Qman blog -4ページ目

Qman blog

よろず日記

  1. 睡眠時間が短い人は太る 睡眠時間をちゃんととろう
  2. 朝にカーテンを開ける 朝6~7時に陽の光を浴びる 
  3. 舌専用歯ブラシを一日一回使う 味覚の鈍麻を避ける
  4. 食前にコップ2杯の水を飲む 1~2時間に一度、一杯の水を飲む
  5. 食べるのが速いと太る 満腹中枢を刺激しないので 一口ごとに箸を置く位がよい
  6. 肌寒い季節は、痩せるための褐色細胞が活性化する
  7. 一日一杯、緑茶を飲む 痩せる細胞の活性化 脂肪の燃焼量が増加
  8. 食後に散歩程度の軽い運動  食器洗い 部屋の片付けなど 激しい運動は良くない
  9. 食後の歯磨きをする 間食を避ける方法になる
  10. 一日2回、体重を測る 朝と夜で数値の差が少ないと痩せる傾向  

 

テレビで見たもの

詳しい理由は検索してみてください

 

 

今回は、聖戦と訳されることの多いジハードについて

「ハディース」には、いちばん大切なジハードは自分との闘いである、とされている

自分の弱い心を乗り越える、という意味で、これを大ジハードという

武力による戦闘は小ジハードといい、「イスラムの大義のための異教徒との戦争」を意味する。また、ジハードで死ぬ事は天国への一番の近道ともされている

ムスリムであれば、同じ死ぬのなら、ジハードで死にたいと思うのが本当らしい

 

ジハードというと、自爆テロに結びつけて危険視する人が多いけれども、自殺することはジハードではない

死ぬことを目的とするものではなくて、あくまで死ぬまで戦うというのがジハードの定義

自爆テロでは100%の死を予め選んでいるので、そこには自殺の意図が含まれてしまう

イスラムの教えでは、自殺は永遠に火獄で焼かれるほどの大罪なのである

また、大量破壊兵器を用いるのはイスラムの倫理に反する

兵士以外の一般市民を巻き添えにするのがイスラム法の見地からは犯罪となるから

また、敵を焼き殺すことも禁じられている

現代の大量破壊兵器は、ミサイルや爆弾など、人を焼き殺すものが多いので使えない

すると9・11の実行犯のやっている事は、世界各地で起きている反米闘争のひとつに過ぎず、ジハードとは言えないことになる

 

「剣かコーランか」と言って、武力で異教徒に改宗を迫る宗教戦争がジハードだと思う人もいるが、これはヨーロッパのキリスト教徒が作り出したデマである

イスラム社会は他宗教に寛容で、多くの宗教、宗派が共存しているのが現実

正しくは「剣か税かクルアーンか」で、税金さえ納めれば改宗する必要はない

 

ムスリム指導者としてのカリフのいない現代においては、ジハードというのは異教徒の攻撃に対するやむをえない自衛としての行為に限定される

 

カリフというのは預言者ではなくて、預言者の伝えた神の法であるシャリーア(イスラムの法)に従う者。新たな法を作ったり、解釈を変更するしたりすることはできないので、権力を恣意的に運用することはない。独裁者ではない

イスラムでは神は一人、法は一つ、預言者も一人なので、預言者の代理人であるカリフも一人。これによって、宗教的な権威、政治的な権力の乱立が防がれる

このカリフのみがジハードを命じることができる

しかし今はいない

 

ここで問題が生じる

近年、悪名高い「イスラム国」ではカリフと勝手に名乗る バグダーティー という者が登場し、自分らの戦闘活動をジハードと正当化して世に混乱を招いた

しかしバグダーティーにカリフの資格がないのは言うまでもない

また、現在のイスラムの諸国では、カリフに従うように、王や大統領に従え、などという言い方をして、イスラム法を蔑ろにしているのが現実である

カリフ制はあくまでも法の支配なので、カリフという人物に中心があると思ってしまうと誤解を招いてしまう

初代カリフ アブー・バルク  ( 573年-634年 ) の言葉

「私が正しければ私を助け、私が誤りを犯せば私を正して下さい」「私がアッラーフとその使徒に従う限り私に従いなさい。もし私がアッラーフとその使徒に背いたなら、あなたがたは私に従う義務はない」

