私が生まれたのは戦後の混乱がまだ残る昭和23年で、育ったのは小学校三年生までは、秀吉の正室であった「おね」が、秀吉の死後菩提を弔うために建てた東山高台寺のほとり、清水寺への参道での途中にある「二年坂」の在る高台寺枡屋町という地名のところである。

今でこそこの地域は、京都市指定の歴史保存地区でもあり、京都の代表的な景観を有する場所として、度々テレビや雑誌などに取り上げられることが多いが、私が育った昭和23年~32年ごろは、訪れる観光客もまばらで、高台寺などは草ぼうぼうの荒れ寺であった。

また近隣には坂本龍馬など勤皇の志士の墓がある護国神社があったが、墓所は訪れる人もほとんどなく、墓石は傾き荒れ放題であった。その当時の思い出の中で、一番鮮明であるのは、この地域は祇園にも程近く、花街の一角でもあったようで、北隣りがいわゆる御茶屋のひとつである席貸家で、夜ともなれば芸妓や「やとな」と呼ばれた女性たちの嬌声と三味線、そして歌い騒ぐどんちゃん騒ぎを毎日耳にする状態であった。まだ一般家庭では食べるのにも事欠く時代であったが、こんな時代でも、うまく世渡りが出来る人が幅を利かせていたのだろう。

また南隣りは当時一世を風靡していた映画俳優(名誉のために名は伏せる)の家で、母親と2人暮らしであったようだが、これも夜ともなれば、酒を呑んで毎夜のように凄まじい親子喧嘩が始まる。私の母親は「こんな環境は子供の教育に悪いから、出来るだけ早くこの地を離れたい」と独り言のように言っていたのを思い出される。このような環境に育った私は、大きくなったらお酒呑みには絶対にならないと思ってはいたが、そんな決意は後年にはもろくも崩れ、ふしだらな生活の挙句に身体をこわすことになるのである。


 東山区高台寺近辺は、料亭や消防職員の慰安寮などが多く、比較的裕福な家庭が多かった。そのためにこんな時代にも関わらず、就学前の時期に幼稚園に行く子供も多く、それまで毎日のように遊んでいた子供が幼稚園に通い始めた。

私の家といえば、子供を幼稚園に通わせる余裕もなく、必然的に一人遊びをすることが多くなっていた。その中でも一人だけ、私と同じように幼稚園に通わせてもらえない子供がいた。「かずお」と言う名前で、お姉さんと二人暮らしであるという。

ある日、彼に誘われその家に行った事があった。家は清水茶碗坂に在る民家の一角であったが、西日に照らされた四畳半ほどの部屋いっぱいに大きなダブルベッドがひとつ置いてあり、ベッドのたもとにはハイファイと思われる足つきの大きなラジオが置いてあった。お姉さんの彼氏はアメリカ兵ということで、日ごろお姉さんから、部屋に入ることを禁じられていると、かずおが寂しそうにつぶやいたのを記憶している。私は何故か、見てはいけないものを見たような気づまりな気持ちになり、押し黙ったことを思い出す。

一二度見かけたかずおのお姉さんは、子供の目から見て20代半ばぐらいの人であったように記憶している。今思えば姉さんにしては歳が離れすぎていたようにも思われ、姉ではなく母親で、かずおはそのように言い含められていたのかも知れない。

いずれにしても戦争という、理不尽な事態から生じた渦の中で、生きるために、心ならずもそのような境遇に身を置かなければならなかった女性の一人であったのだろうか。

しばらくしてかずおは、行き先を告げず、どことも知れずに越して行った。それと相前後して往来ではアメリカ兵の姿が消えた。おそらくサンフランシスコ平和条約の締結後の取り決めにより、米軍による進駐が終了したものと思われる。それと共にかずおと姉さんは、新しく生きる場所を求めて、どこかへ行くことを余儀なくされたのかも知れない。今となっては知る術はない。

 

