Qman blog

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よろず日記

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モニタースピーカーなどのニアフィールドスピーカーより

低音の響くオーディオシステムや、5・1チャンネルなどで音を出すと楽しめます

音に包まれる感覚が得られるので

 

 


 

 

こういう類のものは個人の好みもあるし

その時の気分、体調などによって感じ方が変わってくるのでしょうけど・・・

 

同じメロディーの繰り返しなので、音楽を聴くように物語を追うわけでもなし

この単調さがマントラ的な効果をもたらし

変性意識状態になりやすくしているのでしょうか

律動する呼吸にも似て

 

 

 

 

そろそろ梅も終わりでしょうか

羽根木公園にて撮影

今年は桜が早いそうで

 

 

 

 


 

 

 

オーストラリアで起きた、銃による大量殺人事件をモチーフにした映画「二トラム」を観ました

主人公の青年、二トラムには知的障害があったようで

そのせいか周囲との人間関係がうまくいかなかった

母との関係も破綻していた

そんなところ

偶然知り合った年配の金持ち女性ヘレンとは馬が合い、同居する関係にもなった

ヘレンは二トラムを懐深く受け入れていた(ヘレンもちょっと異風な人だったのだけど)

しかし、そのヘレンが突然の車事故により亡くなり

また、いつも自分のことを気にかけてくれていた父も心を病んで自殺してしまってからは

彼にはたよる者がいなくなってしまった

人とのつながりを求めて、バーやビーチにもいったりしたが

いつもキワモノ扱いされてしまう

二トラム NITRAM というのは MARTIN の名を逆読みした蔑称です 

 

周囲に受け入れられない人間は、孤独になると、身に降りかかる諸々の災難の原因を他責化することがある

今回は、そこに銃という殺傷道具が加わることによって、悲惨な大事件へと暴走してしまった

これは彼個人の罪でもあるのはいうまでもないが、社会が招いた部分もある

銃に対する法的な規制の強化といったことも大事だが、社会というか、地域における、病める人の心のケアのようなものも、もう一歩踏み込んだところまであればなと

プライバシーの問題もあるので、どのように接点をもつのかは難しい部分もあるだろうけど

ちょっとした繋がり感があるだけでも、事態を悪化させるのを防ぐことができるのではないだろうか

そうでもしないと、今後、似たような事件がさらに増える可能性がある

ひこきもりになり、世と断絶した人間が増えているという昨今

 

あるいは、そうした人達は、これからはメタバースの世界に繋がりを求めるのだろうか

メタバースにはAIによるつきあいやすい人間が多数いるだろうし

こちらもアバターだから弱みがない

そんな世界にどっぷりと浸かって、現実からますます遊離してしていくのだろうか

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

解説を楽しむ

という視点で野球を見たことがないので

 

 


 

 

おもしろいですね

 

将来は阪神の監督でもするのかな

 

 

 

 

 

 

長いので

倍速で聞きました

 

 

言いまわしがちょっとオーバーですが

白砂糖が覚醒剤の粉のように見えてきたら成功なのかな 笑

 

立春を過ぎて ほんとの新年

身体健康な一年であるように

白砂糖を控えるようにがんばろう

 

 

 

 

 

 

 

歎異抄に

「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」・・・

という有名な言葉があります

善人でさえも救われるのだから、悪人が救われるのは言うまでもない

という意味ですが

悪人でさえも救われるのだから、善人が救われるのは言うまでもない

ならわかるのですけど、なぜこんな逆説的なことを言うのだろうかと

 

実際には

自分のことを善人だと思う人間でさえ救われるのだから

自分のことを悪人だと思う人間が救われるのは言うまでもない

そもそも人間は煩悩にまみれた悪人なので

という意味らしい

 

似たような言葉が新約聖書にもある

「心の貧しき人々は、幸いである 天の国はその人たちのものである」

心が貧しい とはどういうことか

その答えも聖書の中にあります

 

ファリサイ派の人と徴税人のたとえ

 

「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

 

ファリサイ派というのは当時の宗教者だろうけど

神に近いところにあると思っている者が、かえって遠くなっているという皮肉

 

己が人より先んじていると他を見下すものは

かえって天の国から遠ざかる 

救われもせず 往生もできず

 

 

 

 

 

 

 

 


とある統合失調症の知人との会話
酒を飲むことで体調を悪くしているので
飲むのをやめられないのか?
と聞くと
神が飲ませるので仕方ない 
と言う
身体を悪くすることを勧めてくるのは神ではないのでは?
と問うと
いい 悪い を超越しているのが神だ 
と宣う
自分は飲みたくないのだが 神は泣きながらすすめてくるのだそうで
いったい自分はどこへ行ってしまったのだろうか
なにかのせいにして罪悪感を逃れたいのか 

