「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって~中略~あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。」(新改訳聖書第三版エペソ書2章1、8節より)

 この言葉は、パウロというクリスチャンがエペソという町の教会にいるクリスチャンへ宛てて書いた手紙の一節です。パウロはエペソのクリスチャンが昔神様の前に罪人であったことと、そこからどのようにして救われたのかということについて端的に記しています。この言葉から、人が神様の前における罪の問題をどのようしたら解決できるかということを知ることができます。

 パウロはエペソの教会のクリスチャンがかつて「自分の罪過と罪との中に死んでいた者」であると記しています。この言葉はすべての人に関係があります。なぜなら、生まれながらの人はすべて、神様の前に罪人だからです。「自分が罪人である」と聞いて心地の良い人はいないと思いますが、これは人がどうしても認めなくてはいけない、神様の前における現実です。このことを理解するためには、良く聖書を読む必要があります。聖書を読まないと神様の罪に関する基準が分かりません。この基準は非常に高いものです。この神様の基準に当てはめると「自分の罪」が分かります。例えば、神様の律法(神様の制定された法律)に「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」というものがありますが、この教えを実行することができる人がいるでしょうか。聖書に記されているイエス・キリストの解説によれば、この「隣人」とは自分にかかわるすべての人です。例えば、学校におけるクラスメイト、職場における同僚、親戚、などなど自分にかかわるすべての人が含まれます。これらの人の中には自分とあまり相性の良くない人もいるのが現実です。そういった人を自分自身のように愛することは人には不可能なことではないでしょうか。しかし、それは神様の前においては「罪」です。人の基準ではたいしたことのないことかもしれませんが、神様は高い基準によれば罪です。

 この罪に対して、神様は裁きをなさいます。この裁きは人が肉体の死を迎えてこの地上を去ったのちに行われます。この裁きは、今人の目には隠されているので、神様の前における罪の問題が大した問題でないかのように感じられるかもしれません。しかし、人はこの罪の報いを死後において受けなければいけません。それは永遠の間、火の池の中に投げ込まれるという恐ろしいものです。この罪とその裁きの問題を真剣に考える必要があります。

 さて、人はこの罪の問題をどのようにしたら解決できるでしょうか。冒頭に引用した聖書の言葉にもう一度目を留めてください。パウロはエペソのクリスチャンが「恵みのゆえに、信仰によって救われた」と記しました。ここに罪の解決の道があります。恵みとは神様の恵みです。神様は「恵み」のゆえに、イエス・キリストをこの世に遣わしました。そして、十字架の上で、人の代わりにイエス・キリストをお裁きになりました。実は人の罪の裁きは約2000年前のイエス・キリストの十字架により贖い(償い)がなされています。神様は罪という人の債務をイエス・キリストに、いのちという代償をもって支払わせました。イエス・キリストは人の身代わりに神様から裁かれ死にました。それによって人の罪の贖い(償い)がなされました。これが神様の恵みです。人はこの贖い(罪の償い)を受け入れること(信じる)ことにより、神様の罪の裁きから救われます。イエス・キリストが自分の罪を背負って、自分の代わりに罪の裁きうけてくださった方であると信じれば良いのです。この信仰を持った時、神様は人を罪のないもの見なして下さいます。どうか、このブログをお読みの皆様がイエス・キリストを信じて救われますように。