イスラムの特徴に規範の存在がある
規範というのは、あれをしろ、これをするな、という外面的な行動の束縛
イスラムの信者には「六信五行」というものが課せられいている
六信とは以下の6つを信仰すること
旧約聖書に出てくる楽園追放のエピソードを、キリスト教では人間の原罪の始まりと考える
この原罪が在るがゆえに、イエスの贖罪による人間の救済がなされた、というのがパウロの教えであった
しかしクルアーンでアッラーはこのように語る
確かにアダムとイブは、サタン(蛇)のそそのかしに乗せられて、禁断の実を食べてしまった
そこで私(アッラー)は彼らを楽園から追放することにした
「しかしその後アダムは主から特別のお言葉を頂戴し、主は御心を直して彼に向かい給うた
まことに主はよく思い直し給うお方
主は限りなく慈悲深いお方
我ら(アッラー自称)は言った
「さ、もろともにここから堕ちて行け。しかしやがてわし(アッラー)は汝らに導きを下しつかわすであろう
その時、わしの導きに従う者は決して恐ろしい目には逢いはせぬ
悲しみに遭うこともあるまい」2章35節~
イスラムではキリスト教のような原罪はないと考える
神は人間を見放したりはしなかった
それゆえ、アブラハムやモーセ、イエスを遣わし、そしてクルアーンを与えたのだし
クルアーンにはそれ以前の聖典、旧約聖書 新約聖書への解釈も述べられている
神による解釈(というか後日談)と、パウロによる解釈と
どちらを選ぶかということに迷いはない
日本人のためのイスラム原論 小室直樹著 より
スーフィズム(イスラムの神秘主義)について
イスラムについて 10 サラフィー
で少し触れましたが
復古主義のサラフィーの人たちは、スーフィズムを嫌う傾向があるらしい
それはスーフィズムの人たち(スーフィー)が、聖者に、子授け、病気治し、合格祈願といった現世利益を求めて、また聖者廟に参拝したりすることが、唯一神であるアッラー以外のものを崇拝する態度だと見ているから
つまり、タウヒード(唯一神信仰)を否定しているものとして非難している
しかし、スーフィズムにもいろいろなものがありそうなので覗いてみよう
今回はシャイフ・ハレード・ベントゥス氏の本「スーフィズム イスラムの心」を参考にしてみた
スーフィズムには導師といわれる人がいて、その弟子にあたる者もいる
いわゆる師弟関係 まるで仏教の僧侶のような
シャイフ・ハレード・ベントゥス氏の本には、導師であった父が、息子のハレード・ベントゥス氏に語った言葉を載せていた
私はかつて父に「私にとって世界でもっとも貴重なものは導師である。」
と言ったことがある。すると父は、
「導師だと? お前は何にこだわっているのだね 真の導師とは、弟子の中に主が開示されるように偶像を破壊する人のことである」と。
タウヒードの考え方を堅持している
一口にスーフィズムと言っても、千差万別なのかもしれない
そもそもスーフィズムとはどういったものなのか
父の死後、導師(シャイフ)となったハレード・ベントゥス氏の本には
「スーフィーは他のムスリムと同様の義務をもっている。しかし、その宗教が課す義務以上に、スーフィーは神への渇望が消し難いものであるがゆえに、神を求める特別の旅に出発しようとする者なのである」
と述べられていた
思うに、そもそもクルアーンはムハンマドが洞窟で瞑想をしているところに天使ガブリエルが伝えたものとされる
スーフィー達は、そのクルアーンを重んずることはもちろんだが、いったい、ムハンマドはどのような瞑想をしてガブリエルと、また、神と通じたのだろうか、ということに関心がある人達なのではないだろうか
本には、アマドゥ・ドラメ導師の言も載せられていた
「イスラムは人間の総体に訴える宗教である。それは人間の肉体、精神、および彼を支配する自然的霊的法則に関わるのである。イスラムは神(アッラー)への帰依であり、覚醒への道である。イスラムは生活とあるがままの人間の状態を全面的に受け入れることを奨励する。この意味でそれは、常に対立する内的・外的、聖・俗、霊的・現世的といった二項を両立させ、すべてのものを調和的にとりこむ中庸の宗教である」
仏教の香りもしてくる内容
そういう意味でも、スーフィズムは興味深い
のところで
イスラムの法学者の分類の仕方
義務行為 せねばならぬ しないと罰がある
推奨行為 したほうがいい したら報奨がある しないと罰はない
合法(中立) してもなくてもいい どちらでもいい
忌避(自粛) しないほうがいい しないと報奨あり しても罰はない
