学生時代にワンダーフォーゲルに所属していたTさんは、
結婚してからも週末の休みには一人で近隣のハイキング
コースを散策するのを趣味としていた。
車で遠方の山まで足を伸ばすとなると、家族にせがまれ
一家総出の小旅行になる。愛好家が好むような山歩きは
また子供たちも親から離れたがる年頃には近所の山など
見向きもしなくなる。
以来、向かうのはだいたい近くの決まった山となっていった。
そこはよく整備されており、初心者でも気軽に歩ける日帰
りのコースであった。
定年間際のTさんよりずいぶん年上のハイカーたちとすれ
違いながら、挨拶をかわすことも珍しくない。
の気楽さを思い出してのんびりできる馴染みの場所となっ
ていた。
その日、彼は新しく買ったコンパクトカメラを片手に訪れて
いた。
色もまた違って見える。
と誰か道端に立っているのが見えた。
ナップザックを背負った同じくハイカーらしきその人物は、
木立を見上げて何かに話しかけていた。
なにか珍しい鳥でもいるのかな…。
シャッターチャンスを期待しながらTさんが近づいていくと、
それは60代半ばの、身なりの整った品のよい男性であった。
木々の間に立って何かに話しかけているその姿は微笑
ましく、ついTさんもつられたように「こんにちは、なにか
いますか?」と、気さくに声をかけた。
振り返った男性はにこにこ微笑みながら、こう答えた。
「いやあ、ここらはいっぱいで、大きな声で鳴く(泣く?)から」
(*T氏言葉のまま)
その言葉の意味が分からない。
Tさんが聞き返そうとすると、
「あちこちがいっぱいで、それでね、もう、どど、どうしようか
な、どうしようかなあ…たたたく、たくさんなんですよ、どう
しようかな、こんな、わ、わあわあ鳴かれても…」
…狂人であった。
相変わらずにこにこ笑いながら、同じ言葉を繰り返す男は
小刻みに震え、ズボンを濡らすほど失禁していた。
この当時はまだ携帯も普及していない時代である。
戸惑ったTさんは、とりあえずその場を離れ急いで管理所
に通報しようかと考えたが、こんな状態で置き去りにする
のも躊躇われる。
幸い、そこからコース出口は近い。
一緒に連れていって、そこで警察に通報しよう…。
Tさんがなだめながら男の手をとって促そうとしたとき、
男性が見上げていた木立に目がいった。
そこには小さな案内看板が打ちつけられ、
赤くべったりとした
文字でこう書かれていた。
「う し ろ あ ぶな い し ね」
…どういう意味だろうか?
普通なら「落石に注意」や「増水時危険」などであろう。
警告文にしてはあまりに漠然としすぎている。
そもそもいままで、この気軽なコースで警告が必要な
ほど危険なものは見たこともない。
“うしろ”とは背後のことだろうか。
“あぶない”とは一体、なにが危ないのだろう。
その汚い一枚板の看板には、このコースに設置された
見慣れたステンレス製の案内とは違って、誰かが勝手に
打ち付けたモノのようだった。
薄っすら緑の苔にまみれ腐って朽ちた跡をみると、もう
随分前からここにあったに違いない。
だが、それよりさっきからどうしても気になるのは、そこに
書かれた最後の二文字。
「あぶないしね」なのか、それとも…。
この男の状態とその看板の関係を考えているうちに、急に
背中に視線を感じたような気がして、Tさんは慌てて男
を引っ張るように出口へと急いだ。
男はそのまま警察に保護されていった。
それからしばらくして、一度だけその男が奥さん、友人たち
と思しき仲間と歩いているところとすれ違った。
他のハイカー同様に変わった様子もなかったが、やはり
の時のように品のよい身なりでにこにこ笑っていた。
Tさんも男性に声をかけることなく通り過ぎ、それがハイ
キングコースへ出かけた最後になった。
看板は、いまでもあそこにあるはずだという。
この話を聞いた私は以前、ここに書いた自殺の名所にある
立て札の話を思い出した。
Tさんにこういう話があるんですよと伝えると、彼はとても
驚いた風であった。
そうして、やや考え込んだあと、彼は私にこう言った。
「…そういうモノを誰かがわざと書いてるってことなんで
しょうか?だとしたら、なにが目的なんでしょう?」