写に期待したい。

 

 

 2026年6月からの診療報酬改定で「成り手」の少ない外科および循環器医師の手取り報酬が増えるような制度がつくられるようである。病院勤務医の多忙さがこれらの診療科で突出しているというデータからこのような施策がとられるのかはわからない。しかし、成り手がいないのは、長い間自分たちで業務と職場を改善できなかったことも大きいと当事者のひとりとして私は考えている。内科に関してはチーム医療どこ吹く風で「病院で開業する」医師も今だ少なくない。人に任せることができないのだから、休みはないに決まっている。ハイリスク・ローリターンは改善されるべきであるが、報酬を重視する「志の低い」医師がこれらの科に集まるようなことがあると全国各地で医療事故が増えて大変な事態にならないか、心配になる。

 

 以前から私は外科に人が入らないのは、学生に最も近い大学の医師が自分たちを「特別な技術や能力を持つ職能集団」との意識を学生や研修医に植え付けていることが要因であると述べてきた。現在いる病院では「努力を継続する意志があれば、この病院の外科医のレベルに達し、自然にそれを超える。それが可能なシステムが必要。」ということを言い、実践してきた。自分より15歳以上年下の医師たちは高難度の資格を取り、さまざまな器械を駆使して上手に手術をしている。それを見た後輩も先輩に続けと数は少ないが希望者は絶えていない。

 

 それと同等に大事なのは働き方である。休みを取りたい時に遠慮なくとれること、休日は今は4回に1回のみが出番でそれ以外、出ないことを求めている。それが可能なように電子カルテは自宅でみられるし、指示も携帯を使って当番医に依頼できる。それでも、こっそり短時間見にきている者がいるかもしれないが、不在を職場で認め合うことは徹底されている。ただ、このような取り組みができている病院が回りにない。なので、地域では外科医が増えるには至っていない。自分たちがまず変わらなくてはならないのに。

 

 先日、秋田県の外科医療が医師不足のために崩壊寸前との話がミヤネ屋で放映され、ネット上でも記事になった。すでに1000以上のコメントがつき、皆の関心が高いことがわかった。この中で私が得心したコメントは以下である。

 

「当たり前。レンズが高いとは言え、虫垂炎より白内障手術の方が保険点数高い。・・・外科医が一人前になるのは40代以降、下手したら50代。目も悪くなり、すぐ引退。誰がやるの?」

「30年前から明白。にもかかわらず、取られてきた対策は「外科の楽しさを伝えたい」とか幼稚なものばかり。業界側の責任も重い。まぁ彼等は専門家すぎて構造的な問題認識すらなかった。そもそも外科医は競技スポーツ選手みたいなものだから。「外科医な俺ってカッコいい」が最大のモチベ。必要な資質は、まず経済的に太い実家、仕事を最優先にして家に帰らなくても成り立つ生活環境、競技スポーツとして外科医生活を楽しめる精神性。求められる適性が限定され過ぎていて、人材の母数が極端に狭かった。そんなことすら思い至らない先生がほとんど」

 

 手厳しいけれど「競技スポーツとして外科医生活を楽しめる精神性」か。昔自分が「知的体育会系」(註)と呼んでいたことを思い出した。「外科医な俺ってカッコいい」はどうかと思うけど、他は否定できないと思ってしまった。

 

註 2000年8月の記事

「知的体育会系のすすめ」 | Knowledge speaks, wisdom listens

 2026年1月5日、花園で行われた桐蔭学園対大阪桐蔭の試合。この試合のラストプレーは高校ラグビーで長く語り継がれるべきものである。勝負には勝者と敗者が存在するのが必然であるが、そんなことをも凌駕する見事な攻防の応酬だった。

 起点は自陣のスクラム。そこからひとつのミスなく、まさにチーム一丸となって攻め続けた桐蔭。そしてゴールラインが近づくとリスクを減らし展開ではなくFW周辺の攻めに切り替えたのも見事。こういうゲームは多く見てきたが、そのほとんどはゴールラインを割れずにミスか相手に偶然ボールが渡るかなどでノーサイドになる。ここまで桐蔭が勝ち切れたのは何故なのか? 主将はすでにケガで欠いていたけれども、リザーブを含めブレない戦術の徹底、そして集中力の継続。本当に感服した。

 もう一方の準決勝は京都成章が完全に自力で優っていた。こんな準決勝を戦った桐蔭は決勝でどうやってねじを巻きなおしてくるのか。高校ラグビーってこんなにも凄かったなと思う大会になっている。ありがとう、選手たち!!!

