これからの生態系の変化と考古学の視座
大変不謹慎な言い方をすれば、これからの生態系や植生の変化は、縄文屋にとっては極めて示唆的な変化を目の当たりにできる可能性を有しています。縄文人の人口から考えて、当時の環境の生産性は非常に低かったでしょう。それは、「豊かな里山像」とは異なるものですね。
(この部分で、mahoroszkさんより意見を頂きました: すみません、ここんとこがちょっと難しくてよく分かりません。「縄文人の人口から考えて、当時の環境の生産性は非常に低かったでしょう。」)
人口の様子から環境の生産性を推定するのは、確かに論理の飛躍があると思います。また、因果関係を証明するのは困難だと思います。その意味でこの様な推論に至る背景を述べなければならないと思い上記(1)~(4)を記してみました。まだ、説明が尽くされていない様に自分でも感じます。是非、ご批判・ご指摘下さいませ。
また、考え直すと環境の生産性が低かったという指摘は、貝類や魚類等については言えるのだと思っていますが、確かに植物でも普遍化できるかは心もとないですね。でも、いざ狩猟・採集圧が過剰にかかったらそのバランスは比較的に簡単に崩れかねない「縄文時代の自然」だったのではないかと思います。その一方で、(古い言葉かもしれませんが)生存競争に残った加齢した哺乳類や鳥類には、極大級の個体がみられることはイノシシ・シカに止まらず、オオハクチョウ等でも知られています。なお、骨をみている経験から、現代の動物相は縄文時代よりも格段に貧弱な印象があります。例えば、シカの角を含めた骨格は大違いで、縄文のシカは巨大です。これもイノシシの細分と同様、松本彦七郎は細分したいと考えていました。その意味で、私の指摘した環境の貧弱さは、日本列島で通史的に様々な生物でみられる可能性のあるものともいえるのでしょう。ただし、その尺度が曖昧なので、議論としては弱いですね。尺度についても宿題にしたいと思います。
(mahoroszkさんの意見: これからの植生の変化についてですが、現代ではシカが増えることで数年の間に植生が激変し、多様性が低下することは明らかです。それは縄文時代に起きていたこととはおそらく全く異なる現象だろう、とまあ、これは全くの推測にすぎませんが、思います。)
mahoroszkさんの意見に賛成です。ただし、縄文時代の現象と違うものでも興味があります。いまさらオオカミを放つ訳にもいきにくいでしょうが(放つ意見も勿論ありますが)、人間が「食べる」という行為をほとんどせず、手を入れない状態で推移して行くという状況は、少ない人口で日本列島を利用していた縄文人を考える上で示唆的と思っています。
それは多様性が担保されなくても良いのです。実は、私は本当に縄文の森林って多様だったのかなと、縄文時代の気候変動を考えていると思ってしまいます。激しい変動があった直後には、本当に多様性が維持されていたのでしょうか。例えば、アカホヤ火山灰の降灰で、多くの動植物が死滅した筈なのに、現在7300年程度の時間で立派に回復している九州等の地域をみると、動植物の再拡散や回復力の力強さを感じます(ちょっと例が長すぎますか?)。
以上、あまり有効な回答となっていないと思いますが、お返事を書いてみました。
注1: 赤澤威による分類