「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはやもめの家を食いつぶし、見えのために長い祈りをしています。だから、おまえたちは人一倍ひどい罰を受けます。」マタイの福音書2314

この聖書の言葉は、イエス様が当時の律法学者とパリサイ人の「偽善」について断罪した言葉の一部です。当時のパリサイ人と律法学者と呼ばれる人々は、「他の人からどのように見られるか」ということに大きな関心がありました。ですから、「見えのために長い祈りをして」いました。そして、当時彼らのたくらみは総じて成功していて、彼らは周りの人から「神様の前に正しい人」と見られていました。

しかし、彼らは本当の意味で「神様の前に正しい人」ではありませんでした。彼らは周りの人の目の届かないところで罪を行っていました。ですから、イエス様は、彼らの罪を断罪して「偽善の」律法学者、パリサイ人と言われました。

この出来事は、人はすべてを見通すことのできる神様の前に罪を隠し通すことはできないことを教えてくれます。イエス様は「人のすべて」を見通すことのできる神様と本質を同じくするお方なので、律法学者とパリサイ人の「隠れた」罪を見通すことができました。同じように、すべての人は、すべてを見通すことのできる神様の前に罪を隠すことはできません。すべては明らかなのです。

どんな人も、当時の律法学者とパリサイ人のように、「他の人に見えるところはきれいにしておきたい」と思う気持ちをもっているのではないでしょうか。しかし、それは裏を返すと「人の見えないところでは、多少悪いことをしても良い」ということです。これをお読みのみなさんの中で、自分の二十四時間をすべて公開しても生きていける人はいるでしょうか。おそらく、いないでしょう。人はみな、「これは他人に知られたくない」ことを抱えて生きているというのが現実ではないでしょうか。

しかし、それは、人の目に明らかでないだけで、神様の前には明らかです。神様は私たちのすべてを知っておられ、それを裁かれます。私たちのすべて(周りの人に隠されていることも含めて)の中に、「罪」(私たちが他人に隠しておきたいことはほとんど罪です)を見つけたならば、罪の刑罰をお与えになります。この刑罰は人が肉体の死を迎え、神様の前に立つ時に執行されます。この刑罰はおそろしいもので、永遠に火の中に投げ込まれることによって行われます。

私たちは、「すべてを知ることができない人の目」ではなく、「すべてのことを見通すことのできる神様の目」を恐れるべきです。この神様の目に自分が今どのように「映っているか」ということに関心を払うべきです。当時の律法学者とパリサイ人にはこのことが決定的にかけていました。是非、律法学者やパリサイ人のようではなく、神様の目を恐れる人になって頂きたいと思います。

さて、神様の目を意識した結果、自分の罪が分かったら、どうするべきでしょうか。聖書はその解決の道も教えています。それが、「イエス様の十字架」です。イエス様は私たちの罪を背負い、その刑罰を十字架で受けられました。いわば、それは身代わりの死であり、私たちの罪の償いでした。本来、罪の刑罰は罪を犯した人が受けるべきものですが、イエス様はその償いのために、十字架にかかり、死なれました。今、私たちは、イエス・キリストを「自分の罪の償いのために死んでくださった方」として信じる時に、神様の前に正しいものと「見なされ」、罪の刑罰から救われます。私たちが、実際に正しいのではなく、神様が「正しい」とみなして下るのです。どうか、ご自身の罪を自覚し、罪の償いをしてくださったイエス様を信じて救われますようにお勧めします。