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よろず日記

「スーフィズム イスラムの心」という本に

ハディース(伝承)に「寛大さは生命を永らえさせる」とある
天使が人間の生死の日付を決めると言われるが、だどすればどうして寿命が延びるのと言えるのだろうか

とあった
予定説を否定しているともいえる
スーフィズムは本来のイスラムとはちょっと毛色が違うのかな

 

私にはむしろスーフィーの言うことのほうがしっくり来る

神秘主義的思想も含まれているからだろうか

 

クルアーンで、悪事に対する報い、のことについて語られていたとき

アブー・バクルという人が、ムハンマドに、悪事を全くなさないものはいない、その報いは全て受けなければならないのか、と問うた

すると、ムハンマドは、君とか信仰のある者は、現世でその報いを受ける 

アッラーにまみえるときはその罪はない 

一方、その他の者は、つまり信仰なきものは、最後の審判のときに、犯した悪事を集めた報いを受ける

と答えたとか

 

イスラムは現世では宿命論、来世では因果論とされていたような・・・

ここだけ見ていると、信仰のある者に関しては現世でも因果論が働くのかなと思ってしまう

 

 

 

 

予定説 すべての出来事は初めから決まっていたこと  の対軸として、因果論が提示されるけど

善因善果 悪因悪果 の因果論にも

自由のある因果論と、予定説的な因果論とがある

 

自由のある因果論とは

未来を自由に選択できるとするもの

悪因悪果 善因善果 という道理を知っていれば

なるべく善因となるものを積んで悪果よりも善果を得ようと努力する

それにより未来を変えることができると

 

しかし

その努力しようという意向も予定説的にはじめから決まっていたのだ

というこもできなくはない

 

つまりこの議論は果てがない

予定説vs因果論 の構図には決着がない  

 

ただ

予定説で全てを説明しようとすると

非人道的なナチの行為についても、神はすべて計画済みだったということになってしまう

神はそんなに無慈悲な存在なのか

といったようなことは前にも述べたが

計画はしていないが、想定内だった、というしかない

 

計画はしていないが想定内

というのが 予定説vs因果論 の落とし所なのではないだろうか

 

我々人間の犯す過ちは予定説的には確かに神の意思だ 

しかしそれは想定内ではあるが、神本来の計画ではない

神の望む意思の現れではない

神の意思はそのまま人の意思とはなりにくい

人間が善因から善果を得ることが神の望みだ

 

神は放任主義で、地球がどうなってもほっぽらかし

というわけではなくて

直接には手をくださないが、預言者を遣わしたりもする

無計画というわけではない


 

 

 

 

 

スーフィズム (イスラムの神秘主義) の本に
「習慣は僧を作らない」という諺があるが
「神はあなたがたの外面や行動ではなく、あなたがたの心を見ておられる」
と述べられていた

さらには
「人は非常にしばしば、そして頑固に、直接の外的環境に縛られて、自分の真の内的力と関係を持つことを避けようとする。」
とも

ユダヤ教が規範の多い宗教だったのを、イエスがその規範を廃し、もっぱら内面の信仰を説いたのと似たような立ち位置にある
しかしスーフィズムの人たちは規範を廃することはしない
規範を尊重し護りながらも、それが外面的な行動の型にすぎないことも知っている

たいていの場合、ムスリムの国で決定され、実現されていることのすべては、真の意味でのイスラムの指示によるというよりは、むしろその国の習俗に従っている、とも述べられていた
ヴェールの問題もその一つの例だろう
トルコではつけないし

 

 

 

 

 

 

キリスト教圏においては神との縦の契約も絶対であったが、人間との横の契約も重視された

その根本教義において、神を愛する事とともに隣人愛も説かれたので

しかし、イスラムでは、神は絶対であって、比すべきものは皆無とする

中東の国で買い物をするとき、売る側は、お客さんに対してありがとうとは言わない

イスラムの人間は神に、ありがとうというのである

商売を成立させてくれたのは神なのだから

売った方は設けができたし、買った方は欲しい物を手に入れた

両者のウィンウィンの状態を与えてくれたのは神である、という考え方

イスラムでは人間と人間の関係より、神との関係が常に重んじられる

 

