看板。 | エニグマ/奇妙な話

エニグマ/奇妙な話

幽霊話ではない不可解な怪奇現象、怪談奇談の数々。
これらは全て実際に起こった出来事です。

この世界は、あなたが思っているようなモノではないのです。

山道の話。
学生時代にワンダーフォーゲルに所属していたTさんは、
結婚してからも週末の休みには一人で近隣のハイキング
コースを散策するのを趣味としていた。
車で遠方の山まで足を伸ばすとなると、家族にせがまれ
一家総出の小旅行になる。愛好家が好むような山歩きは
難しい。
だが、これが近隣だと一人でふらりと行く言い訳もしやすく、
また子供たちも親から離れたがる年頃には近所の山など
見向きもしなくなる。
以来、向かうのはだいたい近くの決まった山となっていった。
そこはよく整備されており、初心者でも気軽に歩ける日帰
りのコースであった。
足を痛めるような難所もなく、汗をかくには少しなだらか
過ぎる道である。
定年間際のTさんよりずいぶん年上のハイカーたちとすれ
違いながら、挨拶をかわすことも珍しくない。
とりたてて目新しいスポットもないが、Tさんには学生時代
の気楽さを思い出してのんびりできる馴染みの場所となっ
ていた。
その日、彼は新しく買ったコンパクトカメラを片手に訪れて
いた。
新しく趣味になっていたカメラを通してみると、見慣れた景
色もまた違って見える。
夢中になってファインダーを覗いていたが、ふと前方と見る
と誰か道端に立っているのが見えた。
ナップザックを背負った同じくハイカーらしきその人物は、
木立を見上げて何かに話しかけていた。

なにか珍しい鳥でもいるのかな…。

シャッターチャンスを期待しながらTさんが近づいていくと、
それは60代半ばの、身なりの整った品のよい男性であった。

木々の間に立って何かに話しかけているその姿は微笑
ましく、ついTさんもつられたように「こんにちは、なにか
いますか?」と、気さくに声をかけた。
振り返った男性はにこにこ微笑みながら、こう答えた。


「いやあ、ここらはいっぱいで、大きな声で鳴く(泣く?)から

(*T氏言葉のまま)


その言葉の意味が分からない。
Tさんが聞き返そうとすると、

「あちこちがいっぱいで、それでね、もう、どど、どうしようか
な、どうしようかなあ…たたたく、たくさんなんですよ、どう
しようかな、こんな、わ、わあわあ鳴かれても…」

…狂人であった。
相変わらずにこにこ笑いながら、同じ言葉を繰り返す男は
小刻みに震え、ズボンを濡らすほど失禁していた。

この当時はまだ携帯も普及していない時代である。

戸惑ったTさんは、とりあえずその場を離れ急いで管理所

に通報しようかと考えたが、こんな状態で置き去りにする

のも躊躇われる。
幸い、そこからコース出口は近い。
一緒に連れていって、そこで警察に通報しよう…。
Tさんがなだめながら男の手をとって促そうとしたとき、

男性が見上げていた木立に目がいった。


そこには小さな案内看板が打ちつけられ、
赤くべったりとした

文字でこう書かれていた。


「う し     ろ   あ   ぶな     い し ね」

…どういう意味だろうか?

普通なら「落石に注意」や「増水時危険」などであろう。
警告文にしてはあまりに漠然としすぎている。
そもそもいままで、この気軽なコースで警告が必要な
ほど危険なものは見たこともない。

“うしろ”とは背後のことだろうか。
“あぶない”とは一体、なにが危ないのだろう。

その汚い一枚板の看板には、このコースに設置された
見慣れたステンレス製の案内とは違って、誰かが勝手に
打ち付けたモノのようだった。
薄っすら緑の苔にまみれ腐って朽ちた跡をみると、もう
随分前からここにあったに違いない。

だが、それよりさっきからどうしても気になるのは、そこに
書かれた最後の二文字。

「あぶないしね」なのか、それとも…。
この男の状態とその看板の関係を考えているうちに、急

背中に視線を感じたような気がして、Tさんは慌てて男
を引っ張るように出口へと急いだ。
男はそのまま警察に保護されていった。


それからしばらくして、一度だけその男が奥さん、友人たち
と思しき仲間と歩いているところとすれ違った。
他のハイカー同様に変わった様子もなかったが、やはり
の時のように品のよい身なりでにこにこ笑っていた。

Tさんも男性に声をかけることなく通り過ぎ、それがハイ

キングコースへ出かけた最後になった。

看板は、いまでもあそこにあるはずだという。

 


この話を聞いた私は以前、ここに書いた自殺の名所にある
立て札の話を思い出した。
Tさんにこういう話があるんですよと伝えると、彼はとても

いた風であった。

そうして、やや考え込んだあと、彼は私にこう言った。


「…そういうモノを誰かがわざと書いてるってことなんで
しょうか?だとしたら、なにが目的なんでしょう?」