京都には、京都ならではの美味しい食べ物がありますが、「生麩」もその代表格のひとつです。昔からどこの家庭の食卓でも、お味噌汁の具として「焼き麩」はよく登場しますが、「生麩」は、全国的にはあまり知られていません。もっちりした食感の生麩と、さっくりした食感の焼き麩とでは、全く違う成分の食べ物と思われがちですが、成分は同じ小麦粉に含まれるたんぱく質のひとつであるグルテンから出来ています。

 

 生麩の製造工程は、小麦粉に食塩水加え、よく練って生地を作り、それを布製の袋に入れ水中で揉むとでんぷん質が流れ、残ったものがグルテンです。このグルテンを抽出する作業は大変重要で、二時間あまり練りと洗いとをつづけて、洗っている水がさらさらになると、目方にしてもとの粉の三分の一ほどのグルテンが取れます。むかしは体力と根気の要る辛い仕事だったようで、この作業を通して麩作りの職人さんたちは、麩の中に作り手の心を練りこんでいくのです。このように京都で生麩作りが発展した理由のひとつに、使用する水の良いことが挙げられます。江戸の文学者で「南総里見八犬伝」を記した滝沢馬琴が、上方地方を旅行したときの覚書として残した「壬戌羇旅漫録 ( じんじゅつきりょまんろく)」の中で、京に良きものとして女子、寺社、鴨川の水を挙げています。その他にも「京にて味よきもの。麩、湯皮(湯葉)、芋、水菜、うどんのみ。その余は江戸人の口にあはず」とも述べていますが、この当時から麩や湯葉は、京都の代表的な食べ物であったことがうかがえます。

 そこで少し京都の水に纏わるお話をしてみたいと思います。現在の京都市内の水道水は、琵琶湖から引き込んだものを使用していますが
麩や湯葉、或は豆腐といった京都を代表する食べ物を製造しているところでは、今も地下水を使っているところがあります。15年程前に地下水をそのまま食品に使うことを禁じた条例が出来たため、地下水を使う場合、濾過装置を設備して汲み上げているそうですが、今も京都の水は、脈々と京都の食文化の中に生き続けています。また京都市上京区本法寺前町にある裏千家邸内では、「梅の井」という井戸から汲み上げる水が、茶に最も適した名水といわれていて、毎年利休像の前にそなえる大福茶は、この井戸の若水をくんで家元が自ら点てています。また裏千家では「梅の井」の名水を守るため、毎日水をくみ上げることを四五〇年続けてきたとのことです。京都では昔から、下鴨神社の境内に湧く水が都の水の源であるといわれていますが、それを守ってきたのが鴨氏とされています。下鴨神社の社家で、その鴨氏の嫡流である鴨脚(いちょう)氏の先祖は、御所の井戸を守ることを仕事としてきましたが、鴨脚氏の読み方は、鴨の足型が銀杏の葉に似ているところから「いちょう」となったとされています。鴨脚氏の庭には、御所につながる井戸があり、その井戸は水面の高さで周囲の風景が変わるようになっていて、水面を一目見ただけで水位がわかるようになっています。このように京都はある意味で、水を中心に発展してきたとも言えなくはありません。
 
 このような歴史ある京都の水に育まれてきた京生麩は、もうひとつの特長として色彩にも現れています。花や手鞠をかたどった飾り麩は、季節を映した芸術品ともいえます。京生麩大野さんでは、この飾り麩は、ひとの職人さんの手から生まれます。お店は京都の織物の代表である西陣地域にも近く、麩の色彩にも西陣織の色彩感覚が生きているとのことでもあります。この他にもよもぎ麩の中に漉し餡を入れ、熊笹の葉で包んだ笹巻麩は、つるんとした食感と適度な甘みが食通をうならせます。四季を通じて色々な食べ方の出来る京生麩大野さんの生麩製品は、私の一押です。

 京都西山(乙訓)地域で栽培される竹の子は、日本一との評価がありますが、それには理由があります。良い竹の子が出来る条件として、土壌と日当たりの良さが挙げられますが、京都の西山地域は日当たりの良い丘陵が多く、水はけの良い酸性土壌に恵まれています。しかしそれだけでは美味しい竹の子は出来ません。竹の子畑は一年を通じ、徹底的に管理されています。

  冬の間は竹の子畑一面に麦わらが敷き詰められます。その上に保水性の良い赤土重ね、ふんわりとした土を育てます。これを置き土といいます。こうすることで、雨も土の中に良く浸み込み、竹の地下の茎にもふんだんに水分が補給されます。また土の中に敷いたわらの間には適度の空気が含まれ、時間の経過と共にわらは土と同化して質の良い肥料となります。こうして竹の子にとって最高の環境で育つので、肉質が柔らかで美味しい竹の子が出来上がるということです。


