エキセントリックにいまこそ価値観を | エキセントリックソリューションズ(株)          代表取締役社長のブログ

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価値観が同じかどうか。


自分以外の誰かと


つながるときに


そのつながりの深さや濃さを


相互に実感し、共有したいという欲求を満たすための


ものさしのひとつ。


異性とお付き合いをはじめるときだったり


結婚を意識する瞬間だったり


就職のときに行われる採用面接だったり


目標達成のために立ち上げられたプロジェクトチームの人員構成を考えるときだったり


友だちだったり。


なにやら最近は


価値観を価値感と間違えて認識している上に、表記てしまう人も多いらしく


その間違え方が


単なるケアレスミスではなくて


まんまと


その時代に生きる人たちの


内面を浮き彫りにしているのがおもしろかったりします。



こんな風に考えてしまったことはないでしょうか。


人と対話していて考えが対立したり


ただ単なる好みの相違を


「なんか価値感(本当は「観」です)が違いすぎ~。」と表現してやり過ごそうとすること。


「感」は、文字通り「感じる」「感覚」「感性」などを表現します。


どちらかといえば、発信された情報に対して受け身、受動的で


「好き嫌い」のレベルで直感的に受け取っているという意味合いが強いのです。


心理学的切り口で、もう少しだけ掘り下げると


この「感」というのは


自らの価値を主体的、創造的に見出したり選択することを放棄してしまった


受け身的な「マニュアル人間」「指示待ち人間」の姿が映し出されているとも言われているのです。


「いやいや、自分でフィルタリング(選別)しているのだから、主観的じゃないか。」という人がいます。


しかし


その言葉の出所はあくまでも直感をベースにした主観であって


自分なりの見方や考え方(これこそが「価値観」) を表明することを避けていることに他ならないのです。


このようなシチュエーションを経験してきた方は、少なくないのではないでしょうか。意外と多いはずです。


なぜなら


このようなアプローチの「価値観(感)が違う。」は


面倒くさい(この言葉も好きではないですね。)ココロの葛藤を回避して


イヤな思いをしなくて済むませたいというあらわれなのです。


このパターンをチョイスすると当然、それ以上の相互コミュニケーションは成り立ちにくくなります。


これこそが


いまの社会の


コミュニケーションの欠落の根っこです。


一方、本来、使われるべきの「観」には


ただ単に「目に入るものを見る」のではなく、「念を入れて気をつけながら見る」という意味があって、そこには自らが積極的にアクションをする、能動的で主体的な活動が伴います。


この「念を入れて」は、「念には念を入れよ。」(江戸いろはかるたが出所)でぼくらが日ごろ使っているもので


最も重要なキーワード「念」の持つ意味は


「手落ちがないように細かなところにもよく気をつけること。」です。


だから


「あなたとは価値観(感)が違う。」と発言したり、ジャッジするときに


直観的な好き嫌いの違いや


考え方の相違による対立関係などを


うやむやにするために


簡単に


安易に


自分の見方や考え方を表明することを放棄してしまうのは


誰のためにもならないばかりか


もっと言うと


自己満足な手抜きってことになっちゃっうのです。


ここで


理解しておかけければならないこととしてもう一つ。


価値観には、自覚しているものと、自覚していないものがあるということです。


自覚している価値観とは、ほとんどの場合、自らの経験を通じて形成されます。


無自覚な価値観は、自分たちが暮らす社会というコミュニティに既に存在している事象に対する価値観であることが多いです。


それは


親の考えだったり


子供の時によく見たテレビや雑誌に描かれていたこと(最近では、その時代に読まれていたマンガやアニメが価値観を形成するともいわれています)だったり


周りの人がよく言っていたこと等々


そういったものが、自分でも気がつかないうちに、あたかも自分の考えのように刻まれているのです。


ぼくも親という役割の一端を担っているのですが


子どもが、価値観を形成していく上で


「親の考え」というのはこの中で、少しだけ異質で、スペシャルなモノを内包していると思います。


生きていくうえにおいて必要不可欠のことという意味で、です。


そこには


しつけ、知恵、教育、道徳、思いやりなどが含まれているからです。


違う例えをすれば


「恋人がいなくてもイイ。」という20歳代の人が増殖していると聞きます。


理由のひとつとして多くに人が挙げているもののが


ココロの葛藤(相手によって自分の心をかき乱されるのがイヤって代物です。)がめんどくさい。


というものがあります。


ぼくらの世代にはこういう考えは圧倒的に少数派でした。


「もっともっとかき乱して。」(笑)ってくらいの勢いというか


こういうドキドキハラハラが


恋愛の醍醐味だと思っています。


この感覚を拒絶するということは


傷つきたくない


イヤな思いをしたくない


というところに


行きつきます。


自己防衛という名の逃避行動。


とにかく調整することや歩み寄りがややこしいような場合は


すぐに「めんどくせえ。」って口にする。


もう一つパターンで


カタチを変えたものの代表が「アイツは残念なヤツ。」などという自己弁護を含んだ酷いセリフ。

そんなこんなだから


人と深く関わろうとしない。


いっしょに働いていても


どこか遠慮というか、イイ意味での「熱(ねつ)」みたいなものを感じない。


そんな風に振る舞っていることが「クールでカッコウいい」みたいに勘違いしている。


これから何度もやってくる「決断のとき」を軽~く先送りにしているようなものです。


だからいつまでもグズグズしている印象が強くなってしまう。


ただし、ここからがまたややこしいほどにリンクしてしまうことになるのですが


経験を積み重ねるほどに


価値観が多様化すればするほどに、


生きていくことが難しくなるとも言えたりします。 


なぜなら


「価値観の多様化」とは、「可能性の多様化」をも生み出しているからです。


可能性が多くなればなるほど、「決断すること」の機会が増えます。


この場面で「めんどくせぇ。」って暮らしてきたツケにアタマを思いっきり殴られることになります。もちろん痛くもかゆくも感じないのですが


そのかわりにアクションを起こせません。


彼女と食事に行って、いつまでも注文の品を決められない、そんな感じです。


その上、さらに勘違いをします。


「選択肢が拡がったじゃん。」


いやいや、可能性が大きくなったのではなくて、可能性が多くなっただけなのに。


ひとつひとつの可能性を実現できる割合は、可能性の多様化とともに小さくなるという理屈も間違いではないでしょう。 


さてここまでくると何に頼るのか


登場するのが


「知識の多さ。」です。


決断に至る過程で知識や理論が必要なことは否定するべくもないのですが


人生の年輪を重ねてきた先達たちは知っています。


決断をするという行動に至るプロセスは、知識からはぐくまれるものではなくて


知恵と経験によってはぐくまれるものだと。


そして基本に帰結していくのです


決断は最終的には自分の価値観と照らし合わせて下すもの


価値観とは知識そのものではなくて、知恵に裏打ちされた知識だと。


まさにいまこのような状況下において


決断のために必要不可欠なのは知恵と経験です。


現職の大臣さんが、感動したわけでもないのに


感極まって、追い詰められて、クラッシュして


泣き出してしまうというのは気の毒ではありますが、異様で、無様です。



価値観


決断


トップの資質


経験


知恵


いろいろなことが目や耳から入ってきて


価値観が揺さぶられています。



「めんどくせえ。」って


言うの


やめてみませんか。






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