禁止行為 してはならぬ したら罰がある
というものを載せましたが
日本人の思考癖として
必要 不必要 という概念と
善 悪 という概念とを
ごっちゃにしてしまうところがあるようだ
必要 不必要 と 善悪 とは違う概念なのに
ここでは4つの組み合わせが可能となる
必要善 不必要善 必要悪 不必要悪
まんなかにやってもやらなくてもいいものがあれば これを 無記 として
5種類のパターンがある
必要善 不必要善 無記 必要悪 不必要悪
しかしこういう考え方を日本人はしにくい
必要なものが善で正しい
不必要なものが悪で間違っている
と一本化しやすい
頭が単純というか、融通が効かないというか、愚直というか
体罰に関しても
暴力は基本、悪であるが
仮に、ときには必要だとかになると、暴力は正しい、と解釈しようとする
そこで必要悪という考え方はしない
あるいは、暴力は悪なので、不必要として
それに少しでも類するものはすべて排除しようとしたりする
これと似たようなことだけど
緊急 緊急でない
重要 重要でない
の区別も曖昧になりやすい
実際には
「緊急であり重要」 「緊急であるが重要でない」「 緊急でないが重要」 「緊急でなく重要でもない」
の4つに分類できるが
特に 「緊急でないが重要」 というのを見逃しやすい
緊急でないと重要でないと思ってしまうので
さて「勉強」はどこに入るかというと、一夜漬けの試験勉強等は除いて、この「緊急でないが重要」 に入ります
見落としがちなところですね
予定説 といわれるものがある
スピノザ アウグスティヌス カルヴァンらが唱えたもの
カルヴァンはキリスト教、プロテスタントのカルヴァン派のルーツ
予定説では、個々の人間が救われるか滅びるかはあらかじめ定められているとする
個人の努力では運命は変えることはできず、自分の自由意思でやったようなことも、実は神からすれば予定通りの出来事であると
すると信者は、はたして、自分は救われる予定にあるのだろうか、それとも滅びる運命なのだろうか、と不安になるのだが
その不安を払拭するために、信者は努力して成功を目指す
勤労において成功することが、自分が救われる人間であるしるしであるとした
そしてその労働による利益は自らのために消費されてはならず、より大きな神への奉仕の実現のために、すなわち生産の拡大のために用いられ、その結果資本の蓄積、増大が推進されていく
これが資本主義の原動力になったという説を唱える人もいる
それはさておき
イスラムでは來世の運命においては、予定説はとらないようだ
ある部分では、人間の自由意志というものを神が認めている
天国に行くも地獄に行くのも自らの行いが決めていく
ところで
予定説に従えば
例えば、人間の寿命は決められている、などというような事を言う人もいるが、ガス室で死んだユダヤ人の寿命も決められていたのだろうか
すれば、ガス室を作る人も前もって決められていたし、さらには、ヒトラーもちゃんとたくさんの人を殺すために予定して生まれたということになる
そんな無慈悲な計画を神は予定するのだろうかと
しかし実際にそういう事が起きてしまった
神がいてなぜそのような理不尽な出来事が生じるのか、という問題もまた生じる
予定説というものを、もうちょっと柔軟に広げたものにしてみよう
万能の神は、時空を超えた存在で、過去も未来も同時に俯瞰できる
人間が選択できる道は、今という刻においては無数にあるが
どの道を選ぶかはあくまで人間の自由意志に任されている
とはいえ、人間がどの道を選択しても、それは既に神の予定の一つに入っているとしよう
今という瞬間に、横並びに無数にある選択肢は、神にとってはすべて既知のことなのだと
予定は無数にあり、一つの選択による一つの限られた物語があるわけではなく、人間の自由意志による選択次第で、無数の物語が展開されていく可能性がある
その無数の物語も神にとってはもちろん既知のこととなるのだが
次に、なぜ人間が悪を選択するのを、その可能性がありながらも、神は放って見ているのかということだが
実は、放ってはいないのだろう
神は常に話しかけているのに、人間が愚かで気づかないだけなのかもしれない
また、神が直接、現実に手を下すのは、やはり神の望みではないのだろう
それでは神が人間の自由意志を尊重していることと矛盾してしまう
人間に自由を与えながら、霊的な成長を待ち、人間が自ら神のもとへ帰ることが神の望みなのだろう
そのため、常にコンタクトしようとしているし、また間接的には預言者を世に送ったりもする
