似て非なるハイヤーセルフの慈愛と信仰の慈愛 | 運命ハック

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オリジナル占術を幾つか編み出しましたので、それを用いて不定期に占っていきます。

私なりに両者を対比させるとこうだ。

★ハイヤーセルフの慈愛
・自意識→感受性、美意識(美しさ)→それが潰えたときの羞恥心。
・自分視点からの自己肯定とそれが失われたときの絶望。→ハイヤーセルフからの慈愛。
・自分の内部に活路(自力)。源は個人的潜在意識。

★信仰の慈愛
・帰依(自意識の放棄)→鈍感力、信仰心(正しさ)→それを裏切ったときの罪悪感。
・神視点からの自己否定とそれが贖(あがな)われたときの希望。→マリア信仰、観音信仰、地母神信仰からの慈愛。
・外部に救い(他力)。源は集合的潜在意識。

もたらされる結果物は慈愛としてほぼ同一だが、由来が正反対であり、全く異なる。


地母神信仰による慈愛はいわば集合的ハイヤーセルフからもたらされたものであり、所属する思想集団を自身の身体の延長=環境体として認めるなら集合的ハイヤーセルフも自分の拡張した身体と言えるが、その時は著しく個人性が失われ、群体生物の一分子に過ぎなくなる。

それが宗教への帰依であり、その没個性が心地好いから宗教信者はそのまま惰眠をむさぼるが、果たして人としてそれで良いのか疑問が残る。
その疑問さえ生じないのもまた宗教信者の愚鈍さだが、鈍感力こそ信仰心の表れなので、それが深まるほど鈍くなり、抜け出せなくなる。

真面目な宗教信者は確かに慈悲に溢れ優しいのだが、どこか人間離れした白々しさがあるのは帰依により失われる人間らしさの空白感によるものだろう。
ゆえに私は同じ慈愛なら自身のハイヤーセルフから涌き出るそれを好む。


また、ハイヤーセルフには父性と母性があり、慈愛は母性に属するが、マズローのいう自己超越者は高次父性からもたらされた閃きや創造性により自己実現を果たす偉人に多く、高次母性由来の慈愛を備えた者は少ない。
ゆえに高次父性と高次母性は同じハイヤーセルフに端を発すれど両立しない可能性がある。
その場合、慈愛の湧き出しには閃きとは異なるトリガーがあると推測される。

そのトリガーは恐らくは高次父性の閃きの場合、理想欲による知的探求が限界に至り、発狂寸前まで頭を捻り続ける極致が体験上それだと思われる。
高次母性による慈愛の場合は、死を想い自殺実行に手が届きそうなほど生存欲が脅かされ、かつそれに至らず限界に長く居座ることで決行寸前まで神経や感情を磨り減らした極致が体験上それだと思われる。

私の六行理論では人は土性の理想欲と冥性の生存欲に突き動かされ生きていると見なすが、両者が限界まで追い詰められた先にハイヤーセルフからの救済がもたらされる。
その追い込みが私見では必須要因であり、それゆえ巷で語られるただ瞑想すれば良いというようなお手軽なハイヤーセルフとの接続法の条件の緩さには鼻白む思いがする。


★六行

__木
火___水
土___金
__冥

__集合無意識
自意識___感情
理想欲___思考
__生存欲

<火→木> 自意識→集合的無意識→「変容」→宗教的慈愛。(例外的閃き)
<土→金> 理想欲→思考→「変容」→高次父性による閃きや創造性。
<冥→水> 生存欲→感情→「変容」→高次母性による慈愛。
※「変容」はθ波→γ波の脳波の変異による変性意識状態を指す。


神への信仰心は時に神託として人間では知り得ない高度な情報を受信させる場合がある。
それは成果物としては慈愛でなく閃きや創造性に等しく、火→木の集合的無意識との接続は情緒的な母性だけでなく知的な父性をも内包する。

つまり個人的ハイヤーセルフは父母の両立が不能だが、集合的ハイヤーセルフには雌雄の別がなく、両立が可能なのかもしれない。
その場合、宗教への帰依が個人的探求に勝るが、しかしながらその高みに到達する信者はほとんどいないとも思う。

なぜなら神託者、預言者は集合的無意識、神と呼ばれる何かから選ばれ、メッセージを送信されるのであり、あくまで受け身だからだ。
それゆえ本物の預言者は希少であり、だからこそ偽者による詐称が後を絶たない。

そんな他力本願より自力救済に活路を見いだすのが人としての矜持であり、求道の誉れではあるまいか?