愛着障害とは乳幼児期に母親や周囲の養育者から的確な育児をされず、不十分な愛着により感情の発露が歪み、内面に認知障害が生じ、外面的に行動障害が起こることで将来的に社会不適応を起こす病理である。
愛着が安定する場合、子供は母子間で形成される安心安全の心の「安全基地」を基盤とし、そこをベース基地にして外界の未知なる危険を探索し、刺激を受け、すくすく成長する(安定型)。
愛着が不安定、つまりある時は親が子を愛着をもって猫かわいがりし、ある時は軽視・無視するといった一貫性のない愛着を見せた場合、子供は親を信用せず怒りを向ける(不安定型)。
それはトルコアイス屋で店員が客をおちょくり客が怒りだすような、動物園の猿が客にからかわれ餌をくれそうでくれず怒りだすような、親の気まぐれで子供が振り回されるときに生じる。
愛着が安定でも不安定でもそこには愛着の濃度、関わりの濃さがあるが、親の子への関心が一貫して希薄な場合、まるで他人のように子供も親を見る(回避型)。
親と赤の他人のようによそよそしく関わるなら当然本当の赤の他人とはそれ以上に距離が生じ、親密になれず、むしろ自分からそうなることを回避する。
そういった子供の振るまいに主眼をおけば回避型と呼ぶに相応しいが、根本は親の愛着の希薄さであり、希薄型と呼んでもよかろう。
その場合、安定型は(愛着)濃厚型、不安定型はまだら型と呼んでもいい。
それはまるでスープのように愛着の濃淡が分化している。
うまいスープは全体が均一で濃い(安定型)。
まずいスープは味噌が混ざりきらず、辛いところと薄いところが点在する(不安定型)。
まずいスープのもう一つは出汁を入れ忘れたか、全体が薄味で旨味がない(回避型)。
下手な養育者=下手な料理人だ。
ちなみに子供に対し暴力・暴言を振るう虐待親はスープに泥を入れるようなもので、料理ですらない。
愛着障害を生み出す未熟な親はあくまで愛着の振り幅がプラスとゼロの間の行き来であり、虐待親のようなマイナスではない。
それゆえ親も自分が酷い仕打ちを子にしてる自覚がなく、子もまた親を毒親とは認識しない。
問題を問題と正視できないならば、それは不可視のまま潜行し悪化する。
子が育ち大人になったとき、社会に適応できず初めて愛着障害が露見することも多い。
では乳幼児期に正しく安全基地を形成できず大人になった人はどうすればいいか?
現行の精神医療ではどうやら育児下手の毒親に心理学的メソッドを通して改心してもらい、子と向き合い直すことで安全基地を再形成するか、教師など親以外の他人に親代わりになってもらい、擬似的な安全基地を築く代替案しか提示されていないようだ。
しかし毒親の改心は奇跡だし、恩師との邂逅はレアだ。
そんな低確率の珍事を期待するのは現実的でなく、それゆえ大人になって安全基地作りに悩む人が後を絶たない。
かくいう私もその一人であり、ただでさえ大人になったら友達作りも難しいのに心身の安全を全面的に委ねる親代わりの安全基地などどうしてできようかと疑問に思う。
そして(ここから話が飛躍するが)私が思い出すのは思春期の一時期経験した、現実に絶望し、死を想い、死を突き抜けた先の安堵体験だ。
死を受け入れると逆に生あるものが輝いて見えるという不思議な心境。
死を想い、死を突き抜け愛に至るとは、詰まるところ宗教的階段を昇るに等しい心理的解放を意味する。
あるいは宗教的な階段が抜け、階下に落ちたと思ったら次元がねじれ、屋上に降り立つような逆転劇。
この転倒した心理は死の恐怖から逃れ、九死に一生を得て正の感情が爆発した「生悦」に近いかもしれない。
この心理工程を直接仏道と言ってもいいが、ならば仏教と対峙するキリスト教はどうかと言えばあれもまた「大人の安全基地」の亜種であろう。
実在する改心した親や恩師の代わりに架空の神や天使、天国を想い、信頼の契りを結び、安堵を得る。
(なるほど、なぜ大の大人が教義も修行法もデタラメな新興カルト宗教に騙されるかというと、安全基地を渇望した結果パチモンを掴まされたのか)
適切な愛着形成により生じる安全基地は生の入り口である乳幼児期に大部分が構築される。
一方で「想死湧愛(造語)の境地」は生の出口、死の入り口を想像し、身にまとい、一体化することで構築される。
それらはまるで正反対でありながら生死の境を挟んだ隣人であり、安堵の供給源として質的に等価だろう。
仏教にしろキリスト教にしろ、宗教とはあの世を語るものだが同時にこの世の未形成だった安全基地を補完・代替する効果もあるということ。
宗教が保証するのは形なきあの世の安堵のみならず、生あるこの世の安心安全なのだろう。
では愛着障害を抱える迷える子羊は仏教とキリスト教、死道(絶望)と生道(希望)のどちらを歩むべきか?