 御幸町通り(ごこまちとおり)は、北は丸太町通りから、南は五条通りまで通じる路である。この路は平安京造成時には存在せず、天正18(1590)に豊臣秀吉により行われた京都大改造により生まれた路である。戦国期、高倉通りから以東はまともな路が存在しなかったため、そこに新しい路をつけたが、それがこの路である。御幸町の名前の由来については、江戸時代から論争になっていて、秀吉が大坂から禁裏御所に参内するときにこの路を使ったという説や、天皇や上皇だけに用意をされた路であったという説から等がある。秀吉は最晩年に、聚楽第に変わって、御所東南側に広大な邸宅を造成していることから、秀吉説の方が有力と思われる。時の権力者として、貴族の最高位である関白に就いた秀吉の禁裏御所への行き帰りは、当時は天皇以上のものとも思われ、天皇以外では用いられない「御幸」も、そうしたことからつけられた可能性は高いと思われる。現在では、その当時を偲ばせるものはなにも存在していない。

 路を南に下り、姉小路通りを過ぎた東側に「藤本鉄石寓居址」と記された石碑が立っている。藤本鉄石(18161863)は、岡山藩出身の尊皇攘夷派志士で、脱藩して上洛し、私塾を開いた。文久3(1863)年天誅組の挙兵にあたり推されて総裁となったが、諸藩の討伐軍の攻撃を受けて大和国吉野で戦死した。天誅組とは、土佐脱藩の吉村寅太郎(18371863)ら尊皇攘夷派の志士が、文久3年の孝明天皇による神武天皇稜参拝のための大和御幸に先駆け、尊皇攘夷派の公家を主将として総勢38名で京を出発した。総勢の内訳は、土佐脱藩浪士が18名、久留米藩脱藩浪士が8名、他に淡路島の大地主であったものが全財産を処分して天誅組の軍資金として供出した。文久3817日、先に軍資金調達のため河内に先行していた藤本鉄石と合流した一行は、幕府天領の大和国五条代官所を襲撃し、代官であった鈴木源内の首を刎ね、桜井寺に本陣を構えて、ここに新政府を宣言した(このときから天誅組を名乗ったとともされている)。しかし挙兵直後に、会津藩やその当時は公武合体派であった薩摩藩、そして合体派の公家の策略により孝明天皇の行幸が中止になると、挙兵の大義名分を失った天誅組は、その後大和を転戦するが兵力をしだいに失う。藤本ら天誅組残党は、文久3924日、鷲尾峠を経た鷲家口(奈良県東吉野村)で紀州・彦根藩兵と遭遇する。藤本は敵中突破に成功したが、逃げ延びるのを潔しとせず、翌25日、部下数名と共に再び敵陣の紀州藩本陣に猛烈な切り込みをかけるが、所詮多勢に無勢であったため、壮絶な戦死を遂げたといわれる。享年48であった。天誅組は、わずか数ヶ月の過激な跳ね上がり集団として、あまり歴史上の評価は高くはないが、新時代の魁であったことは確かであろうと思われる。余談になるが私自身、天誅組の霊が眠る護国神社の近くで育ったが、天誅組の墓所だけ、他の勤皇の志士の墓とは別に、かい離した場所にあったのを記憶している。最近久しぶりに天誅組の墓を訪ねたが、何故だか解からないが他の志士たちが眠る場所に移転合祀されていた。この石碑は天誅組総裁・藤本鉄石の京都における住居跡を示したものである。

 

 

 寺町通り(てらまちどおり)は、北は鞍馬口通りから、南は五条通りに至る路である。寺町通りと名の付いたのは、天正年間に行われた豊臣秀吉による京都大改造計画により、この路の東側に寺院が集められたことから付いたとされる。しかし平安京の成立時にさかのぼると、すでにこの路はあり、しかも道幅32メートルの大路で、「東京極大路」と呼ばれていた。この名から判るように、京都の一番東の大路であったようだ。この路に沿って東側の地域は、都の市外という意味の洛外とされていた。平安京の頃は、東京極大路に沿って北域には染殿、京極殿、さらに東側(洛外)には東北院、法成寺、祇陀林寺などの貴族にゆかりの邸宅や寺院があり、南域の六条大路あたりには、源氏物語の主人公である光源氏のモデルといわれる、源融(みなもとのとおる)の邸宅があり、九条大路まで至っていた。平安時代末期から鎌倉時代に入ると、さらに東側や西側に住宅街が続出し、さしずめ高級住宅地の趣を呈していたと伝わる。ところで、秀吉によって再建された寺町通り、その名のとおりこの路の東側には浄土宗、法華宗、日蓮宗の諸寺院が集中的に、しかも整然と並べられた。数は約80か寺で、塔頭の数を合わせると、その倍になろうかと思われる。

