八条通り(はちじょうとおり)は、東は須原通りから西は桂大橋東詰めまで続く全長2,7キロの路である。平安京の八条大路にあたり、中世には華やかな歴史の花を咲かせた。この路の東西の半ばにある壬生川通りと交差する北西角に六孫王神社がある。この神社は清和源氏の祖と言われる源経基(みなもとのつねもと)を祀った神社である。源経基は清和天皇の第六皇子・貞純親王の子であり、清和天皇の孫であることから「六孫王」と呼ばれた。神社の創建は、経基の子の源満仲と伝わるが、満仲が清和源氏の武士団を形成したことから「清和源氏発祥の宮」を称している。清和源氏は後に基礎義仲や源義経、源頼朝といった中世の歴史に華々しく登場する武将を輩出するが、結果として同族間の血で血を洗う争いに終結するのは歴史の周知するところである。

 路を更に西に行くと西大路通りと出会う。この付近には「平家にあらずんば人にあらず」とその権勢を誇った平家の棟梁、平清盛の邸宅があった。邸宅の広さは、北は木津屋橋通りから南は八条通り、東は大宮通りから西は坊城通りに囲まれた広大なものであったという。当時を偲ばせるものはあまり残ってはいないが、西大路八条の北東角に、若一神社という小さな祠があり、その境内に巨大な楠木がある。これは清盛自身が植えたものと伝わり、その当時を唯一偲ばせている。昭和9年の市電工事の際、排除しようとしたところ、工事関係者に次々と事故や不幸が襲い、断念したという曰くある木でもある。また近隣の猪熊通りと堀川通りの間には、清盛の子である平重盛邸や、万里通りと高倉通りの間には平宗盛、頼盛の邸宅が建ち並んでいたと伝わる。後白河天皇の第二皇子以仁王(もちひとおう)が平家に反旗を翻して起こった治承の乱の舞台となった八条院御所も、八条通り面して北は梅小路通り、東は東洞院通り、西は烏丸通りに面した広大なものであったという。八条通りは平安時代の香りを湛えながら、特に源平の盛衰の歴史を刻んだ路だともいえる。