 女性教員の比率は10年以上前であるが、おおよそ小学校6割、中学校4割、高校3割。もっとも今は子供も減り、教員を目指す人も減っているので、今後のことはちょっとわからない。小学校校長の比率は2割にも満たないらしいから、やはり管理職は男性が多いようである。産休・育休などでそのようなことになっているとすれば、やはり日本は諸外国からすればまともには見られない国かもしれない。

 ところで私の勤務する病院の医師は女性が2割である。一方、地方の国公立医学部における女性の割合は年々高まり、私の勤務する地域では5割に達した。そして、私の勤務する病院の初期研修医であるが、女性が多い。今年は女性7割、次年は9割女性である。男性にとって職場が魅力的でないのだろうか? 女性の応募者が多いというのは事実である。このことを素直にとらえると、これほど素晴らしいことはないのではないかと思う。「女性が入職を望む職場である」ということなのである。地方において問題視されているのは若い女性が安心して働ける職場がなく、皆大学そして大学卒業後地方を選ばないということなのだから。それに医学部生の半分が女性になって、男がどうだ、女がどうだとか言っているのはおかしな話だと思う。

 大事なことは、初期研修を終え、その後どのような医師になって活躍していけるか、ということである。そこは、やはり目標になる上の先輩、10年目くらいまでの医師が生き生きと働いていられるかどうかということが大事になる。そこがうまくいかないと、人が集まらないし、命にかかわることを避け、美容系に向かう医師も増えるのかもしれない。初期研修も大事であるが、その上の若い人の働く環境がもっと大事である。そこが輝くことが必ずや病院の将来につながると思う。

 

 

 花園は準々決勝が一番面白いと言われて久しいが、今日の一番はなんといっても国学院栃木対大阪桐蔭のゲーム。両チームともにゲームを切らず、かつ最も大事な規律を守り続け、そしてミスらしいミスもない、本当に素晴らしいゲームだった。特に国栃は積極果敢な展開ラグビーを続け、それでも大阪桐蔭は最終ラインを割らせず、「遂に高校ラグビーもこの領域まで達したのか」と思わせる感動的な戦いであった。敗者も何かが足りなかったと思う必要はまったくないと思う。見ていたものの心をこれ以上ないほどに動かされる戦いだったから。結果がよいほうもそうでないほうも、今後の人生に活かされる、そんな試合だったと思う。一介のファンの自分も、この一戦を胸に刻みたい。

 

 自分には昨日の大学選手権準決勝よりもずっと感動的だった。しかし、来週は明治、早稲田ともに頑張れ。伝統校がどうのではない。自分たちが持っているもの、そして自分たちの可能性を証明する格好の場である。心動かされるのはうまい下手でない。魂が込められたそのワンプレーに人は心動かされるのである。

If I were to name a turning point in my life, it would be the autumn of my first year in high school. As the younger brother of a legendary alumnus, I was disgusted with myself for failing to live up to expectations and was preparing to quit the rugby club. But a certain scene changed everything. I chose to stay, and that winter, I ran relentlessly. By the following spring, I could run like a different person—something inside me had changed.

 

The previous year, our team, led by captain K.M. and three other seniors, hadn’t achieved good results up to the summer. Still, in the Hanazono tournament qualifiers against AK-high, a perennial powerhouse, we realized that the outcome of a match can’t be predicted until it’s played. Our young team defeated them in a stunning victory. The joy was short-lived, however, as we were silenced by KN-high in the following match. We witnessed M kept diving into tackles, even after the outcome was decided. After the no-side, I felt it was all over and joined the team huddle around our coach. When I looked across, I saw M gazing firmly at the coach, tears spilling from his wide-open eyes and streaming silently down his dirt-smeared cheeks. I had never seen tears so pure, so calm, yet so fiercely burning. They were not born of simple sadness or frustration. They seemed to be tears that only someone who had burned themselves out entirely could shed. That image of M’s mud-stained face being washed clean by his tears took root deep in my mind and remains vividly etched to this day. On the walk back from the stadium, I found myself wanting to cry like that. From then on, the thought of quitting never came to me again.