ヨロッパでは歴史上、王権が強くなった時があった

しまいには絶対王権、王権神授説などというものも生まれた

キリスト教では、権力のことに関しては特に言及していなかったということも関係あるだろう

「カエサルのものはカエサルに」 マタイによる福音書」(22章15節から22節まで)

ところがイスラムでは、ムハンマドは積極的に特権階級を批判した

アッラーの前には、すべての人間は平等なので

キリスト教圏では、絶対王権に対するアンチから近代デモクラシーが成立した

しかしイスラムでは、この平等思想こそか、かえって近代デモクラシーの成立を妨げているともいえる

オスマン・トルコ帝国時代の皇帝、スルタンはどうだったろうか

スルタンは、イスラム教団の長、カリフを兼ねることで、その権威を保とうとした

しかしその実態は、たとえば、ローマ法王になどとは、比べものにならないほど小さな存在であった

しいていえば信者総代のような立場である

クルアーンにおいては、ムハンマドであっても単なる人間に過ぎず、彼自身を権威あるものとはしなかった

イスラムにあっては、皇帝といえどもムスリムである以上、イスラム法に従わなければならないのである

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

キリスト教には、予定説というものがあった

特に、宗教改革以後のプロテスタント、カルヴァン派が強く唱えたもの

この世に起こることは全て前もって神によって決定されている、という思想である

その人が救済されるか否かも、すべて神によってすでに決定されているという

熱心な信者、プロテスタント・カルヴァン派の人などはそれゆえ強烈な焦燥感を覚える

自分は救われているのか否か・・・

しかしその答えは最後の審判になるまで分からない

 

すると信者はこう考える

救済されるか否かは、神のみぞ知るだが、救われるほどの人なら、決して道を踏み外さないはずだと

予定説を信じる熱心な信者は、生活のありとあらゆる行動を徹底的に厳しく律するようになった

中世のヨーロッパを縛り付けていた伝統主義「過去に行われてきたという、ただそれだけの理由で、将来における自分たちの行動の基準にしようとする倫理」も放逐され、行動的禁欲主義に走った

行動的禁欲主義というのは、普通の禁欲、断食のように、何かをしない禁欲ではなく、一秒、一瞬たりとも懈怠せず行動するべし、といった、カトリック修道院の僧侶の生活のようなもので、それがプロテスタンティズムによって世俗の信者に広まったのである

さらに、これに「天職」の思想が加わる

世俗の仕事こそが神から与えられた使命であるという考え方だ

こにれより、宗教改革以後のクリスチャンには、行動的禁欲によって天職を遂行すれば救済される、労働こそが救済である、という思想が確立した

 

もともとキリスト教では利潤追求を悪とする思想があった

「あなたがたは、よく知っておかねばならない。すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、偶像を礼拝する者は、キリストと神との国をつぐことができない。 」  エペソ人への手紙5-5

 

にもかかわらず

予定説により、労働が重視され、商売に邁進することとなった

しかし、欲のために儲けるための手段としての商売ではなければ、キリスト教精神に反することにはならない

なにも商売そのものもが悪いわけではないし

この辺は、キリスト教が規範を廃し、内面の信仰を重視したことにも関連するが

何をするかではなくて、如何にするか、こそがキリスト教においては大事なのだ

 

では予定説に従って利潤追求に邁進したキリスト教徒は、いかなる動機で商売に励んだのか

 

マタイ 22 より

 

そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。
「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」22:36
そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』22:37
これがたいせつな第一の戒めです。22:38
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。22:39
律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」22:40

 

