毎朝、幸運にも目が覚める。
新しい朝を迎えられたことがどれほどありがたいことなのか感謝して一日をスタートさせる。
お正月の2日に83歳になる親戚のおばあさんがその人生の幕を閉じた。
前日の夜おせち料理に舌鼓を打ち、大好きなお酒を少しだけ嗜んで
こたつでうたた寝をしていたので、家族はそのまま休ませてあげることにしたとのことだった。
おばあさんは、次の朝、新しい朝を迎えることができなかった。
苦しんだ様子も無く、おだやかに天に召されたのだろうという話しを聞いた。
成人式
人生のマイルストーン。
1月7日の朝日新聞の夕刊に
作家の重松清さんが「1991年に生まれた君へ 逆境で気づく希望の器」というタイトルで書かれた文章が掲載されていた。
偶然なのかもしれないが、ココロにとまった。
一部抜粋引用させていただく。
「「ろくなことがなかった20年間だった。」と嘆く声が聞こえてきそうな気がする。
いや、それは、ろくな世の中をつくってこなかったおとなを責める声だろうか。
「皆さんの未来は希望に満ち溢れています」などと言われると、嘘つけ、と舌打ちしたくなるかもしれない。
でも、そもそも希望とは与えられるものなのか。
さらにいえば、希望とは未来にあるものなのか?
そうではない。
希望はいまの自分の中にある。
君の胸の奥には、希望をたくわえる器が生まれたときから備わっているんだ、と僕は思う。
順風満帆の未来を照らす希望は、「夢」「期待」「理想」と置き換えられる。
それはもちろん大切なのだが、僕がここで話したいのは、逆境に陥ったときに初めてその存在に気づく、いまを乗り切るための希望について―。
自分の希望の器は、思っていたより華奢だったかもしれない。
意外とじょうぶかもしれない。
器に中身が十分満ちているかもしれないし、あまりの少なさに愕然とするかもしれない。
いずれにしても、それは逆境の中でこそ試され、鍛えられる。
(中略)
「人事を尽くして天命を待つ」―その原動力を、僕は希望と呼びたいのだ。
もちろん、人事を尽くした努力は必ずしも報われるわけではない。
がっかりすることや失望してしまうことのほうが現実にはむしろ多いだろう。
それでも絶望はするな。
希望の器がまだ割れずにいるのなら、だいじょうぶ。
失望をバネに、また希望のストックを増やしていけばいい。
(中略)
僕は、「たくさん失望しても、絶望だけはするなよ」と言いつづける。
甘いかな。
うっとうしいかな。
でも、希望について語るときにはとことんまで愚直でありたい。
僕の考える希望の最も根源的な定義は
「生き延びるための底力」―
それ以外にはないのだから。」
83歳のおばあさんは、希望の中で人生を全うされたと思う。
成人式を迎えられたみなさんには、こころからおめでとうと言いたい。
日々の暮らしには、大きな変化も何かをやり遂げたという手ごたえも感じられないかもしれない。
でも
新しい朝は、必ず訪れる。
そして
うつくしく
希望に満ちている。
ため息で一日をはじめない。
あきらめない。
希望のストックを
増やすことを
地道にやっていくのです。
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