ジョージ・ソロスのオヤジ(7) | kyupinの日記 気が向けば更新

ジョージ・ソロスのオヤジ(7)

今回のエントリは少し変だけど「アパシーと一攫千金(6)」の続きである。あまり繋がりがないように見えるが、一連のエントリをずっと読んでいくと雰囲気は伝わると思う。

ジョージ・ソロスはバイロン・ウィーンによるインタビューの際、自分に大きな影響を与えた人として両親を挙げている。

ジョージ・ソロスは通貨・株式・債券投機家として知られているが、同時に慈善家でもある。1930年、ハンガリーのブダペストで出生しており、今年81歳になる。

ジョージ・ソロスはインタビューの際に父親の人物像について詳しく述べているが、その内容が非常に興味深いと思った。

彼の父親はハンガリー系ユダヤ人で、若い頃から野心溢れる青年だったらしい。第1次世界大戦に従軍し中尉まで昇進したが、ロシア戦線で捕虜になりシベリアに送られた。シベリアでもエネルギーに溢れており「壁」という新聞を発行し、文字通り壁に貼りつけていた。父親はその収容所の捕虜の代表に選ばれていたと言う。

そのうちある事件が起こる。近隣の捕虜収容所で脱走騒ぎが起こり、みせしめのため捕虜の代表が射殺されたのである。彼の父親は、他の人間が脱走したせいで自分が射殺されるくらいなら、自分が脱走した方がマシと判断したという。

しかし父親には脱走のスキルがなく、役立ちそうな30名を選ぶことにした。大工、医師、コックなどである。そして収容所を脱出した。

彼の計画では、筏をつくり川を下って脱出することにしたが、彼には地理の知識が欠けていて、大きな誤算があった。彼はシベリアを流れる全ての川が北極海に注いでいることを知らなかった。川を下り始めて何週間も経ってはじめて北極海に向かっていることに気付いたのである。

そこで、陸に上がり何週間もかかってシベリアの荒野を越え、町にたどり着かねばならなかった。やっとたどり着いた町では革命の大混乱に巻き込まれた。その町ではチェコ軍が武装した列車を拠点にシベリアを席巻していた。また赤軍と白軍の対立である。彼らは殺し合いを続け、住民も殺害された。父親は恐ろしい体験を生き延び、生きている価値を思い知ったという。

その後、ハンガリーに戻った父は全くの別人であった。かつての野心溢れる青年ではなく、目立ちたいという気も失せていた。人生を楽しみ、好きなようにやっていきたいと思っていたが、金持ちになろうとか、権力者になろうと言う気はなかった。

ジョージ・ソロスによると、「事実私は自分の金だけで生きた人間は父以外には知らない」と述べている。

そうして、父親はソロスの母と結婚した。エスペラント語の新聞を発行して儲けたこともあり、そこそこの家と土地を手に入れた。父親の職業は弁護士であったが、本当に必要な時しか働きたがらなかったという。

ある日、まだソロスが子供だった頃、ある顧客に借金を頼みそのお金でスキーに行った。しかしスキーから帰って来ると数週間は実に機嫌が悪かったという。借金を返すために嫌でも働かないといけなかったから。

第2次世界大戦が始まると、父親は財産を売り始めた。ドイツがハンガリーを占領する頃には、全ての家財を売り払っていた。この判断はソロスに言わせると、最高のタイミングだったらしい。なぜなら、財産を持っていてもどうせ没収されていたからである。

ドイツがハンガリーを占領したのは1944年3月である。ソロスはまだ13歳のことであった。

このドイツ軍の侵攻の時期、彼の父親はかつての輝きを取り戻すのである。これからどのような事態が起こるかよく理解していた。まさにあらゆる面で本領を発揮したという。

戦争のような非常事態では、通常のルールは適用されない。また法律に従う習慣も非常に危険であり、法律無視こそ、生き残る術であることがわかっていた。しかし父親は弁護士なのである(笑)。

父親は家族全員の偽造身分証明書を手配し、隠れ家を見つけ、自分の家族だけでなく、多くの人の命を救った。何十人と言う人々である。

その隠れ家では、風呂を通らないと入れないような構造になっており、風呂の前に多くの人々が順番を待つような状態だったらしい。

父親はかつてなかったほど、弁護士らしく働いていた。その1944年はソロスにとって、不謹慎であるが、最もエキサイティングな年だったという。(最も幸せな年とも言っている)

ソロスはこのように語っている。

このように言うと、奇妙だし怒る人もいるかもしれない。ホロコーストの年だからね。でも事実なんだ。私は14歳だった。尊敬する父がいて、事態を把握し、やるべきことをやり他の人を救っていた。

そして戦後である。戦後、ドイツ軍に代わりソ連軍がやってきた。当時、彼の父親は、今後ハンガリーがいかなる運命になるのかよく理解していたようである。

父親はまだ17歳のソロスをイギリスの親戚を頼るように伝え出国させている。当時、パスポートを取得することも困難で、しかも長期間待たされたらしい。また出国の際にパスポートに加えソ連が発行する出国許可証も必要だったのである。

結局出国許可証など手に入らず、エスペラント語の国際会議に出席するという理由でスイスに入国。ベルンでイギリスのビザの発行を2週間ほど待ちイギリスに渡った。父親も1956年に母親を連れてハンガリーを出国。その後、家族が再会することになる。

ソロスの父親は1968年、75歳で亡くなっている。

ソロスは父親の性格について次のように述べている。
父は外交的、社交的で、他の人間の運命に心からの興味を抱いていた。彼は人の話を聞きだすのは上手かったが、自分の感情を知られるのは好まなかった。たぶん自分の感情に向き合うことすら嫌だったのだろう。

参考
サルヴァトーレ・スキラッチのオヤジ
精神症状と株価暴落が連動している人
深刻な不景気とdepression