プロテスタンディズムでは、単なる貪欲から行われる、他人の損失も不幸も考えていない金儲けを否定したが、金儲けそのものが悪いものではないとし

適正な利潤を手に入れることは、貪欲の罪ではなくて、隣人愛の実践ではないのだろうか

隣人が必要とするものを生産して売り得られた利潤は、隣人愛を実践したことの現れだ、と考えたのである

 

クリスチャンにとっては神と人間との縦の関係、契約の他にもうひとつ、隣人との横の関係、契約も重んじられる

しかしながら、イスラムでは神との関係、契約は絶対だが、横の関係、契約が、さほど重んじられない

常に縦の関係、神と自分との関係、契約のことしか念頭にない

商売でなにかトラブルが起きて契約が守れなくなったとき、欧米人や日本人は、なんとかして解決し、契約を履行しようとする

しかしイスラムの人は、「これはアッラーの思し召しによるもの」と考えて、つまり不可抗力として、諦念してしまうきらいがある

イスラムでは、神を愛するように、人間を愛し、人間との契約も遵守しようという気概がないようだ

これではビジネスもうまくいくわけがない 信用をなくす

神を口実に努力を放棄している、といわれかねない

 

イスラムの人は「インシャラー」とよくいう 

神の思し召し という意味らしいが

人と何かを約束しても、その約束を守るために努めはするが、いつその約束を履行するかは インシャラー なのだそうで

イスラムでは来世のことに関しては予定説を取らないが、現世においては予定説をとる

その予定説の捉え方が、人間社会における責任回避に利用されかねない

これでは近代資本主義も根付きにくい

 

 

 

 

 

預言者について

ユダヤ教においては、神が必要に応じて世に下すものと考えられている

モーセの後にエレミアを遣わしたりと

キリスト教でも、イエスの後、預言者は現れない、とは言っていない

しかし、イスラムにおいては、ムハンマドが最後の預言者ということになっている

神の与えた経典も、クルアーンをもって打留めとされる

 

イスラムにおける革命とは、イラン・イスラム共和国の例もあるが

中国風に言うと、天命が革(あらた)まり、再び正しい政治が行われるようになることを意味するらしい

革命により体制は再びクルアーンに沿った正しい状態に戻るのである

経典クルアーンに従った社会を理想としているので

為政者の怠慢などから、世がクルアーンの規範を外れれば、これを修正し、また外れれば、再び修正する

イスラムにおける革命とはそういうものをいう

 

アサシンとよばれる暗殺者を含む集団がイスラムにはあったが

暗殺者は歴史を修正するために活躍する者で、むしろ英雄としてのイメージが強かったようだ

 

キリスト教的な歴史感では、歴史は同じことを繰り返すものとは考えられていない

歴史は直線的に変化し、進化していくものとも考えられている

なぜなら予定説よろしく、神が歴史を作ると考えているから

そして最後の審判により世はあらたまり「神の国」が生まれると
そのときには過去の体制や伝統といったものはすべて一掃されると
神の国の到来を信ずるクリスチャンからしてみれば、この世はすべてかりそめの出来事なのである
それゆえ、最後の審判を待たずに、社会秩序をひっくり返し新たな時代を作ったところで問題もなかろうと
かくしてヨーロッパ人は革命を肯定する思想を抱いた 
革命は彼らにとって善であった
歴史法則を変えることは神の国に一歩近づくことに他ならない
これはイスラムにおける革命とはまるで反対の様相である
イスラムでも神による最後の審判が信じられてはいるのだが
いかんせん、クルアーンが最後の経典ということになっているので、先に述べたような有り様となってしまう
すると、イスラムでは近代資本主義のような新しい体制も根付きにくい、ということにもなってくるか
現代において、イスラムの諸国がいまひとつヨーロッパ勢に経済他で追いつけないのはそのせいもあるだろうか
 
 
 

 

 

 

 

 

 