善因善果 悪因悪果
という因果律があるが
未来、予定は一つではないとすれば、善き因果を人は選択することもできるはず
因果律こそが神のはからいであるとも考えられる
「主は日々新たなる御業をなし給う」 クルアーン 55章29節
クルアーン、ハディースを読んでもよくわからないところがある
それをわかりやすくする仕事を、法学者という人がする
法学者というのは、それを認定する機関があるわけではない
なんとなくこの人は自分たちよりも法学の知識が多く、頭が切れそうだと多くの人が認める、というかたちで、誰が法学者なのか合意ができていくものらしい
法学者のすること
例えば、人間の行為を五つの範疇に分けて説明してくれる
こうしたことを決めるのが法学者だけれども、法学者の特権というわけではない
法学者以外の人がやってもよいそうで
イスラムは解釈に開かれた宗教で、信者一人がクルアーンとハディースを読んで、そこから自分で判断していくのが望ましいのだそうで
それはありがたい
前回、禁酒の事について述べましたが、はじめゆるかったのが、だんだんに厳しくなっていったので、厳禁というようにも受け止められないのだけどね
と緩やかに解釈してみようか
別に私は信者ではないのだけど
基本、ふだんお酒は飲まない人間です
一般に知られているように、イスラムでは飲酒を禁じている
クルアーンで禁酒に当たる部分をあげてみます
1と2はゆるい表現ですが
3はかなり厳しい
はじめは飲酒に関して緩かったけど
酒に酔った者にコーランを読誦させたところ、間違って読んでしまったり
また、宴席で暴力沙汰も起こったことから
だんだんに厳しくなっていったようです
だんだんに ということは
頭ごなしに神の命で というわけではないということか
イスラムの神 アッラー について
「7つの天と地、そしてそれらのうちにある者が彼(アッラー)に賛美を捧げる。まことに、どんなものでも、彼への称賛と共に彼の超越を称え奉らないものはない。だが、おまえたちは、彼らの賛美を理解しない。」18章44節 クルアーン
森羅万象はすべて霊的な存在であって、それぞれがみなアッラーを讃えている
一神教のイスラムは、実は神道とおなじくアニミズム(諸物に霊が宿るとする)の世界観を有している
森羅万象は、必然的に、選ぶ自由もなくアッラーを讃えるのだが
人間だけがアッラーに背くことができるし、また従うこともできる自由がある
それが人間の尊厳であり栄光でもある
多神教の神道と違うのは、イスラムでは「アッラーの他に神はなし」とするところ
たくさんの神がいて、そのうちの一柱がアッラーの神であるということではない
八百万の神はイスラムでいう神にはあたらない
しいていえばイスラムで言う「ルーフ」や「ジン」といった霊のような存在に近い
本来、神というとき、そこには自然界、人間界を貫く普遍的な原理も含まれる
多神教の神にはそれがない
人に近い個霊的な存在ですね
個人的には、神と区別して「神霊」としていますが 良き霊というような意味で
アッラー 本来の神は、神道では、しいて言えば原初の神「天之御中主神」あたりとなりましょうか
これもかなり無理がありますが
アッラー 本来の神を忘れて、霊(ジン)にたより霊(ジン)を崇めるのは、イスラムの禁ずるところ
そのような行為は宇宙の普遍的な根本原理を疎かにしていることにもなる
霊(ジン)に振り回されて神理を忘れた人間は道を誤りやすい
この霊(ジン)も人間と同じく悪を犯しうる存在なので
霊能者と言われる人にはそういう人が多いですね
神理 哲学のない能力者は危険です
天使は善を行い 悪魔は悪を行う
その中間にあって善も悪も行うのが人間とジンということになります
ジンのなかには良き存在もいるけど、悪さをするものが多い
悪さをするジンというのは、しいていえば動物霊とか憑依霊のようなものだろうか
イスラムではアラビアンナイトに出てくる魔神のようなイメージでとらえているらしい
ルーフというのはジンよりもっと抽象的な存在らしいけど、これについてはよくわからず
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教とみな一神教で同じ神を崇めているわけだが
一点、違うところがある
ユダヤ キリスト教では、人間は神の似姿なので特別扱いをされる
イスラムでは、神以外はすべて同じ立場とされる 神のみが超越した存在であると
先程人間は善悪の選択の権利を持つ特異な存在としたが、イスラムでは特別扱いはされない