新京極(しんきょうごく)は、北は三条通りから南は四条通りまでの短い路である。この路が出来たのは、天正年間に豊臣秀吉による京都大改造計画の中で、寺町通りからこの界隈にかけて寺社を集めたことに伴い出来たようである。その寺社の境内での縁日の賑わいを中心として、周辺には見世物や催し物を生業とする店が出来、現在のような店舗が建ち並ぶ路に発展したようである。新京極通りという呼び名が付いたのは、明治5年のことで、この路の開発を提唱したのは、時の京都府参事であった槇村正直であったといわれている。当時の新京極界隈は、まだ「寺の町」であったが、幕末の禁門の変で、このあたり一帯は焦土と化していた。その中でも三条通りと六角通りの間に位置していた誓願寺は、広大な境内を誇り、6500坪の敷地の中に、18の塔頭寺院があり、表門は寺町六角に北門は三条通に面していた。誓願寺は浄土宗の祖、法然上人が奈良の興福寺よりこの寺を譲り受けて以来、清少納言や和泉式部、また秀吉の側室であった松の丸殿が帰依したことから、女人往生の寺としても有名であった。またこの寺は、慶長年間に五十五世として住持を務めた安楽庵策伝上人(あんらくあんさくでんしょうにん)は、希生の話し上手とされ、現在も「落語の祖」とされている。また錦小路と四条通りの間には四条道場金蓮寺の広大な境内が広がり、広大な寺院の町を形成していた。 槇村は東京遷都で寂れつつあった京都にあって、芝居座や浄瑠璃、寄席などの興行場や飲食店を誘致させ、明治30年代には東京の浅草、大阪の千日前と共に日本の三大盛り場として全国に名を馳せるようになった。現在でも、春秋の観光シーズンには、修学旅行生を主とした群衆により、立錐の余地もない賑わいを呈している。

 四条通りと交差する北西の地点に、「一遍上人念仏試算遺跡」と記された石碑が立っている。一遍上人は、浄土宗の一派である「時宗」の開祖である。一遍上人は、源平の合戦で最後の戦場となった壇ノ浦の合戦で、名を馳せた河野水軍の一派である豪族の子として伊予に生まれた。10歳で天台宗の寺に出家し、13歳のときに法然上人の孫弟子の聖たちの下で10年に渡り浄土宗西山派の教義を学ぶ。父の死去で還俗して伊予に戻るが、32歳で再び出家して各地を転々として修行に励む。参詣のため訪れた熊野神宮で、熊野権現から「衆生済度」の夢告を受け、このときより一遍と名乗る(このときが時宗の開宗のときとされている)。さらに行脚するうち、踊念仏を始めたといわれている。念仏踊りは、厳密には誰が始めたというものではないともいわれ、戦乱と闘争の混乱期にあって、一般大衆が自然発生的に救いを求めて始めたものと思われる。時宗の特徴は、浄土宗では、念仏を唱える努力を重視し、念仏を多く唱えるほど極楽浄土にいけると説いた。それに対して時宗は、阿弥陀仏への信心、不信心を問わず、念仏さえ唱えれば往生できると説いた。つまり仏の力は絶対であるがゆえ、仏を信じない者までも念仏さえ唱えれば往生できるという解釈である。

 河原町通りは、北は鴨川に架かる葵橋から十条通りまでの路である。河原町通りの歴史は以外に新しく、天正18(1590)前後に進められた豊臣秀吉による京都大改造後に開かれた路であると思われる。この路がいつ開通したかについては、実はあまり明らかになっていない。ただ天正19年に築造された京都の四周を巡らせた「お土居(おどい)」が、この路の西側に一直線に走っているのをみると、それ以後であることは確実と思われる。そしてこのお土居の東側は、鴨川に続く広い河原であったとされる。その後、慶長の末年に完成した東高瀬川の開墾に伴い、お土居より東の河原は大きな変化をみせ始めたようだ。17世紀中頃の京都の絵図である「寛永以後万冶以前京都全図」という古地図によると、荒神口通りから丸太町通りまで開通した河原町通りが記されている。寛文年間に鴨川の新堤の築造が完成するが、それに伴って河原町通りは南下していったと思われる。