一神教の系譜をみていくと、イスラムからその昔、原点はキリスト教の前身であるユダヤ教に遡る

イスラムもキリスト教もユダヤ教も同じ神を拝しているのだが

ユダヤ教のモーセの時代、神はその名を明かすことをしぶった

モーセが神から授かった十戒のなかに

「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」

とあるが

神の名を明かすと、それをみだりに唱えて、神に願いことをしてしまうのが人だから

しかし神は人間の願いを聞き入れて働くものではない

神は万能の力を持った絶対の存在なので、人間がその神を操るのはおかしいと

人間が自分の都合のいいように神を利用して事をなそうとするのは、一種の呪術的行為だと

古代イスラエルの民は自分たちの信仰を徹底的に合理化することにことによって、非合理的な呪術的要素を排した

古代イスラエルの民は神に願い事をしなかったのだ

ユダヤ教では願い事より神を賛美することが大事となった

ふだんから、「商売繁盛」とか「家内安全」とか、神社で願掛けばかりをしている多くの日本人からすると、かけ離れた世界にも感じるが、神の存在をある方向につきつめて考えていくとそうなってしまうようで

しかし、モーセやイエスが起こした数々の奇跡はどうだろう? 呪術とどう違うのか?

これに関しても、奇跡はあくまで神の意志としてなされたと解釈されている

その行為には呪術と違って高度な倫理性が伴う

 

ではイエスやモーセのように派手なパフォーマンスをしなかったムハンマドの起こした奇跡とは?

彼は「クルアーンこそが最大の奇跡である」と語った

 

 

 

 

現代のユダヤ教の人達は、嘆きの壁の隙間に、願いを書いた紙片を挟むのだそうで

神への願い文のようなものでしょうか・・・

 

 

唯一無二の神を絶対化しすぎると、融通の効かないものになってしまう

神は完全といったって、どういう意味の完全なのかでその存在も変わってくる

あらゆる美徳を完全に備えたものが神ならば、完全な愛であって、完全な慈悲でもあるはず

であれば、勝手を言うが

自分の創造した人間に対しても我が子のような愛をそそぐであろうし

役に立ちたいとも思うだろうに

 

ユダヤ教では、なにかと苦難を与えてくるのが神だったので、畏れの対象にもなったが

イエスは神を愛することを説いた

 

クルアーンでは善行を積むことにより天国に行けるとした

これは善因善果であり、こちらの努力に神が答えてくれることも意味する

予定説ではなくて因果論

願いを聞いてくれる神だ

絶対化されて、硬直化した神による予定説などに縛られたら、人生に望みをかける気がなくなる

 

 

 

 

 

 

 

 

コプト教というのは、キリスト教の一派

キリスト教会では過去に「イエスは完全な人であると同時に、完全な神である」という教義をうちたてた(ニケア信条 325年 )

これに対して、コプト教は「イエスにおいては神性が人性を圧倒している」と説いた

似たようなものだが、五世紀に開かれたカルケドン公会議をきっかけに、コプト教は孤立することになった

ローマ・カトリックからもギリシャ正教からもいじめられ、コプトの主教は大本山のエジプト教会から追放された

 

その後、642年にエジプトのアレキサンドリアがイスラム軍に征服される

するとイスラムはコプト教のアレキサンドリアへの帰還を許したのである

イスラムでは「宗教を強制することはできない」としているからである

コプト教は、同じキリスト教徒に弾劾され、イスラムに救われたという格好になる

異教徒に寛容なイスラムの一面が伺える歴史である

 

ちなみにイスラムではイエスを神の子とは考えない

あくまで人間であって、預言者とする

 

 

 

 