それ以上は突っ込む気にもならず
とはいえ
酒を飲んで身体を悪くするのをただ見ているのもなんだし・・・
その人の考え方だからといって、放ってはおけないこともある

この話はここで終わりにしますが
統合失調症というのは、非常に強いストレスを受けた際に、誰でもなりうる病だと
そう述べる医学者もいる・・・中井文夫
特にそうなりやすい傾向をもつ者を「S親和者」と呼んでいた
S親和者というのは、微かな徴を先取りして感受できる鋭敏さを持つ人だとか
変化の傾向から瞬間的に未来を予測してしまう微分的認知を有する
「もっとも遠く もっとも杳(はる)かな兆候を もっとも強烈に感じ
あたかもその事態が現前するごとく恐怖し憧憬する」
と中井は語っていたが
先の人は まさにそういった感じ
ちょっとした出来事から巨大な空想、妄想を膨らませる
それが未来予知につながることがあったり、妙に鋭い人生訓だったりすることもある
「一葉落ちて天下の秋を知る」
普通の人にはない視点を持っている

「S親和者」は変化に非常に敏感で、これから起こることに関するセンサーは非常に発達している
しかし過去のデータベースなどを参照したり、経験から学ぶことは苦手
「S親和者」は狩猟採集の時代にはその特性を活かすことができたが、過去データの集積の上に成り立つ農耕、牧畜社会においては、秩序やルールが重んじられるので、「S親和者」ははみ出しものとなりやすい
そういう場で「S親和者」が居所を探すとなると
王 雨司 呪医 船長 数学者 科学者 ・・・
そういった職業であれば、S親和者はその才能を活かすことができるだろうと

時代は「S親和者」にはますます生きにくいものとなってきている
精神科におけるリハビリテーション、作業療法といったものなどは
基本的に農耕社会における時間とルールに縛られた、ある意味、脅迫的な世界に順応させるものだと中井は言う

しかし最近、SNSなどで、発達障害気味の空気を読まないタイプの人の発言が目立つようにもなってきた
会社人間的な勤勉な執着気質の人は今でもいるが
時代が行き詰まってきたとき 世直し的な破壊と創造が望まれるとき
大きな役目を担うのが「S親和者」ではないだろうか

 

 

 

 

仏教では
「渇愛」というのは生きている人間の持つ根本的な衝動で
3つのものがあるとされている
 
1:感覚(的快感への執著)
2:存在(への執著)
3:非存在(への執著)である
 
1は、五感から刺激を受けることに基づくもの 映画を見たり ものを食べたり 車を運転したり という感覚に対する執着から生まれるもの 
結婚したり、家族を作ったり、あるいは、山に登ったり、旅行したり、楽しい思いをする 
人生に充実を感じる 明るく楽しく生きようと思いながら生きる 日々をどう過ごすかということを後押しするエネルギー源ともなる
 
2は、とにかく生きていたい 死にたくない という衝動
 
3は、破壊衝動
この破壊衝動というのがわかりづらいのだけど、対象が自分になることすらある
それゆえに自殺をすることもあるわけだ
破壊衝動がどこへ向くのかは決まっていない
ただそういう衝動がある
 
この渇愛がある限り、人は迷いの中から抜け出せない
 
1だけ見ていると それのどこが悪いのか という気にもなるが
ましてや2の生きていたい という衝動がなくなったら それこそ生きていけないではないかと
3の破壊衝動だけを取り除くということもできない
3つでワンセットなので、どれか一つを除くわけにもいかないのだそうで
 
渇愛が育つにはそれなりの時間を要する
それゆえ、渇愛をなくすには、「今」に集中して生きるのもよい方法
過去にとらわれず、先を見すぎず、今現在をしっかりと生きる
そうすれば渇愛が育つのを妨げることができる
 
妄想に振り回されないことが大事
テレビを見るのでも集中して観る
しかし、対象がなんであってもいいわけではない
パチンコ中毒になっても困るし
 
もっと根本的な療治としては
貪瞋痴から離れて、あるがままにものを見ることとか
人が「超越的な正見」を手に入れたときに渇愛は止む
それは無常無我への洞察を通して得られる
 
 
 
 
 
 
 
 

現実世界では戦争などで悲惨な死に方をする人が大勢いる

それも人の業、と言えなくもないが

創造主 メーカーである神の責任は少しもないのだろうか

もしあるとすれば、神はどのように責任をとるのか

敢えてぎりぎりのことを言えば たとえ死んだとしても救われる?

死んでも担保されるものがあると

そうとでも考えねばやるせない

イスラムでは来世の存在を説いている 

死は一つの通過点となる

死んで地獄に堕ちるとこともあるが、イスラムでは、そのまま地獄で終わってしまうということもなさそうだ
もし、地獄に落ちて一巻の終わり、てなことがあるなら、その人間は神の失敗作ということにもなる
しかし、失敗作があるとすれば、神の完全性も失われてしまう
いろいろと寄り道があっても、最終的には人は救われる、ということにでもしておかないと
そうしておくのが無上のメーカーの責務では・・・