(極楽を説く浄土宗はキリスト教と同じく生道と見なす。逆にキリスト教異端派のエックハルトは死道)
絶望や死、無や空(くう)を精神の母体とし、安全基地の代替とする死道を選ぶなら、その具体的手法はいかなるものだろう?
その判断や瞑想技法の開拓・熟達について今の私に語れる事柄はないが、一つ言えるのは日記などの認知療法は安全基地なくして効果を発揮し得ないということ。
この世での安定した安堵があるから辛い過去を振り返り、トラウマを癒せる。
その命綱なくして(トラウマの宿る)潜在意識という深海への潜水など至難だ。
それゆえ愛着障害を患った誰しもがトラウマとの対峙が必要だと分かっていても二の足を踏む。
①安全基地にしっかり命綱を結ぶ。
②安全基地がないなら宗教的アプローチを忌避しない。
この二点を踏まえて初めてトラウマ日記などの認知療法、自己対話は機能すると私は当たりをつけている。
(自己対話なくして次のステップ、童心=インナーチャイルドの顕現には進めない)
精神科医やカウンセラーは商売敵の宗教が安全基地の代替となり得る可能性を明示せず隠す。
一方で愛着障害と安全基地の理論を知った宗教は新しい顧客を獲得し、販路を拡大しようと布教に励む。
ゆえに②に関してはインチキカルトに騙されないよう注意されたし。
そのためにはできれば死道、仏道を進むこと(カルトは希望を撒き餌とする生道に多い)。
それも禅寺など外的な助けを借りず、単独自力で事を為すこと。
私も思春期の一時期だけ、今となっては奇跡的な境地に到達していたが、残念ながらその構築と崩壊の詳しい経緯を覚えていない。
恐らく思い出しても人に語れる話ではないだろう。
結局瓦解したということは何かが間違ってたか、過不足があったと思われる。
おぼろ気ながらヒントになるとしたら、それは単純な希死念慮でなく、覚悟の末の絶望と死との同調だということ。
それも年単位の長期にわたる同化。
擬似的に死の淵に立つことで逆説的に活気づく生命力という点で、この心理機構はやはり生悦と同じカラクリだと思われるが、確証はない。
絶望と自死については宗教より哲学の領分なのだろう。
そのワードで検索するとエミール・シオランという思想家が出てきた。
Wikipediaより。
>ニーチェ、パスカル、グノーシス主義、仏教、
>マイスター・エックハルト、十字架のヨハネから大きな影響を受け、
>サミュエル・ベケットやアンリ・ミショー、エルンスト・ユンガーら
>特異な文人とは最後まで親交があった。
グノーシス主義、仏教、エックハルトに影響されたなら私は彼の系譜の思想を持っていると言える。
まだ一冊も読んでないが今後、絶望と死の温床が逆説的に安堵の安全基地に化けるカラクリを解明するには丁度いい先達か。