しかしながらイスラムも異教徒に対して譲れない部分がある

偶像崇拝がそれである

タリバン政権がバーミヤンの石仏を破壊したのもそのせいである

ムスリムからすれば、仏像のようなただの石塊を拝んでいるのは、よほど精神がおかしい状態に思えるのかも

そんなものを拝まなくても、立派に信仰を持つことは可能ではないかと言うだろう

たしかに、仏教の原義に戻れば、悟りを求めるのが本来なので、信仰の対象としての仏像は必要はないのだが

 

イスラムでは偶像崇拝の否定が徹底している

モスクにも人間はもちろん、動物の絵は一切ない

植物はOKなようですね

特にチューリップが好まれる

一つの茎に、一つの花を咲かせる これが一神教をイメージするらしい

 

 

モスクの壁に描かれたチューリップ

 

 

 

動物の絵を描くことそのものを躊躇する必要はないと思うが

ただの絵だったらね

そのへん過剰に神経質なのでは、と思ったり

逆に、こんなチューリップだってある意味偶像崇拝の対象になりうるわけだし

肝心なのは見る側の心理ですね

 

 

 

 

 

 

 

 

 

イスラムでは信仰は内面だけの問題ではなく、その信仰を外面的行動に表してはじめて、信仰は成立すると考えた

ユダヤ教もおなじ

これに反し、キリスト教は「信仰のみ」を説いた

 

仏教の場合は如何

仏教には、戒律というものがある

戒は解脱へ至るための行動規範で

律は出家信者の共同体であるサンガでの生活ルールのことである 

戒は、在家に関しては五戒のみだが

出家者の僧侶は250条 尼僧は348条 に及ぶ

 

この戒はユダヤ教やイスラムの規範とは、だいぶ質が異なる

イスラムにおける規範は神が定めた法である

なので人間が勝手に破ることはできない

仏教の戒は解脱へ至るための道標であって、それに従うか破るかはあくまで自己責任

戒を破ったからといって、神に罰されることもない

 

そもそも仏法というのは釈迦が発見した世の法則 因果律など

釈迦が発見しようがしまいが、その法則は世に厳然としてあリ続ける科学的真理のようなもの・・・法前仏後   

これに対し、神の法というのは神が定めた掟のようなものである・・・神前法後

 

仏教においては、解脱をするためには、修業が必要となる

初期仏教では、出家して俗人とは違う生活をすることが求められた

それゆえに、僧侶という存在があり、戒律は解脱をするための手段となった

ところが、日本仏教では平安時代にその戒律をほとんど廃してしまった

後には、妻帯も許され、酒も飲むようになった

日本人には、規範の多い宗教は向かないのだろうか

それがイスラムが日本に浸透しない一番の理由なのでは

小室直樹氏はそう語る・・・「日本人のためのイスラム原論」

 

 

 

 

 

 

仏教の戒律が、破戒されていったのは、最澄の時代、延暦寺において始まる

当時の大伽藍の僧侶などは社会的地位も高くて、高位高官のような権力を持った存在だったのかも

それゆえ原始仏教の戒など、厳しすぎて受け入れられなかったのではないか、という単純な発想もできる

延暦寺では、最澄による円戒(戒律を破っても罰則がないというもの) と、その後に、天台本覚論(人間は迷ったままでも成仏できるとする)を提唱したことで、戒律はいったん全廃されたに等しい状態となる

 

小室氏は、儒教が日本に伝わる過程においても、規範となる礼法が省かれて、その精神の部分だけをうまく吸収した、と述べていた

日本人は根っからの規範嫌い、という解釈だが

茶道などはどうだろう まさに規範が大事にされる礼法だが

すでに規範があるところに新たな規範を加えるということが、日本では難しい面もあるのではないか

和を重んじる国民性ですからね

人と違うこと、目立つ行動をするのに人一倍、抵抗があるのではないだろうか

仏教は、日本にすでにあったところの神道に、本地垂迹説(神道の神は、諸仏が姿形を変えて日本に現れたものとする)を掲げて、神仏習合をしていく

仏教はそれにより日本に大きく広まることができた

 

