例えばテレビの上にたまっているホコリ | きゅっきゅ8のえんがわで

きゅっきゅ8のえんがわで

人生は演劇だ。社会劇場、世間の目を観客に、何者かを演じて生きる。無限大の可能性を信じて、制服に征服されぬよう、着たい服をまとい息をする。こころの店、きゅっきゅ8(きゅっきゅや)のえんがわで、うたたねしながら感じる音や光。
ゆき過ぎる日常をたねに、うたう。


例えば昔、自分には赤やピンクや黄色は似合わないと思っていて、青やベージュや白ばかり着ていた人がいたとして

お気に入りのお店の、似合わないものは似合わないと言ってくれる店員さんに、赤や黄色、似合いますよって言われたとする。

えっ?そうなの?って思って、意外と合うのかもと思ってみるんだけど、やっぱり勇気が出なくって、青に少し赤い柄とか、青いデニムジーンズ、デニムのシャツの中に薄いピンクのカットソーとか、少しずつ入れて行って、

赤と青どちらも着るようになったけれど、今、一番最初に目に入る色、特に好きな色を問われたら答えるのは、赤とも青とも合う紫になった。

みたいな

いい方向に出る時もあるし、その逆もある。


マイミクさんの日記のコメントにも書いたけれど、

心臓が鼓動を打つように、身体は常に、動いて触れて、離れて繋がってを続けていて

それなのに心は動かなくなっていく

動くことで傷つけ傷ついてゆく色々を守るために

犠牲にしているものたち


それに気づいていながら動かさないようにするのは、とても苦しくて

他人が見たり感じたりする誰かの振れ幅は、必ずしも、その人の全てではない。

誰かにとっては、なんでそんなに気にするの?ってことが、他の誰かにとっては生活に困難をきたすほど大きな苦しみの場合もある。


重いと思うことほど明るく笑って話そうとするのは、それを聴いてくれる相手のためを想っていて、、そして自分も、そんな笑い話だったらいいなという思いもある。

けれども、そうすることで、決して笑い話にならない現実を余計に感じては、また笑ってしまう。


読点や句読点や括弧では表しきれない区別や括りがたくさんあって

その隙間を埋めようと、うまく詰めようとするんだけど

詰めたものと一緒に、前からあったものも抜け落ちていく


そして隙間は穴になる


その穴から見えた世界は、意外に綺麗で楽しそうで、

飛び込んだら、元に戻ることも地に足を着くことも、しばらくできないってことを分かっていて

それでも

色々な何かを信じてしまう

自分を存在させるための理由を繋げようとしてしまう

そんなことを繰り返して、隙間を埋めようともしなければ、詰めるものもなくなっていく。

穴は広がり、立っている場所や動ける範囲も少なくなってきて

今まで気にする余裕すらなかったテレビの上のホコリなんかを見つめてみたりする。