 

参考文献 イスラーム 生と死と聖戦 中田考著

 

 

 

 

イスラム主義(サラフィー主義)

サラフとは元祖の意味で、西暦7~9世紀の原点にたちかえってイスラムを再構築しようという復古主義

 

スーフィズム(イスラム神秘主義)

聖者に、子授け、病気治し、合格祈願といった現世利益を求めて、また聖者廟に参拝し、霊験あらたかな聖木を祀るといった宗教生活をする 

 

サラフィー主義者は

スーフィー(スーフィー主義者)を、前に述べたイスラムの根本概念であるタウヒード(唯一神信仰)を否定しているものとして非難する

 

ところで、サラフィー主義者たちも、悪霊、天使、聖者、奇跡といったものは、信仰の対象とはしないが、否定はしない。悪霊を祓ったりすることもあるとか

 

サウディアラビア国にはサラフィー主義者が多い

この国ではスーフィーは見つかれば魔術師として処刑されてしまうらしい

 

だんだん厳しいところに入ってきた・・・

 

スンニ派とシーア派の対立、という問題もあるし、イスラムは一枚岩ではない

同じムスリムでも、どの派に属しているのか、を慎重に見極める必要がある

日本人は宗教音痴なので、なおさら気をつけないといけません

イスラム系の取引先の人達に、誤って豚肉の入った料理をふるまってしまって大問題となり、ビジネスの契約を失ってしまった人の話も聞いたことがあります

あるレストランで、豚肉の料理をムスリムに出さなくても、他の人に豚肉料理を提供していたらば、同じ厨房で同じ調理器具で調理していた、ということでその店はアウトになるらしい

洒落にならないのがこの世界

 

 

 

 

 

 

 

 

 

イスラムの聖典、クルアーンは現世肯定で、キリスト教のように、お金をいじるのが卑しいというようなことは言わない

現世の富、神の恵みを享受しなさいという言い方が、クルアーンのあちこちにちりばめられている

商売はどんどんやりなさい、不正はいけないけれど、適正な仕事はどんどんやって事業を拡大しなさい

自分たちが慎ましく生きるだけの分は絶対に稼ぎなさい、それ以上は自由だ、ただし使いすぎないように、という 

労働懲罰という考え方はなくて、商業民族的労働観がそこにはある

ただ、クルアーンでは利子というものを認めないとか

金が金を生むというようなことはよろしくないと

実際、無利子銀行などというものもあるらしい

 

クルアーンでは前世のことは言わない、現世と来世のことだけを言う

前向きですね

キリスト教的な原罪観もない

 

個人が僧院で苦行するということもなく、9月のラマダン(断食)も共同体の皆で行う

断食はイスラムの宗教性の現れでもあるが

まるで現世肯定というわけでもないようで

 

一般的ではないが、イスラムにはスーフィズムという神秘主義もあって、托鉢僧のような存在もいるらしい

 

 

 

 

 

 

イスラムにおける所有について

イスラムにおいては  神有 つまり神が有する、といった概念がある

この世のあらゆるものは神が創造したものなので、ほんとうに所有できるのは神のみであると

人の有する富は、人が仮に持たされているだけのものに過ぎない、という自覚がある

イスラムにおいては、個人が努力して得たものを私有財産として明らかに認めるのだが、背景にはこの神有の概念がある  

それは資本主義の私有でもなく、社会主義の公有でもないもの

私有と神有が渾然となったものがイスラムにはある

 

イスラム社会においては、一定以上の収入のある者は貧者等に喜捨(ザカート)を行う

そうでない者も自発的に慈善(サダカ)を行う

イスラム社会では、貧者が卑屈になることはない

財は神が金持ちに預けているだけのものだ、という意識があるので

 

しかしどうだろう

自分のなすべき努力を放棄して、恵んでもらうのを当然だとひらきなおる輩は出てこないのだろうか

人が落とした財布を、神が恵んでくれた、と悪解釈する輩は出てこないのだろうか

 