 葵橋から河原町通りを約50メートル程南下すると商店街に出会う。出町柳商店街である。この商店街は北は枡形通り、南は今出川通り、西は寺町通り、東は川原町通りの四角形の中で商店街を形成している。この商店街の特徴は、生鮮三品と言われる魚屋、肉屋、八百屋が複数存在し、それぞれの店がそれぞれの特長をアピールしているところである。またもうひとつの特徴は、少し離れたところからも日常の買い物客を集客する、言わば近隣型商店街と呼ばれるもので、今もって昭和の匂いを残しつつ、地域の人々の生活を支えている。

 今出川通りを過ぎ、更に路を南下すると左手に病院の建物が見えてくる。京都府立医科大学付属病院である。この正門を入ると、文字の多い漢文で書かれた大きな石碑がある。これは「療病院碑」と呼ばれるもので、療病院は現在の京都府立医科大学の前身で、蘭学医明石博高(18391910)が資金を募って創設したものである。明治5(1872)9月、木屋町二条でドイツ人医師らによる診療を開始、11月に青蓮院に移り診療と医学教育が行われた。同13年この地に移転し、大正13(1924)年、京都府立医科大学大学附属病院となった。碑文の内容については長くなるので全文は省略するが、最初に国の礎は人民の病気を治し、健康を保つことを述べ、次にここに病院が設立された経緯が述べられ、そしてこのような病院が出来た目的を後の為政者は心に留め、人民が明治の恵みに浴したことを後世に伝えるため、石碑に記したとの内容が、時の京都府知事・槙村正直の名で書かれている。京都府立医科大学付属病院の正門から西には、広小路通りがあるが、この路を10メートル程入った北側に「立命館学園発祥地」と記され山形をした石碑がある。立命館大学の前身の立命館学園の発祥地であることを記した石碑である。立命館学園は、西園寺公望(18491940)の秘書官中川小十郎(18661944)により明治33(1900)5月に創立され、それまで東三本木丸太町の仮校舎では京都法政学校と名乗っていたが、翌年12月、この地の新校舎に移転し、同38年、西園寺公望の私塾であった「立命館」の名称を受け継いだ。昭和56(1981)年、等持院北町に移転するまでの約80年間この地に所在した。

 更に路を南下し、御池通りを過ぎると、人の動きが活発で賑わいを呈してくる。ここから四条通りにかけては、京都の最大の繁華街として昔も今も若者の街である。三条通りの河原町上るに、朝日会館という建物があるが、建て掛けられる前の旧館には、画家の東郷青児氏の大壁画が描かれていて、古都・京都の中で異質な空間をつくっていた。不思議なことに、このモダニズム調の絵画が、この古い町にマッチしていたのが思い出される。

路をさらに南下すると蛸薬師通りを越えた西側に「坂本龍馬 中岡慎太郎 遭難地」と記された小さな石碑が立っている。慶応3(1867)1115日、この地で土佐藩士、坂本龍馬と中岡慎太郎が殺された近江屋があった。事件については「蛸薬師通り」のところで述べているので記さないが、ほんの数メートル横には土佐藩邸が隣接していた。なお、近江屋と土佐藩邸の位置関係は、河原町通りを隔てた真向かい(数メートル)であったが、暗殺当夜に土佐藩邸からは何の救援の手も差し伸べられなかった。現在においては坂本龍馬の知名度は中岡慎太郎に比べて圧倒的に高いが、この事件のころは、龍馬の知名度はなく、中岡が暗殺犯の目的で、龍馬はその巻き添えとの説もあったほどである。現在、近江屋の建物はなく、石碑のみがその歴史を物語っている。