キリスト教も神道に本地垂迹説を利用すれば、日本でさらに広まることができたかもしれない 

すると一神教の神は天之御中主神あたりに相当するだろうか しかしこの神は民衆に馴染みがない

西洋のマリア信仰に倣って、マリアを天照大神に イエスを神武天皇ぐらいにしないことには

しかしその時点でもはやキリスト教と言えるだろうか・・・

 

イスラムの場合は本地垂迹説はまず使えないだろう

しいていえば天之御中主神のみとなるけど

他の名前を使うという時点でもうアウトだ

イスラムではそのへんは非常に厳しい

規範を重んじる宗教なので

 

いずれにせよ一神教は本地垂迹説に適さないだろう

 

 

 

 

 

 

 

 

 

イスラムでは、原罪については特に言わない

 

 

一方、キリスト教では原罪が重んじられる

これはイエスではなくてパウロの視点なのだが

そのパウロの説を載せておきます

 

原罪のある人間は、いくら律法を真面目に守ろうとしても、欲望に負けて、悪をなしてしまうものだ

ではなぜ、守れるはずのない律法(旧約聖書)を人間に与えたのか

それは、律法を守れぬことで、人間が自身の不完全さを思い知るためにである

自分の努力だけでは救われることがないことを人間が痛感し

神を信じようという信仰心を起こさせようとしているのだ・・・

 

「人の義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰による」 (ローマ人への手紙 3-28)

 

キリスト教では、ユダヤ教の律法の持つ意味が失せてしまった

 

「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスを蘇らせたと信じるなら、あなたは救われる」 (ローマ人への手紙 10-9)

 

まさに 信じる者は救われる というか イエスを信じさえすればそれでいいのである

 

また、キリストが十字架の上で死ぬことによって、人間が背負っている原罪も贖ってくれたとした

神から救われることのない人間が、神との間に半身半神であるイエスが介在することによって救われることができたのだと

それゆえ、イエスを救い主として受け入れるならば、特別な資格を得ることができるとした

このへんになってくると、少々無理を感じる

内村鑑三も、キリストの贖罪に関しては、「非常に奇態な教義」といっていた

 

イスラムではあればこんな考え方はしないでしょう

キリスト、つまりイーサは預言者ではあるが、あくまで人なのだから、贖罪などできるわけがないとします

原罪についても、神は人間を見放したりしなかった、としています

 

個人的には、律法より信仰を重んじる、というキリスト教の姿勢には、頷けますけどね

 

江戸時代に隠れキリシタンに「踏み絵」をさせていましたが

パウロの教説によれば、踏んでもかまわないことになります

パウロは内面(信仰)と外面(行為)をきり分けて考えたので

踏んでも心のなかでは信仰を維持していればよいということになる

ましてや踏み絵というのは一種の偶像崇拝ですから

 

一方、規範の多いムスリムにおいては、隠れムスリムというのが成立しない

一日5回、礼拝しないとならないし 豚肉や酒を食せ、と言われたら困るし

外面的な行為で、ムスリムとわかってしまう

 

キリスト教には基本、その規範がない

とはいえ、カトリックでは、堕胎はだめだ、とか、離婚は許さない、といわれますよね

しかし、これは修道院や教会が作り上げたもので、本来の教義とは関係のないものらしい

そもそも、キリスト教は信仰のみの宗教であるので、本来、教会や聖職者は不要なのである

このへんをついたのが宗教改革のマルチン・ルターとなります

 

 

 

 

人間は悪をおかすこともある。それは原罪があるから、というネガティブな見方より、悪を犯すこともできるほどの自由がある、と考えたほうがいいのではないか。その自由のなかで善を選択することに尊さがある。まことにリスキーな自由なのだが、主体性を持って人生を選択できるということは、神の与えてくれた特権とも考えられる。

 

 

 

 

目の体操とか

 

ほんとに効果あるのかな・・・