自分にとってすべてのことが可能に思え、同時にすべてが不可能に思えた。どうしようもなく傲慢でいながら、小さなことに絶えず傷ついていた。大人の狡猾さに強く反発しながら、同時に強くあこがれていた。多感な高校時代、ラグビーを通じて監督の教えをうけたことは私にとって望外の幸運であり、今も貴重な財産である。
私がラグビー部に入ったのは、六歳上の兄の影響を受けてのことである。兄は花園、国体で華やかな戦績を残し当時慶応大学でプレーしていた。その弟として先輩に誘われるまま練習に参加したが、選択の誤りに途方に暮れることになる。体力のない私はきつい練習にまったくついていけなかったのである。兄弟選手を多く見てきたであろう監督は兄と私の資質の違いを即座に見抜いていたに違いない。しかし、監督は私に体力がつき、やがて走れるようになるのを辛抱強く待っていてくださっていた。間違って兄の名前を叫ぶのは習慣化していたが、私はそれに喜んで応じていた。
高校2年の秋、花園予選決勝は一生忘れられない痛恨の記憶である。わが校は押し気味に試合を進め前半をリードし折り返した。ハーフタイムでの監督のアドバイスは「相手はブラインドサイドのウィングを走らせてくる。それに注意しろ!」だった。わが校が2点リードのままインジャリータイムに入り、誰もが6年ぶりの花園出場を確信した。その矢先、敵の左ウィングにブラインドサイドを走り切られ、8対6で逆転負けを喫したのだった。(あのトライがなければ、あの時全国大会に出場していれば人生が変わっていたのではないか、と思うのは私だけではあるまい。)監督は助言を守れなかった私たちを叱責することなく、言葉少なに労をねぎらってくださった。悔しい思いをしたのは監督とて同じ、いや私たち以上の忸怩たる思いがあったはずである。
昭和53年、監督がわが校のグラウンドに立たれた最後の年に私は主将を務めた。前年ほどのチーム力はなかったが6月の高校総体まで覇を争っていた。しかしまたしても決勝で敗れ、目標としていた国体単独出場の道は絶たれた。そして、この年に始まった共通一次という入試制度により11月に花園予選を控える部員は厳しい現実に直面した。総体終了後3年生は顧問の先生に集められ、部を継続するか、花園出場を諦め受験勉強に専念するか、一人ひとり選択を迫られたのである。その結果、夏休みの練習に参加した3年生はわずかとなった。主将としての私に求心力がなかったことは否めない。それでも秋に入ると練習を離れていた3年生が何人か復帰しチームとしての形を成したが、もはやよい戦績をあげられるはずもなかった。
私は当時、顧問の先生がなぜ私たちにあのような選択を強いたのか納得がいかなかった。多数の3年生が抜けることで部員の士気は大きく低下した。教師としての立場もわからぬではないが、文武両道を謳ってきたわが校ラグビー部のその後に深い翳を落とした出来事ではなかったかとの疑念を今も捨てきれない。この事態を監督はどのように受け止めておられたのか。私は今でもそれを尋ねたい衝動に駆られる。選手の自主性を重んじる監督であるがゆえ、私たち一人ひとりの選択を静観されていた。私たちは果たして正しい選択をしたのか。
監督が話されたことで印象に残っていることはいくつもあるが、それ以上に記憶に焼き付いているのは、グラウンドに立つあの姿である。雨の日も、砂塵の舞う風の日も、炎天下の夏の日も、そして吹き荒ぶ雪の日も、休むことなく私たちを見守っていた。自らが脚光を浴びることを決して望まず、何ら見返りを求めず、ただひたすらにラグビーに、ラグビーを通して私たちに、熱い情熱を注いでいた。その姿にこそ私たちは魅きつけられる何かを感じ、成長の糧としたのではなかったか。私たちも青春のエネルギーのすべてをラグビーに注ぎ、それに応えたつもりであった。
練習を終え、監督を囲んで皆で輪をつくる時、小さな至福の時である。監督が吸う甘いパイプの香りとともに記憶が呼び起こされる。「ご苦労さん。・・・」監督の短くも適切なアドバイスが今も私たちの心に響く。監督に教わったラグビー魂と情熱は今も私たちの心の深奥に息づいている。目を閉じると、監督はあの姿のまま私たちを見守ってくれている。監督の教えを享けた者として、あの情熱にこたえることをこれから先もやめてはならないと思う。
(1995年記)