木屋町通り(きやまちどおり)は、北は二条通りから西は七条通りまでの路で、海運の運河である高瀬川に沿って造られた路である。この路筋には多くの史跡が存在するが、特に幕末のものが多いのが特徴である。高瀬川は角倉了以(すみのくらりょうい、15541614)とその子素庵(そあん、15711632)により慶長19(1614)年によって開かれた運河で、京都市内と伏見間の物資輸送に使われた。高瀬川が出来るまでは、大坂方面からの物資は淀川を舟で運ばれ、鳥羽で陸あげの後、陸路を京都市中へ運ばれた。高瀬川の完成により、市内の中心部へ物資や人を運ぶことが容易になった。高瀬川という名の起こりは、輸送に高瀬舟とよばれる平底の舟が用いられたために付けられた名で、高瀬川は別名・角倉川ともよばれたという。高瀬舟は基本的には物資を運搬する船であったが、島流しの罪人や、伏見稲荷の初午詣での人々も運んだという。安楽死をテーマにした森鴎外(もりおうがい)の小説「高瀬舟」には、そのような罪人を輸送する高瀬舟での会話が物語となっている。

明治に入って木屋町通りは大きく変貌する。明治28(1895)に行われた平安遷都1100年紀念祭のメイン会場となった、左京区岡崎に在る勧業会館へのアクセスとして、電気鉄道の敷設工事が明治27年に始まった。この工事に伴い道路の拡張のため、高瀬川を約1メートル埋め立てた。こうして我が国で始めてとなる路面電車が、明治282月に塩小路東洞院(現在の京都駅前)から伏見京橋間で走った。その後京都駅前から鴨川東岸の岡崎まで開通した。当時の路面電車は、こういうものに慣れていない人が居る街中を走るため、事故を防ぐために電車の前に「先駆け人」と呼ばれる人が、「ごめんやっしゃ、電車がきまっせ、はよどいとくれやす」と言いながら走ったそうである。当時の電車は、言い換えれば人の走るのよりも遅かったということである。ちなみに左京区にある平安神宮は、この遷都紀念祭のパビリオン的な目的で建設されたもので、祀神は平安京を造った桓武天皇と、京都に都が置かれた最後の天皇である孝明天皇が祀られている。

木屋町通りの北の基点となる二条付近には、角倉了以の邸宅及び別邸があった。邸宅の方は礎石だけを残すのみであるが、別邸跡には明治に入ると陸軍の元勲、山縣明朋の別邸となり、現在は飲食店となっているが、庭園は「高瀬川源流庭園」ともよばれ、その当時を偲ばせる瀟洒な佇まいを残している。またここ高瀬川のほとりには「史跡高瀬川一之舟入」と記された碑石が建っている。「舟入り」とは荷物の積み下ろしと、舟の方向転換の場所であったが、二条から四条の間に9か所作られた。現在は木屋町二条に「一之舟入」だけが史跡として残されている。他には木屋町通り御池上がる付近には「二の舟入」と「三の舟入」があったが、現在は碑のみを残している。

ところで木屋町はその名の示すとおり、この道筋には材木、柴、薪、炭を商う店々が軒を連ねた。いわゆる「木へん」の町である。江戸時代中期には京都の新しい問屋街を形成するまでに至るが、「木へん」の他に米問屋などの「米へん」の問屋も増えた。更に「さんずい」の店も増え、油屋、醤油屋、酒屋も店を連ねるようになる。空間が拡大してくると、道筋の地域分けが始まる。18世紀頃には木屋町は上・中・下に分けて呼ばれるようになる。二条通から三条通りまでが上木屋町、三条通りから四条通りまでが中木屋町、四条通りから五条通りまでが下木屋町と呼ばれるようになる。町々が充実すれば当然人の動きが激しくなるが、17世紀後半には遊里「先斗町」が出現した。材木の商取引の場として、その要望に応じて生まれたのが料理屋で、それも川魚専門の料理屋である。現在もそれらの店は現存し、その長い歴史を偲ばせている。大正期、高瀬川が最終的役割を終えた頃、木屋町通りは決定的な変貌を遂げるに至る。新しい京都の歓楽街の誕生である。