 

 

 

 

世界を管理して秩序を与えていく

神は初めその仕事を天使に任せようとしたが、天使は「できません」と断ったとか

しかし、人間はそれを「はい、やります」と引き受けた

それゆえ

「人間は現世における神の代理人である」

とされた

神は天使たちに

「人間は重荷を背負っているのだから、人間に跪拝しなさい」

とも言った

すると「いやだ」という天使もなかにはいて、それが悪魔にされてしまったとか・・・

イスラムでは、天使はことさらに仰ぐ対象ではないようで

 

神の代理人のことを「カリフ」と言う 人間は皆ひとりひとりがカリフなのである

カリフにはもう一つの意味がある

ムスリム集団の長、指導者という意味でのカリフで、これを「神の御使いのカリフ」とも言う

 

1:カリフ ・・・神の代理人としての人間達

2:カリフ ・・・神の御使い ムスリム集団の指導者

 

カリフには2つの意味がある

 

1と2において、より重んじられるのは1のカリフの意味だそうで

2の指導者としてのカリフは、共同体の上に立つ王様のような存在ではない

本来のカリフは、共同体の一番下に立って、人々の命運を社会的配慮する存在である

預言者ムハンマドの亡き後、カリフ制度が確立されてから

アブー・バクル

ウマル

ウスマーン

アリー

の四代のカリフが続いた

彼らはイスラムの理念を正しく反映させた政治を行ったことから、理想的なカリフとされている

イスラムでは「この時代の精神に帰ろう」が合言葉になっている

原点回帰主義といってもいいもの

この時代には、皆が神の代理人、カリフだという意識をもって生活していた(1の意味のカリフ)

しかし現在では、2の指導者としてのカリフというものが、上から支配するものだと考えられてしまっている・・・

本来の指導者・カリフというのは権力を誇示するところのない質素な人間がふさわしいと

実際、過去の優れた指導者・カリフにはそのような人がいたとか

 

 

 

 

 

 

クルアーンには

「すべての人々よ、われらは男と女に分けて創り、お前たちを多くの種類、部族に分けた。これはお前たちをお互い同士よく知りあうようにしてやりたいとおもえばこそ。ただしアッラーの御目から見て、一番尊いのは一番敬虔な人間。」49節13節

とあります

 

イスラムの基本的観法に「タウヒード」というものがあると前に述べました

この世のすべてのものは一つのものから生まれたもので、存在として等位である、とする見方ですね

人間で言えば、性別や、民族、貴賤、貧富の違いはあっても、やはり存在として等位であると

では、そもそも一つであったものが、なぜそのように多様に分化していったのだろうかと

「これはお前たちをお互い同士よく知りあうようにしてやりたいとおもえばこそ」

と記されていますが、これも一つの答え

違いのなかにあってこそ、同一であるという真実をあらためて知ることができるのだからと

また、それぞれが、異なる境遇で、神の存在を異なる経緯で知ることができるようにもなっていると

「一番敬虔な人」とはどんな意味だろう

ふと連想したのは新約聖書の

「 心の貧しき者は幸いである。天国は彼らのものである。 」(マタイ書 5章3節 )

というもの

心が貧しい、というのは霊的に満たされていない、という意味らしい

 

イスラムには ウンマ とよばれる独特の共同体がります

民族や人種の違いはあっても、タウヒードを共有する民として同じだ、という意識から成り立つものらしい

それこそ民族や人種を超えてつながるので、イスラムの共同体は急速に広まっていったとか

イスラムの教えは、地上の法の部分も含む、と前に述べましたが、このウンマという共同体では、唯一なる神を深く祈念する、という宗教的な部分だけではなく、社会性から重んじられる法も遵守していかなければならない

個人と共同体では、その倫理も多少変わってくるだろう

キリスト教では個人と神との関わりのことは述べられているが、個人と共同体との関わりについては疎い

新約聖書に

「汝の敵を愛せよ」(マタイ5章44節)

とあるが

共同体に対して、敵の部族を愛せ、といったら滅ぼされてしまう

個人の意志としては、それでいいのかもしれないが、共同体としては、部族の生命を護るというのが第一となるので

 