 北の基点となる寺町鞍馬口付近には、上御霊神社がある。この神社は桓武天皇の弟である早良親王(さわらしんのう)を始め、吉備真備や菅原道真など八柱が祀られている。この神社は、都を焦土と化した応仁の乱の勃発地としても有名である。室町時代の文正2(1467)、この上御霊神社に陣をひいた将軍の補佐役である管領の畠山政長を、義弟である畠山義就が襲撃したのを始まりとして、以後11年間、現在の堀川通りを挟んで激烈な戦いが続き、京都の大半が焦土化した。少し余談になるが、畠山政長が御霊の森に陣をひいたのに対して、畠山義就の本陣は堀川通りの西側、現在の大宮通今出川あたりで、これを西陣と称したため、戦いの終結後も、この地域を西陣と呼ぶようになった。応仁の乱で人心の荒廃は極度にまで悪化し、以降100年以上続く戦国時代に突入していくのである。

 路を南に下ると今出川の手前の東側に阿弥陀寺という寺がある。正式には「浄土宗鎮西派 蓮台山 惣見院」というが、この寺の玄関に「織田信長公本廟」と記された石碑が立っている。中に入ると明智光秀の謀反により本能寺で没した織田信長と森蘭丸ら家臣の墓がある。信長の墓はここの他にも複数存在するが、家臣も一緒に葬られているのはこの寺だけのようである。この寺に信長の墓がある理由は、この寺ゆかりの清玉上人が、幼少期に織田家にて育てられた縁によるとされる。後に出家した清玉上人は、信長の帰依を得て、信長の入洛に際し、西ノ京蓮台野芝薬師西町(現在の今出川通大宮)に移り、永祿年間(15581569)に阿弥陀寺を落成した。天正十年六月二日、明智光秀謀反を知り、清玉上人は信長公の宿所本能寺に、塔頭の僧徒20人余りを召し連れ本能寺に駆けつけるが、表門は厳重に明智軍兵が四方を囲み寺内に入る事が出来ず、やむなく裏道より辛うじて入る。しかし堂宇に火が放たれ、すでに信長が割腹したことを知る。みれば傍の竹林に10人余の武士が集まって火を焚いていた。上人はこれをみると信長の家臣であることを確認し、事の顛末を聞く。すると信長割腹の時「必ず死骸を敵に渡すことなかれ」との遺言があったという。しかし四方敵兵にて、死骸を抱きて遁れ去る道もなく、やむなく火葬して隠しおいて、各々自刃するつもりと一同は答えた。そこで上人は信長とは格別の由縁あるため、火葬は勿論将来の追悼をすることを家臣たちに伝え、各々自刃するよりむしろ信長の為に敵に立ち向かい、その無念を晴らすことが武士の道であると説く。家臣らは大いに喜び、門前の敵に向うすきに上人は信長の遺骸を火葬し、白骨を法衣につつみ本能寺の僧徒らが逃げるのにまぎれこんで苦もなく帰寺したと伝わっている。現在の阿弥陀寺は、後の秀吉による京都改造計画により現在地に移転した。

 寺町通り沿いの寺院の特徴のひとつが、本山寺院が多いことである。阿弥陀より300メートル程南に下がると、東側に広い参道の寺と出会う。日蓮宗の本山、本満寺である。この寺は鎌倉時代中期の公家、近衛道嗣(このえみちつぐ)の菩提を弔うために、その子であり日蓮宗に帰依していた日秀上人が建てた寺である。山号を広布山(こうふざん)といい、本尊が仏像ではなく、仏像・シンボル・文字などを用いて視覚的・象徴的に表わした「十界曼荼羅」と呼ばれる絵画であることが特徴である。この寺の門前に「本山本満寺」と記された石碑と参道を挟んで「山中鹿之助幸盛墓有」と記された小さな石碑が立っている。山中鹿之助は、宇多天皇から発した宇多源氏の京極氏の支流であり、中国地方の有力な戦国大名であった尼子氏の家臣である。戦国の動乱期に、一度は滅んだ尼子氏の再興に生涯をかけたことで、忠君の武士として講談などにしばしば登場している。鹿之助の尽力にも関わらず、尼子氏の再興は叶わず、現在の岡山県高梁市にて悲劇的な最後を遂げたと伝えられている。何故山中鹿之助の墓がここにあるのかについては、解明されておらず、今もって不明である。

