オーストラリアで起きた、銃による大量殺人事件をモチーフにした映画「二トラム」を観ました
主人公の青年、二トラムには知的障害があったようで
そのせいか周囲との人間関係がうまくいかなかった
母との関係も破綻していた
そんなところ
偶然知り合った年配の金持ち女性ヘレンとは馬が合い、同居する関係にもなった
ヘレンは二トラムを懐深く受け入れていた(ヘレンもちょっと異風な人だったのだけど)
しかし、そのヘレンが突然の車事故により亡くなり
また、いつも自分のことを気にかけてくれていた父も心を病んで自殺してしまってからは
彼にはたよる者がいなくなってしまった
人とのつながりを求めて、バーやビーチにもいったりしたが
いつもキワモノ扱いされてしまう
二トラム NITRAM というのは MARTIN の名を逆読みした蔑称です
周囲に受け入れられない人間は、孤独になると、身に降りかかる諸々の災難の原因を他責化することがある
今回は、そこに銃という殺傷道具が加わることによって、悲惨な大事件へと暴走してしまった
これは彼個人の罪でもあるのはいうまでもないが、社会が招いた部分もある
銃に対する法的な規制の強化といったことも大事だが、社会というか、地域における、病める人の心のケアのようなものも、もう一歩踏み込んだところまであればなと
プライバシーの問題もあるので、どのように接点をもつのかは難しい部分もあるだろうけど
ちょっとした繋がり感があるだけでも、事態を悪化させるのを防ぐことができるのではないだろうか
そうでもしないと、今後、似たような事件がさらに増える可能性がある
ひこきもりになり、世と断絶した人間が増えているという昨今
あるいは、そうした人達は、これからはメタバースの世界に繋がりを求めるのだろうか
メタバースにはAIによるつきあいやすい人間が多数いるだろうし
こちらもアバターだから弱みがない
そんな世界にどっぷりと浸かって、現実からますます遊離してしていくのだろうか
解説を楽しむ
という視点で野球を見たことがないので
おもしろいですね
将来は阪神の監督でもするのかな
歎異抄に
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」・・・
という有名な言葉があります
善人でさえも救われるのだから、悪人が救われるのは言うまでもない
という意味ですが
悪人でさえも救われるのだから、善人が救われるのは言うまでもない
ならわかるのですけど、なぜこんな逆説的なことを言うのだろうかと
実際には
自分のことを善人だと思う人間でさえ救われるのだから
自分のことを悪人だと思う人間が救われるのは言うまでもない
そもそも人間は煩悩にまみれた悪人なので
という意味らしい
似たような言葉が新約聖書にもある
「心の貧しき人々は、幸いである 天の国はその人たちのものである」
心が貧しい とはどういうことか
その答えも聖書の中にあります
ファリサイ派の人と徴税人のたとえ
「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
ファリサイ派というのは当時の宗教者だろうけど
神に近いところにあると思っている者が、かえって遠くなっているという皮肉
己が人より先んじていると他を見下すものは
かえって天の国から遠ざかる
救われもせず 往生もできず
とある統合失調症の知人との会話
酒を飲むことで体調を悪くしているので
飲むのをやめられないのか?
と聞くと
神が飲ませるので仕方ない
と言う
身体を悪くすることを勧めてくるのは神ではないのでは?
と問うと
いい 悪い を超越しているのが神だ
と宣う
自分は飲みたくないのだが 神は泣きながらすすめてくるのだそうで
いったい自分はどこへ行ってしまったのだろうか
なにかのせいにして罪悪感を逃れたいのか
それ以上は突っ込む気にもならず
とはいえ
酒を飲んで身体を悪くするのをただ見ているのもなんだし・・・
その人の考え方だからといって、放ってはおけないこともある
この話はここで終わりにしますが
統合失調症というのは、非常に強いストレスを受けた際に、誰でもなりうる病だと
そう述べる医学者もいる・・・中井文夫
特にそうなりやすい傾向をもつ者を「S親和者」と呼んでいた
S親和者というのは、微かな徴を先取りして感受できる鋭敏さを持つ人だとか
変化の傾向から瞬間的に未来を予測してしまう微分的認知を有する
「もっとも遠く もっとも杳(はる)かな兆候を もっとも強烈に感じ
あたかもその事態が現前するごとく恐怖し憧憬する」
と中井は語っていたが
先の人は まさにそういった感じ
ちょっとした出来事から巨大な空想、妄想を膨らませる
それが未来予知につながることがあったり、妙に鋭い人生訓だったりすることもある
「一葉落ちて天下の秋を知る」
普通の人にはない視点を持っている
「S親和者」は変化に非常に敏感で、これから起こることに関するセンサーは非常に発達している
しかし過去のデータベースなどを参照したり、経験から学ぶことは苦手
「S親和者」は狩猟採集の時代にはその特性を活かすことができたが、過去データの集積の上に成り立つ農耕、牧畜社会においては、秩序やルールが重んじられるので、「S親和者」ははみ出しものとなりやすい
そういう場で「S親和者」が居所を探すとなると
王 雨司 呪医 船長 数学者 科学者 ・・・
そういった職業であれば、S親和者はその才能を活かすことができるだろうと
時代は「S親和者」にはますます生きにくいものとなってきている
精神科におけるリハビリテーション、作業療法といったものなどは
基本的に農耕社会における時間とルールに縛られた、ある意味、脅迫的な世界に順応させるものだと中井は言う
しかし最近、SNSなどで、発達障害気味の空気を読まないタイプの人の発言が目立つようにもなってきた
会社人間的な勤勉な執着気質の人は今でもいるが
時代が行き詰まってきたとき 世直し的な破壊と創造が望まれるとき
大きな役目を担うのが「S親和者」ではないだろうか
現実世界では戦争などで悲惨な死に方をする人が大勢いる
それも人の業、と言えなくもないが
創造主 メーカーである神の責任は少しもないのだろうか
もしあるとすれば、神はどのように責任をとるのか
敢えてぎりぎりのことを言えば たとえ死んだとしても救われる?
死んでも担保されるものがあると
そうとでも考えねばやるせない
イスラムでは来世の存在を説いている
死は一つの通過点となる