 

 

 

 

 

イスラム教の開祖は ムハンマド ですが

あくまで預言者、人であって、神格化はされません

クルアーンには

「ムハンマドも結局ただの使徒」(3章138節)とあります

また、「無知なるものムハンマド」という言い方もされる 

 

人であるムハンマドが、天使ガブリエルを通して天にあるものを聞いて写したものがクルアーン(コーラン)です

ムハンマドの言葉ではなくて、神の言葉が直接記されたものとして、クルアーンはイスラムにおける第一法源となります

ただ、クルアーンは抽象的で応用が難しい

そこで第二法源として「スンナ」というものもあります

ここには、預言者ムハンマドのいろいろな聖行が記してあります

しかし人間ムハンマドの記録なので、クルアーンのように絶対のものとはされない

そこにはムハンマドの犯した間違いなども記されている

もうひとつ「ハディース」という法源もあって、これは、ムハンマドが亡くなった後に、彼の言行を書きとめたもので、長い年月に渡って、各地に残るものを萬集したものです

そこには伝承者の名前も記されていて、形式的にはキリスト教の新約聖書に近いものといえます

神の言葉を直接記したクルアーンに近いものは、しいていえば旧約聖書の十戒となるだろうか

 

「クルアーン」・・・(十戒)

「スンナ」

「ハディース」・・・(新約聖書)

 

ムハンマドは預言者であったけれど、キリストのように神の子のように扱われていないところが重要

そこにはやはりタウヒードの思想が根本がある

このあたりのことは仏教における如来・菩薩にもいくらか通じる

仏教ではそもそも信仰の対象がなかった 

むしろ信仰を捨てよと説いていた

 「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域(りょういき)の彼岸(ひがん)に至るであろう。ピンギヤよ。」  スッタニパーダ 1146詩

あるとすれば仏法が信仰の対象でした

しかしその後、開祖達を神格化して祀り上げて、跪拝するようになってしまった

如来・菩薩はあくまで人間、先生であって、感謝の対象ではあれ、信仰の対象ではありません

 

 

 

 

 

 

 

 

この世のあらゆるものは、その存在の原因を他に持っている

自身の存在も父母なくしてはありえないし

花も、水や空気、光がないと咲かない

何かが存在するということは、他の存在になんらかの因子をたよっている

そして、その因となるものは、無限に交差して、遡っていく

その因の系列が最初の一点に収斂したところ

原初の原因そのもので、他の存在によらずに始まったところの一点

それが神であるとする   

 

はじまりの特異点 唯一神 は

はユダヤ教、キリスト教、イスラム教の共通点でもあります

 

他に依らず、それひとつだけで存在しうるもの 実体 というものが世にない

というところは仏教の空の思想にも通じますが

はじまりの特異点のようなものは仏教では言いませんね

 

 

 

イスラムでは

我々人間には神を知ることのできる本然の性がもともとあって

前回に述べたタウヒードの教えを理解することによって、神を知ることができるとする

それは単なる理性を超えたものによる理解だろうと

このへんも、すべてのものに仏性があるとする、仏教的な見方に近い

「一切衆生悉有仏性」

 

クルアーンには

「まことに天と地の創造、昼夜の交替。人に益するものを運んで海原 をゆく船、またアッラーが天から降らせ死んだ大地を蘇えらせる雨、 地上に広く散らばる生きとし生けるもの、また風向きの変換。また天 地の間に奉仕する雲などのうちには、理解ある者への徴がある。」(第 2章164節)

とある

 

理解あるものへ徴を読み解くことにより神を知る

多神教的な考え方をすると、風には風の神が、雨には雨の神が、と分けてしまうわけですが、タウヒード的な思想が根本にあるならば、多々ある現象も一つの因からはじまっているとする見方ができる

また、神が万物を創造したのであるが、神に造られた被創造者は、存在の価値としてひとつで、等位にあるということが重要 

目の前にある岩を拝んでも仕方がない

人が想像した神々ではなくて

人を創造した神を重んじないと