”真逆の史実” ~長谷川某による『差別発言』の致命的な不見識 | 知は力!痴は活力?

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 顰蹙を買うとかのレベル以上の酷さに、呆れてしまうような差別発言を講演会で行ったことが発端となって、維新から参院選の公認を”当面停止”という、これも曖昧な処分を受けていた長谷川某が、このほど正式に公認候補の取り消しを受けたとのこと。
 当然というか、むしろ遅きに失した感のある維新の後手後手な対応である。

参考記事:リテラ 
【部落差別問題で長谷川豊が見せた嘘八百の悪あがきと、それでも公認を完全に取り消さない”維新”の差別容認体質】

 元報道キャスターという肩書から、このような発言には本来、誰にもまして敏感でなければならないはずだが、先年透析患者に対し治療と生存を否定する信じがたい暴言を吐き、レギュラー番組を降板という『前科』もあるため、どちらかというと”性懲りもなくまたか”というのが一般的な受け止めなのでは?と思われる。

  今回の差別発言が問題化した当初、ネットの記事にあった、あるコメンテーターの方の発言に『当然犯罪のプロ呼ばわりすることは、史実に反しておりありえないこと。実際には支配者側の手先となって、犯罪捜査や刑罰の執行など、治安維持といった警察権力の一翼を担っていた』というコメントがありました。簡単な記述にとどまっており、それ以上詳細に言及されていなかったが、事実は長谷川某の”妄言”と全く異なるものだったのである。
 
 どうやら史実は、この長谷川某の無思慮極まる発言とは全く逆で、江戸時代における被差別民は、犯罪を犯す側ではなく、取り締まりや刑罰を執行する側だったというのが実態なのである。

 これは旧被差別部落の大まかな成り立ちについて、基本的理解があれば容易に想像できることと思われる。
 主に戦国時代~近世初頭頃にかけて、牛馬の死体処理が、特徴的な生業の一つであったこともあり、各地の領主・大名が兵農分離と家臣団の集住を進めて城下町を形成していく過程で、これら被差別民(注:より正確に表現すると”近世被差別部落の源流の一つとされる、賎視され差別されていた職能民”)もまた、武具には必要不可欠な皮革製品の供給のため、城下町の周縁部に居住させられていく。
 同時にそういった職能上の特性から、皮革の製造加工だけでなく、刑罰の執行や、街道や都市街路の清掃を特権的専門的に担わされていき、犯罪捜査の補助といった警察権力の一端を担わされることになる。

 賎視され差別されるだけでなく、近世を通じて、支配者側の末端に組み込まれ、警察・司法権の一翼を担っていたわけであり、事実、近世の関東一円の『穢多頭』であった浅草弾左衛門は、広大な役宅に居住し、その内部には”牢・お白洲”も設けられていたし、大坂や京都では江戸時代の被差別部落は『役人村』と通称されていたほどであった。
 
 しかしこの”差別と賎視の対象であるが、お上の手先”という一見矛盾するような身分も、明治維新後”四民平等”を標榜し、解放令が出されたことにより一変することとなる。制度としての被差別身分からは解き放たれたものの、それは同時にこれまで保持してきた特権をも失うことだったからである。

 この明治維新直後に起こったことは、中世の被差別民の起源を巡る問題と合わせて、部落差別の歴史的経過として最も重要な根幹を成す部分であるが、本題から外れるため別の機会に譲ることとしたい。