 

We entered the same medical school and grew closer. After going into different specialties, our busy lives kept us apart. Still, M remained a monumental presence as a senior doctor. One day, I ran into him at the university hospital wearing a patient gown. Surprised, I asked what was wrong. Smiling, he said, “I’ve got fluid in my chest—they’re going to do a bronchoscopy now.” I quipped. “Tuberculosis? You’ve been working too hard.” “That might be true. It might be true,” he replied softly, as if convincing himself. I never imagined M could be stricken with cancer. The shock of fact that he had incurable lung cancer defies description.

 

When I visited his hospital room, desperately wanting to believe it was all a mistake, it was M himself who gently helped me face reality. Sensing my reluctance, he remarked, “I feel bad for the doctors treating me—they’re more worried than I am,” and, “I’ve pretty much learned what chemotherapy can do. I think it’s time.” He spoke as if it were someone else’s story, but with a calm resolve that I just couldn’t accept. I wanted to scream, “Why are you talking like that? Just be an ordinary person!” forgetting that, more than anyone, M probably wished he could. He confronted his fate with the same unshakable spirit he’d shown on the field, still fighting even after the final whistle. At 39, he passed away.

 

He never measured himself against others—only strove to elevate himself, often transcending results or victory, always continuing to challenge until the end. No matter who he faced, he met them with unconditional kindness. In every chapter of life, he quietly, yet completely, burned his passionate soul. His spirit never be burned out; yet unbroken. Since the tears, fifty years have passed that even telling his story feels difficult, but one thing is certain: M lives on, always, in our hearts.

 医師の働き方改革が始まり、帰れる人はさらに早く帰り、帰れない人は何も変わらないという声が聞かれる。しかしこのままではいけないと考え、知恵を出し合って改善を図っている職場も少なくないはずだ。私たちは2010年の時点で当直明けは帰宅、手術は厳禁、しかしやむを得ず外来診療は黙認を通してきた。人は少ないが皆でやればなんとかなった。それが、最近の学会の調査で、当直明けで手術に入っている人がなお34%いるという。80時間以上の時間外も同比率だという。それぞれ言い分はあろうが改善できないところには指導が入ってしかるべきではなかろうか。労基署も医師の時間外手当ての不払いに関しては厳しいが、それ以上のことはしているのだろうか? 地域医療の担い手の問題が自分たちで手に負えないのであれば、他者の力や知恵を借りるしかないと思うのだが、実際助けてくれるのは医局しかないという現状は変わっていないのだろうか。
 30年前にドイツで研究生活をした時、医師は研究室にたまに顔を出すだけで、研究助手や学生によって研究が進められていた。結果が出ると論文はもちろん医師が出す。業績が出るようになると研究資金に応募し、獲得すると助手を雇って研究を継続し、さらに業績を出す。日本も今は変わってきているだろうが当時の日本の学位研究とは全く違うシステムが成り立っていた。研究所で休日出勤する人はいなかった。8時過ぎに来て4時には仕事を切り上げる。もちろんランチタイムは1時間以上あった。私の行った研究所の医師は移植医なので忙しくしていたが、手術が終われば任務完了で、術後管理や標本整理まで行う日本の医師の忙しさとは全く別物であった。主任教授の権限は絶大であったが、医師は若手でも自由度と権限、そしておそらくお金を持っていた。
 自分ではあまり意識せずにいたが、この外国での経験は、タスクシェアのあり方を含めて、私が目指してきた働き方に関係しているのかもしれない。当院での働き方で重視している点は、学年によらず公平に働くこと、そしてできれば同じ年代の仲間がいることである。同じ年代がいると症例があたらないとかいう話を聞くが、そんなことよりも仲間がいることでどれだけ助けてもらえるか。お互い困った時に補うだけで、どれだけ楽になるかは真剣に考えて欲しく思う。なので、私は常々、少なくともペアで入ってほしいと思っている。