【京都人のほとんどが知らない明治の京都】崩壊寸前で打たれた一手とは? | 京都から世界へ -藤田功博の京都日記-

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「京都の魅力を日本へ、世界へ」をキーワードに活動する観光企画会社のぞみ代表・藤田 功博のblogです。アイデアとフットワークを武器にして、観光業界を盛り上げていきたいと思っています。

画像は産経新聞サイトから引用


今年は、明治時代になってから150周年というメモリアルイヤーである。京都市京都府それぞれに記念行事などを開催する予定があるようだ。明治時代と言われても、ピンと来る人は少ないかもしれない。

 

まず整理しておくと、

明治時代の初め、京都は率直に言って壊滅状態であった。なぜなら、天皇が東京に移るとともに、公家や、皇室御用達の商人などが一緒に東京へ移っていってしまい、人口が激減したからである。

当時の人口は、33〜35万人だったと言われているが、一気に約22万人に激減した。約3分の2になったわけである。経済が没落し、街の崩壊は避けられない状況に……。


実は明治時代が始まる5年ほど前に、「禁門の変」という内乱があり、その際に起きた大火災によって、京都市内の3万軒ほどが火事で焼けてしまっていた。有名なお寺で言うと東本願寺、本能寺、六角堂なども消失した。山鉾も燃え、祇園祭も中止に追い込まれる。京都に住んでいる人なら、一条通から七条通までが燃えたと言えば、その被害の大きさがわかることだろう。

大火事と遷都。大ダメージを受けた京都の市民たち。

 

復興に立ち上がった人々が打った一手は、驚くべきものであった。

写真は京都市のサイトから引用

なんと、小学校の建設を開始したのである。

まるで京都の復興を自分たちの代では諦めたかのように、次の時代の子供たちの可能性に賭けようとした。


しかも、1校だけではない。当時の京都市中を65のブロックに分け、そのすべてに小学校を建設したのである。
そのスピードも驚くべきもので、なんと、建設を決めてから約1年後には、全てが完成した。

この小学校の中に、警察署や消防署などの機能も含めた。
 

空前の大不況の中で、公共事業として、学校の建設を行ったのである。
さらに、この学校は驚くべき進化を遂げる。なんと、銀行の機能を持った。
小学校株式会社として、町民からお金を預かり、それを、町の零細業者に貸し出すことで、資金繰りを支援し、利息を稼いだのだ。その利息を、小学校建設や運営の借金の返済に当てたのだ。


今の日本で、不況だからといって、自分たちの事よりも先に、子供たちの教育を充実させ、未来の可能性にかけようと言い出す人がどれくらいいるだろうか。

 

こうした京都市民の取り組みが、次世代に向けた事業を立ち上げようと言う空気を産み、次の驚くべき大事業につながっていくのである。


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