 今出川通りを渡り、400メートル程南下すると東側に寺院がある。廬山寺(ろざんじ)である。この寺は天台宗18世座主元三大師良源によって天慶年中(938年~947年)に船岡山の南に創建された。後に衰退するが、寛元元年(1243年)に法然の弟子である覚瑜(かくゆ)が船岡山の南麓に再興、中国の廬山にならって廬山天台講寺と号したという。応仁の乱で焼失した後、元亀3年(1571年)に再建され、豊臣秀吉の京都改造計画による寺町の建設により、天正年間(1573年~1593)に現在地に移ったと伝わる。またこの寺は源氏物語の作者である紫式部のゆかりの寺としても有名である。廬山寺の建つ前のこの敷地には、紫式部の曽祖父である権中納言藤原兼輔(堤中納言)が建てた邸宅(堤第)であり、紫式部自身もこの邸宅で育ち、生活を送ったと思われている。「源氏物語」「紫式部日記」「紫式部集」などの世界文学史上の名作も、この地で執筆されたものと思われる。式部は藤原北家の藤原為時(ふじわらためとき)の娘で、幼少の頃より才女の誉れが高く、中でも源氏物語は世界で最古の小説といわれている。式部の人となりは、勝気な女性であったようで、同時期の女流作家であり、日本三大随筆のひとついわれる「枕草子」を記した清少納言とは、互いの才を競ったようである。廬山寺の境内には、式部が幼友達に送った歌の可否や、平安朝の庭を思わす「源氏庭」が在り、この庭には紫式部に因み、紫の桔梗が6月から9月末まで静かに花を咲かせている。

 廬山寺から200メートル程南下すると、東側にモダンな洋館がある。同志社大学の創設者、新島襄の邸宅跡である。譲は天正14(1843)、江戸の神田で上州安中藩の藩士の子として生まれた。後に安中藩士になるが、外国への興味が強く、慶応元年(1865)、国禁を犯して函館から米国船で渡米する。米国でキリスト教の洗礼を受けた後、マサチューセッツ州アンドヴァーにあるフィリップス・アカデミーで学ぶ。明治3(1870)、アマースト大学を理学士の学位を得て卒業する。これは日本人最初の学位の取得であった。アマースト大学では、後に札幌農業学校の教頭になり、「少年よ、大志をいだけ」の言葉で有名なクラーク博士にも教えを受けた。明治5(1875)、折からアメリカ訪問中の岩倉使節団と会う。使節団の木戸孝允(桂小五郎)は、新島の語学力に眼をつけ、使節団に通訳として同行させ、ヨーロッパに渡った。新島は使節団の帰国後もドイツら残り、使節団の報告書ともいえる「理事功程」を編集した。この理事功程は、明治の教育制度に大きな影響力を及ばせた。帰国後の明治8年、京都府知事の植村正直等の賛同を得て同志社英学校(後の同志社大学)を開校し、その初代校長に就任した。この学校の設立精神はキリスト教精神である「良心」を中心に、「自由主義」「国際主義」を掲げた。明治23年(1890)、病で静養していた神奈川県大磯の旅館で、46歳の若さで死去した。東山若大路山頂に墓があり、墓碑に記された文字は勝海舟の筆である。

 烏丸通りを越えると、路の左右に飲食店や葉茶屋、或は古書店や紙屋などの商店が建ち並んでくる。それを更に進むと二条通りと交差し、その南西角に果物店がある。梶井基次郎の代表作となった小説「檸檬」に登場する果物店「八百卯」である。小説の内容は、暗く重たい青春の鬱折をレモンに寄せて書いた短編小説であるが、大正14年、同人誌「青空」の創刊号の巻頭に掲載された。今も店頭にはレモンが並び、作品を慕ってレモンを求める修学旅行生も少なくないという。