前回記事で新しい思想宗教と言ったものの、それは既存の思想の方向を反転させたり順序を入れ換えただけで、言わば魔改造のようなものか。
私のオリジナル占術も同様で、既にある占術の穴を埋め、理屈の間違いを正し、組み合わせを変えただけで、根本の材料は同じだ。
これは「食材は同じでも新たな調理法で料理はもっと美味しくなる」、といった方向性だ。
キリスト教のプロテスタントはカトリックから教会利権を取り上げ、聖書だけで信仰が成り立つように変えたが、あれも魔改造であり、新しい宗教というより宗派が新生されている。
その意味で私のオリジナル占術も宗派(流派)の新設であり、母性に重きを置く新しい(?)思想も新宗派だろう。
その「母性礼賛教」とでも言うべき新宗派は既存の宗教の信仰ベクトルを反転させたにすぎない。
なのでもしかしたら既に類似のものがある可能性もあるが、私は寡聞にして知らない。
よってその構築を自力でやらねばならない。
既存の宗教を「外部にある」「天父神に」「身を委ね、すがる」ものだとするなら、私のそれは「自己の内部にある」「地母神的な母性、慈愛、慈悲に」「自らを一体化させ、輝度を上げる」というものだ。
しかし、それは大悟を目指さない。
仏教では個々の内面に仏性があり、修行の末に悟り解脱に至るとする。
それは自我の殻を破り、仏性を花開かせる技法だが、私の想定する新宗派は殻をそのままにバイパスを繋ぎ、仏性の一面であるハイヤーセルフを引き出し、その中の母性的側面であるハイヤーマザーを取り込むことで仏性の縮小版である母性や慈悲、慈愛を内面に満たすというものだ。
その結果の徳目はほとんどキリスト教や仏教と変わらない。
それは懺悔や憐れみ、許し、祈りといった項目だ。
それらは何かと言えば、人間社会の日々の暮らしにおける各局面での善人の振る舞いだ。
人に嫌なことをしたら「謝る」。
人に嫌なことをされたら深く恨まず、「許す」。
人に助けられたら「感謝」する。
人を助けても自慢せず「謙遜」する。
助けを求める弱った人を「憐れむ」。
憐れんだらすぐに助け、「親切」にする。
物理的に助けられないなら他の誰かに助けられるよう願い、「祈る」。
これらの善意善行は万国万人に共通する人としての美点だ。
どこかの宗教の専売特許ではない。
ではその行為の根底にある精神は何かと言えば、母性の慈愛だ。
それは母の子への愛であり、強者の弱者への労りだ。
一方、天父神とは父性を極大化させた男性原理を象徴するイメージの総体だが、それは強者そのものであり、弱者への労りどころか強権を使って弱者をくみ従え、支配する論理だ。
Wikipedia「父なる神」より引用。
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多くの宗教において、最高位の神は「父性」を持ち、「父」と呼称される。多神教の多くでは、最高神は神々および人類の「父」と考えられている。古代イスラエル宗教および現代ユダヤ教では、יהוה(ヤハウェ)は創造主、立法者、守護者であり、「父」と称される。キリスト教においても、同様の理由により神を「父」と呼ぶが、特にイエス・キリストと神との父子の関係からいう。一般的に、神性に対し当てはめた「父」の名称は、神に属している至高で強力な権威、父祖、守護者であることの源が神自身であることを示している。
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それは年老いた男性が支配するこの世界そのものであり、そこに弱者への慈悲は希薄だ。
それゆえ権力を握ったキリスト教や仏教の教団が影響を与え、改変したこの世の社会システムは暴力が蔓延る凄惨な有り様になっている。
何故そんなことになったのかと言えば簡単な話で、世俗も宗教も権力を握ったのが男性、それも老齢の老害だという一事に尽きる。
そのオールド・ワイズマン、老賢人の支配からグレート・マザー、太母の庇護の世界に(少なくとも自分一人の内面において)改善するというのが母性礼賛の意図であり、そのための内心の練り上げが具体的技法として期待されるものだ。
この「新宗派」はもしかしたら太古の母系社会では当たり前の心性だったのかもしれない。
母を中心とした子らを庇護する社会では、弱者を憐れみ、助け合うのに宗教の小理屈など不要だったろう。
その再建を試みるのが私の願いであり、本当はそこに新しさなどまるでないのだろう。
しかし、今の世の中は権力を持った老いた男性が弱者を罠にはめ、虐げ、食い物にし、告発したら寄ってたかって被害者を非難し、セカンドレイプするのが正義かのごとくメディアを支配する。
その醜態は母性的慈悲や慈愛の欠乏を来した人格障害や愛着障害の悪態そのものであり、そのルーツを遡れば加害者もまた男性的な暴力を幼少期に受けた元被害者だと推測できる。
言わば男性原理の負の連鎖が延々とぐるぐる回ってるだけであり、それにストップをかけられるのは母性的慈愛以外に考えられないのだが、現代では女性の社会進出が進むことで女性自身に男性化の兆しがあり、社会全体の母性濃度が下降していることも悲劇の一因だ。
同時に昨今はMeToo運動の高まりもあり、女性の声がSNSを通じて世の中に届き始めているが、それを頑として受け止めようとしない男性社会の核心部に決定的に足りないものが母性だ。
特に愛着障害を患ってる自覚のある者は自主的に内心の慈愛を育てる必要がある。
しかし人格改善の第一歩である懺悔、罪の告白と謝罪は他責思考に凝り固まった男性的な加害者、犯罪者が最も苦手とする難関であり、その克服はほぼ絶望と言える。
そうなると何が起こるかと言えば被害者や心ある人の社会からの離脱離散であり、その結果が出家リタイア願望や反出生主義の蔓延と来世への期待だ。
それはつまりキリスト教の天国や仏教の極楽への待望論と同じであり、この結論部においても私の思想は既存のそれと重なる。
ゆえに私は既存の宗教に対して「惜しい」と思う。
ちょっとベクトルを変えて男性原理から女性原理に、男系社会から母系社会に、父性から母性にシフトすれば世の中はもう少し優しく、暮らしやすくなるだろうに。
しかし日本の仏教などは女性を穢れとし、聖域への立ち入りを禁じてさえいる。
神道では太古の時代は女性が祭祀を執り行っていた時代もあったようだが、今は女性天皇さえ許されない。
そんな状況下で女性や母性の復権など夢のまた夢であり、結局は個人で内心の母性や慈愛を育み、社会に期待せず死後、他星の天国的世界への転生を企図する結論に達する。
それは地球脱出という宗教的志向だが、何故これほどまでに母性が重視されるかと言えば、それなしで地球で受けたトラウマの解消はなされず、トラウマの呪縛があれば地球に囚われ、他星への脱出などできないからだ。
大悟のためには女人禁制により煩悩が刺激されるのを避けるのは一理あるが、ただ地球から離脱するのに大悟は必要ない。
むしろネグレクトによる愛着障害や虐待による人格障害は母性の慈愛による治癒が必要であり、そこでこそ女性的な優しさや母性が必須となる。
大悟を至上とする既存の宗教ではその観点に気付かず、母性の真価は見逃され、盲点となっている。