 竹の子畑は収穫時期になると、親竹にするために残す竹と収穫する竹の子に見分けられます。そして収穫が終わる頃、親竹への栄養を充分に行きわたらせるため、育成の悪い竹や不要な下草の刈り取りが行われます。この作業は秋の頃まで2日に一度行われ、これを地域の人は「ムシャクシャ狩り」と呼んでいます。そうして残された親竹同士の間隔が2メートル以上になり、その適度な間隔のお陰でお互いの成長を邪魔せず、充分な日光も確保されます。この他にも5月の中旬には、親竹が56メートルになると、根の成長を助けるため、先端が切られて葉や枝の成長を止め、日照効果と風で竹が折れるのを防ぎます。


 このように徹底した管理の下で育まれた竹の子が、朝に掘られ、その採れたてを皮付きのまま釜茹でされたのが「釜ゆでたけのこ」です。お魚でも鮮度を保つために如何に早くしめるかが勝負になりますが、竹の子も同じで、掘りたてをすぐに釜ゆですることで、より美味しさが保たれるのです。このように多くの人の努力と情熱から生まれた竹の子が、美味しくないわけがないことを充分に納得していただいたと思います。

京都西山産の「釜ゆでたけのこ」は、「産経特選京都」で販売しています。数量に限りがございますので、どうぞお早めにお申し込みください。



 麩屋町通り(麩屋町通り)は丸太町通りから五条通りまでの路である。この路は平安京の造成時から「富小路(とみのこうじ)」として登場していた。しかし現在この路の一筋西に富小路通りが存在している。話しは少し込み入るが、平安期の富小路は、平安京の一番東の大路である東京極大路の西側に位置する小路であった。その両側には藤原道長や後鳥羽院の邸宅である京極殿と呼ばれた邸宅や、貴族たちの邸宅が甍を連ねていたという。中世になると、三条通り以南に商人や細工師が進出してくるが、京都の町を焼き尽くした応仁・文明の乱でいちじるしく荒廃し、田園化する。これを回復したのが豊臣秀吉による京都大改造である。大規模の市外区の整理が行われ、この路が再生した。しかし最初から現在の呼び名である麩屋町通りが定着していたのではなく、二条通りと交わる付近に白山神社があったため、白山通りと呼ばれることもあったという。貞享2(1685)に刊行された「京羽二重」には、この路筋には豆腐、麩、麺を扱う人が多数住居していたと記されている。どうもそのような推移からいつの頃からか麩屋町と呼ばれるようになったものと推察される。 

 

 北の基点となる丸太町通りの西南角に「竹内式部寓居址」と記された石碑が立っている。竹内式部は、江戸時代中期の神道家であり、尊王論者である。この地に私塾を開き、若い公家たちに尊王思想を教授したといわれている。しかし神道教授の家系とされた白川・吉田両家を差し置いて公家に神書を講じた等の理由で宝暦9(1759)、京都から追放された。これは世に宝暦事件といわれ、尊王論者が最初に弾圧された事件である。その後明和4年(1767)、江戸の兵学・儒学者である尊王思想家であった山県大弐(やまがただいに)が、江戸攻略の軍法を説いた罪で不敬罪で捕らえられるが、式部はそれにも連座を疑われ、八丈島に流罪となるが、護送の途中三宅島で病没した。この碑は竹内式部宅の跡を示したものである。

 

 路をひたすら南下すると六角通りを過ぎた北側に「八文字屋自笑翁邸跡」と記された石碑が立っている。八文字屋自笑は生年がはっきりしないが、没年は延享2年(1745)とされている。京の書肆八文字屋八左衛門の家業を継ぎ、浮世草子の草分けといわれ、作者であり版元でもあった。浮世草子とは、江戸時代に生まれた文芸形式のひとつで、民衆の生活の幅広い主題を扱って多くの作品が書かれた。浮世草子の作者としては「好色一代男」を書いた井原西鶴が最も知られている。八文字屋自笑は「八文字屋本」と称される書籍の分野を開拓した。この石碑は八文字屋自笑の邸宅跡を示すものである。

 

 更に路を南下すると、仏光寺通りを過ぎた東側に小学校と思われる建物が建っている。この建物は「学校歴史博物館」で、明治2年に我が国最初の小学校が64校京都市内に作られたが、そのひとつであった旧開智小学校の跡地を利用して作られた博物館である。当時の京都の行政区画は上京区と下京区の二つで、明治2年にそれぞれの区に33校、合計66校の小学校が作られた。

これらは京都の町衆による小学校創設構想に端を発したもので、それらの人々の多くの献金や寄付により実現した。これらの小学校は、国が学制を定める3年も前に先取りして開校した。また小学校は、単に教育機関あるだけでなく、町会場であり、府の出先機関でもあった。そのために交番や防火楼も設備し、予防接種などの保険所の役割も兼ねていた。昭和45年以降、少子化などによる児童数の激減により廃校や統合が進み、今日に至っている。