聖書(後半) | kyupinの日記 気が向けば更新

聖書(後半)

後半をいったん書いたが、書き込みを躊躇っていた。やっぱりすべて書いてしまうのは亡くなった彼が喜ばないと思い始め、大幅に削除してしまった。肝心の部分がなくなったような感じ。

その後、大学が違ったが夏休みにはよく帰省して会った。何度か車で遠方まで出かけたことがある。大学に入ってからは、滅多に会わないこともあり、どんな生活をしているのかわからないところはあった。確実に言えることは勉強せず自堕落な生活をしていたことは間違いなかった。

予想通り彼は入学後、留年させられるのである。それも1回だけではなかった。やはり真面目にコツコツ勉強する習慣がないと、医学部やその他、医療系は厳しい。これは僕が言うのもおこがましいんだけど。

医学部でも天才肌の人は大成するか、些細なところで躓いて平凡な人生になってしまうところはある。

僕も彼も同じ年に入学したが、僕が臨床に入って数年目にやっと彼は卒業した。彼の両親は卒業して国家試験に一発で合格した時、大喜びであった。彼の家族とは今でも親しく帰省した時はよく彼の家を訪ね、線香をあげてその度に思い出話をしている。

彼は、卒業が遅かった割には結婚が早かった。家族から反対されたが、結局は本人が好きだから仕方がないという感じであった。

結婚する半年前の冬、僕は彼の家まで遊びに行った事がある。これは非常に珍しいことだった。当時、ある県外の国立病院に赴任しており、急に思い立っていくことにした。彼の県の空港に1日に1本だけ直行の航空便があり、行き易かったことと、何か虫が知らせていたとしか言いようがない。空港までは車で迎えに来てもらった。

彼の散らかりまくっている部屋に泊まった。僕はまだ3年目くらいだったので、まあ学生気分も抜けておらず、こういう環境でも気にならなかった。着いた日に炉辺焼き屋さんのようなお店に行き、彼の婚約者を紹介してもらった。

(大幅に削除)

夜になって、彼のゴミ箱をひっくり返したような部屋に戻った。今ならきっと自分でホテルをとると思うが、当時はまだ学生気分が抜けていなかった。2人ともまだ27歳なのである。

夜になって、彼は僕に話していた。スェーデンボルグの本をずっと読んでいると。彼は、スェーデンボルグは天才であり、死後の世界のことについて、いろいろ書いているのだという。スェーデンボルグによると、

「死後の世界には学校も病院もある」

と言うのだ。普通は僕がいろいろしゃべって彼が聞き役なのであるが、この日だけは違っていた。なぜ急に彼がそういうオカルト的な話をし始めたのかよくわからなかった。話の終わり頃だ。彼は、

「もし死ぬときに1冊本を持っていけるなら、聖書を持っていきたい」

と言ったのである。僕はクリスチャンでもなんでもないが、聖書くらいは読んだことがあった。僕も本を1冊だけというなら聖書は悪くないと思った。なにか物語性みたいなものに厚みがないとすぐに飽きてしまうだろう。そういう点で聖書は良いと思ったのである。彼にしても、クリスチャンでもないのに聖書を思いつくなんて、ちょっと不思議に思った記憶がある。

僕が年末に行った翌年、彼は交通事故で亡くなった。

亡くなった日、僕はちょうどデートをしており彼女と一緒にいた。そのとき、「今、重要な伝言が留守電に入ったので、すぐに家に帰らないといけない」と急に僕は言った。自宅に大急ぎで帰ると、僕の別の友人の声で「○○君が交通事故で亡くなったので至急帰って来て下さい」と録音されていた。

僕は大切な人の死が予期できることに最初に気がついたのは20歳の時であった。しかし、それ以後その機会が全然なかった。親戚の人も皆若かったからである。なんと2回目の機会が彼だった。またそれを証明してくれる人がいるのも、この時が初めてだった。

僕や友人は集まり、通夜や葬式にも出席した。こういう時は両親になにを言ったらよいのかわからないが、いろいろ思い出話だけは努めて話すようにした。友人たちも遠くからけっこう集まった。

交通事故とはいえ、あまりにも不思議な事故だった。僕は通夜にも葬式にも出席し火葬場でまで行った。火葬が終わり骨を拾う時である。

彼の両親は声を立てて号泣。

あれこそ、号泣と呼べる泣き方だと思った。人間は死ぬ時はあまりにもあっけない。僕は、短い期間にいろいろなことがありすぎて重要なことを忘れていた。出棺の時に聖書を棺にいれることをすっかり忘れていたのである。おそらく、「聖書を持っていきたい」と言う話は僕にしかしていなかったと思う。それなのに忘れてしまった。実は、忘れてしまったことに気がついたのもそれから数年後だった。

彼が亡くなった後、体調がずいぶん悪い時期が続いた。いわゆる喪失体験である。親父が亡くなったときより、よほどダメージが大きかったように思う。この話をある友人にしたところ、全く同じことを言っていた。

彼は、仕事も短い期間しかすることができなかった。結婚生活も同様である。死ぬ1年前を今から回想してみると、彼は死ぬことを予期していたとしか言いようがない。亡くなる前年、どういう経緯で彼のところに遊びに行ったのかというと、彼が結婚するので彼女を見せたいと言ったからだ。つまり彼が僕を呼んだような気がする。

今から考えると、彼は聖書のことを最も言いたかったような気がしている。わざわざ呼んでまでそういったのに、それが果たせなったのが今も残念なのである。

参考
聖書