縄文集落の分布と人口

まず、縄文時代の集落を地図上にプロットしてみると、集落を示す点は河口部や湖沼・大河川流域に偏在しやすい状況が指摘できます(富岡1993「縄文人は領域をどのように利用したか」『新視点日本の歴史』、富岡2010「縄文時代の動物質資源と生業圏」『縄文時代の考古学4 人と動物の関わりあい』)。それは森林で示される気候帯を超えてみられる現象だと考えています。集落が多い地域は森林生態系を含む地域であることが、上記のプロット図から推定されますが、さらに、遷移帯で区切った比較では、「森林・淡水複合」「森林・汽水複合」での集落数が多く、「森林・大陸棚複合」では少ないことが指摘できます(注1)。一方で大きな河川や湖沼のない山間部には発見された遺跡が少ない事も指摘できます。以上より縄文人が一次生産量の高い地域を選んだ事、本人の能力で資源を収奪しやすい地点に集まった事、通常ムラをある程度の距離をおいて営んだ事が指摘できます(石巻周辺では異様に基幹的集落が近接する場合もありますが)。

また、そこにある複数資源を枯渇しないように利用した様です。それは多数の食料残滓がみられること、その組成が層位的に微妙に変わることから推定されます。この現象が広く縄文社会に起こったかという議論も別に必要ですが、私が分析したり、検討したりさせて頂いた北海道・東北・中部・関西・中国・九州の縄文前期~後期の遺跡(多くは森林・汽水複合〈内湾域を含む〉)で類似した状況がみられ、長い時期、広い範囲でみられたものと考えています(早期はかなり沢山資料を見ていますが、確信が持てていません。この頃は、資源枯渇しても良いと考えているのか、えらい小さいマガキやハマグリ等の貝類を採集していることがあります。また、貝類ばっかりで魚類を捕っていないのか骨がほとんど出土しない貝塚も良くみられます)。

さて、貝塚の連続的堆積層で出土動物遺存体組成が徐々に変化する事、その体長組成も変化する事から、縄文人によって狩猟・採集圧がかかった動物各群の存在と、完全枯渇の前に別の動物種を捕獲する様になるといった縄文人の行動があったのではないかと私は推測しています。これは、例えば『中沢目貝塚Ⅱ』では、淡水貝類の出土量が徐々に変化して主体が入れ替わって行くといった現象からの推定です。

(再録にあたってtwitter上の表現を一部変更した)

前提的議論

twitter上でmahoroszkさん達が展開した基準値超えの里山での狩猟問題。興味深く拝見しました。主題と離れたことを言いますが、縄文時代の狩猟圧は大して高くなかろうということは、現在と縄文の断絶を示して居る様に思います。あの加齢し、猛々しく成長した骨は現生標本ではなかなかみられません。だからこそ、縄文時代の東北地方の巨大イノシシを松本彦七郎はミコトイノシシやダテイノシシと命名した訳です。私は、松本の細分は採用しませんが、分けたくなった気持ちに強く同情します。

縄文時代の資源開発は幅広く、たこ足的です。それは、岩手でもみられた非稲作民の資源開発に通底する部分があるものの、根本的に歴史性は異なりますよね。確かに、そこもクールに捉えるべきなのでしょうね。私も時代のハシゴを時々外して話しまうので気を付けたいと思います。 

この議論をSNS上で展開させるのはなかなか難しいことですが、次にできるだけ端的に示してみたいと思います。

 岡山はサクラが満開。今日の後楽園は人出が凄かった。朝10時50分くらいに行ったのだが、車の渋滞が半端ない。と、いうことでゼミの花見は別の所でやることにした。そして、ゼミ生と現在ミクシー上で調整中。


 このシーズンの後楽園を歩いていて思い出すのは3年前の花見。あのときは後楽園のサクラカーニバル会場で花見をした。その時、1年生で入学したてということもあり、グループの輪に入りきれず、周囲をフラフラ歩く危なっかしい学生さんが居た。オリエンテーションにも全部出席しなかった関係で、担任でもなかった私の研究室に来ては内容を確認する様になった。その時私は学生を管轄する役職についていたので、その方面に詳しく、質問がしやすかったのだろう。


 とても頭が良くて、沢山いろんなことを知っていて、特に推理小説に詳しくて、研究室に良く遊びに来るようになった。話し好きで、いろんな話しをしてくれた。


 そして、次の春の前に彼女は退学していった。退学は悪い選択ではない。一つの旅立ちの形である。それはわかっている。


 しかし、私は、彼女の才能が自分の大学に残らなかったのが残念だった。


 早秋には退学を意識しはじめた彼女をなだめるうちに、こちらから意識的に引き留める言葉をかけることが上手く行かなくなり、いろんな言葉をかける余裕も私には与えられなかった。なだめるうちに、すぐに「申し訳ないけど」「そういう考え方もあるかもしれないけど」「今は決断的なことは避けた方が良いのでは?」「ごめんなさいね」ばかり、私は繰り返し言うようになった。そのことは、その時にも気がついていたが、完全に負のスパイラルにはまり込んだ感じだった。今となれば、違う対応が出来た様にも思うが、それはなかなか難しいことだ。


 アメブロは彼女が教えてくれたコミュニケーションツール。娘世代の学生さんがアラフィフの私のことを呼んでいた「Papa」という愛称を、「Tomy」という小学生以来の私の愛称と重ねたハンドルネームに付け、アメブロデビューをした。名前はつけたのは良いが、忙しくておっさん脳の私は操作方法が理解しきらず、プロフィールや記事を書き込まない状態で友達申請した。これは彼女から酷く責められた。私も思いっきり謝った。


 その時点で必要な情報をすぐに書き込めば良かったのかもしれない。しかし、本当に忙しかった私は、その後、少し時間をおいて書き込んだ。その時には彼女自体がもうアメブロから居なくなってしまっていた。あれは取り返しのつかない大きな失敗だった。そして程なくメールや電話など、すべて彼女と繋がる道が切断されていた。それが原因なのかはさだかではないが、いずれにせよ冬には退学の決意が耳に入ってきた。


 私はいまだにこの名前で非常に不定期にアメブロを書き込んでいるけれども、これはどこかで能力不足の教員として力不足の罪滅ぼしをしたいとか、あるいは彼女を引き留めきれなかった自戒をするべきであるとか、心の深いところで私自身が思っているからかもしれない。いずれにせよ、こちらの思いが伝わりきらないまま、学生さんが去るのは、極めて切ないことである。その溝を何処かで埋めたいと、虚空につぶやき続けているのかもしれない。


 でも、この文章を彼女が見る確率はひたすら0%に近いはずである。その意味で絶望的なブログといえる。サクラを見ながら、その絶望を繰り返し思い返した。