先斗町通りは、三条通りの一筋南の筋から四条通りまでの極めて短い路である。またこの路は道幅が2メートルにも満たず、この両側にはお茶屋や飲食店が軒を接して店を張っている。この路が出来たのは、寛文8年(1668)に大規模な鴨川改修工事が行われたときからである。江戸幕府は、それまで度々氾濫をしていた鴨川の右岸と左岸に石垣を築き、洪水対策をはかったが、このとき右岸の鴨川沿いなに造成されたのが先斗町である。先斗町の名前の起こりは、ポルトガル語の先端の意味である「ポント」から来ているとの説が有力であるが明確ではない。一説によると織田信長の時代、ポルトガルの教会がここに在り、ポルトガル語のポントス(橋)による説もある。いずれにしても外来語の地名は京都では極めて珍しい。

 
 先斗町は京都五花街のひとつとしても有名である。京都五花街とは祇園甲部、祇園東、宮川町、上七軒、そして先斗町である。花街としての先斗町の歴史は、江戸時代、伏見港から高瀬船で行き来する船客のために最初に旅籠が出来、そしてお茶屋も出現して花街に発展した。時代の変遷の中で、お茶屋も少なくなりつつあるが、飲食店が多く軒を並べる中で、紅柄格子のお茶屋の佇まいは、花街としての誇りを感じさせている。夏ともなれば、鴨川に面したお茶屋や料理屋が納涼床を出すが、京都の夏の風物詩として多くの京都市民に愛されている。

 九条通り(くじょうどおり)は、平安京の最も南の路で、当時の九条大路にあたる。東は本町通りから西は葛大路まで続いている。九条通りの最大のシンボルは東寺であろう。東寺は桓武天皇の命により、羅生門の東に作られた官寺である。羅生門の西には西寺が同時に作られ、それぞれ平安京の左京と右京を守る王城鎮護の寺でとして創建された。またこの両寺は、東国と西国とを守る国家鎮護の寺という意味合いを持った寺院でもあった。西寺はその後寂れ、今では東寺の西約300メートルの地点に礎石のみを残している。東寺の創建については東寺の記録書である「東宝記」には延暦15年(796)に時の造寺長官であった藤原伊勢人(ふじわらのいせんど)が創建したと記されている。しかしこの人物については不明な点が多く、実在そのものが定かではない。その後弘仁14年(823)、真言宗の宗祖である空海(弘法大師)が嵯峨天皇から東寺を賜り、このときから東寺は国家鎮護と真言密教の根本道場になった。そのときから東寺の正式名は「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」 または「弥勒八幡山総普賢院」となる。九条通りに面して建つ南大門を正門として、境内には今もずらり塔堂が建ち並び、1994年には世界遺産に指定され、今もその威容を誇っている。


  平安京は、中国の唐の長安を模して築かれた都城であるが、長安では、外敵を防ぐ目的から、まわりをぐるりと土塁を連ねた羅城が築かれていた。平安京ではこうした羅城はみられないが、平安京造成当時には、九条通りに沿って、その外側に高さ2メートル弱の土塁を盛り、両側に2メートルばかりの犬走り(犬が通れるぐらいしかない道のことをいう)と、幅3メートルばかりの溝が築かれていた。この土塁や溝も外敵の侵入を防ぐという機能を持つものではなく、都城の威厳を示す意味のものであったようだ。後年に豊臣秀吉が京都改造事業のひとつとして築いた「御土居(おどい)」は、九条通りの一部が、平安京の土塁と重なっている部分がある。これ以来、御土居の中の地域を洛中とよび、外側を洛外とよんだ。このよびかたは、幾百年経た今も継承されている。

 八条通り(はちじょうとおり)は、東は須原通りから西は桂大橋東詰めまで続く全長2,7キロの路である。平安京の八条大路にあたり、中世には華やかな歴史の花を咲かせた。この路の東西の半ばにある壬生川通りと交差する北西角に六孫王神社がある。この神社は清和源氏の祖と言われる源経基(みなもとのつねもと)を祀った神社である。源経基は清和天皇の第六皇子・貞純親王の子であり、清和天皇の孫であることから「六孫王」と呼ばれた。神社の創建は、経基の子の源満仲と伝わるが、満仲が清和源氏の武士団を形成したことから「清和源氏発祥の宮」を称している。清和源氏は後に基礎義仲や源義経、源頼朝といった中世の歴史に華々しく登場する武将を輩出するが、結果として同族間の血で血を洗う争いに終結するのは歴史の周知するところである。

 路を更に西に行くと西大路通りと出会う。この付近には「平家にあらずんば人にあらず」とその権勢を誇った平家の棟梁、平清盛の邸宅があった。邸宅の広さは、北は木津屋橋通りから南は八条通り、東は大宮通りから西は坊城通りに囲まれた広大なものであったという。当時を偲ばせるものはあまり残ってはいないが、西大路八条の北東角に、若一神社という小さな祠があり、その境内に巨大な楠木がある。これは清盛自身が植えたものと伝わり、その当時を唯一偲ばせている。昭和9年の市電工事の際、排除しようとしたところ、工事関係者に次々と事故や不幸が襲い、断念したという曰くある木でもある。また近隣の猪熊通りと堀川通りの間には、清盛の子である平重盛邸や、万里通りと高倉通りの間には平宗盛、頼盛の邸宅が建ち並んでいたと伝わる。後白河天皇の第二皇子以仁王(もちひとおう)が平家に反旗を翻して起こった治承の乱の舞台となった八条院御所も、八条通り面して北は梅小路通り、東は東洞院通り、西は烏丸通りに面した広大なものであったという。八条通りは平安時代の香りを湛えながら、特に源平の盛衰の歴史を刻んだ路だともいえる。