柳馬場通り(やなぎのばんばとおり)は、京都御苑の南の筋である丸太町通りから五条通りまでの路である。平安京当時は万理小路と呼ばれていた。江戸時代に入っても柳馬場と万理小路が併称されていたようで、柳馬場が定着したのは比較的新しいと思われる。小路といっても平安期のこの路は、道幅12メートルほどあったといわれ、現在はその半分ほどの道幅である。この路が狭くなったのには、都のほとんどを焼き尽くした応仁の乱で、この界隈のほとんどが焼失した。その後天正18年に豊臣秀吉により行われた京都大改造計画でこの路は復活した。その時に現在の道幅になったのである。京都大改造計画が行われる前年である天正17年には、周辺全体が田野化していた二条通りと交わる付近に、秀吉の肝いりで「二条柳町」という京都一、言い換えれば日本一の遊里が作られた。遊里は「柳院」との異称をもっていたが、推測するところ柳の並木が形成されていたようである。この二条柳町は慶長7(1602)の二条城の造成にともない六条に移転された。その跡地で慶長9年に豊国祭が行われ、馬揃えがあった。「柳馬場」はこれにちなんだもので、この通り名になったものと思われる。

 中世に入ると、この通りはがらりと趣を変える。室町幕府が発足すると足利幕府家の邸宅街となった。二代将軍義詮(よしあきら)は錦小路に、権勢を誇った三代将軍義満(よしみつ)は三条通り、四代将軍義持も六角通りに邸宅を構えたというから、南北朝室町時代には、この道筋は武士たちが闊歩していたようである。江戸期に入っても、まだこの様相はあったようで、竹屋町通り上るには有馬藩、同じく下ったところに小笠原藩があり、三条通り下るには米沢の上杉藩、錦小路下るには秋田の佐竹藩の各京屋敷があり、或る意味武士の町であったようだ。東北や九州の藩が所在していたことから東北弁や九州弁が、この路から聞こえてきたのであろうと推察する。元禄期には木地屋・漆屋・合羽屋・葛・茶柄杓等の京都を代表する手工業が町を形成していったことを伝えている。

 近江屋京都の河原町四条といえば、京都最大の繁華街である。この河原町四条を少し下がった西側に、坂本龍馬が暗殺された近江屋があった。現在、建物はなく、跡地にはコンビニエンスストアが建っていて、その当時を偲ばせるものはない。唯一「坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地」と記された1,3メートルほどの石標が立っているのみである。

「まだその藩なるものの妄想が覚めぬか。薩州がどうした、長州がなんじゃ。要は日本ではないか。なあ小五郎」近江屋の二階で、中岡慎太郎と共に刺客の刃に倒れた坂本龍馬が、薩長連合を作る際に長州の桂小五郎を説き伏せたときの言葉とされる。龍馬は慶応31115日(18671210日)の暗殺当日には風邪を引いて河原町の蛸薬師で、醤油商を営む近江屋新助宅母屋の二階にいた。それから遡ること2日前の1113日、新撰組から袂を分かった御陵衛士・伊東甲子太郎が尋ねてきて、新選組に狙われているので三条の土佐藩邸に移るように助言するが、龍馬はそのまま近江屋に留まる。

暗殺された当日は、陸援隊の中岡慎太郎や土佐藩士の岡本健三郎、画家の淡海槐堂などの訪問を受けている。中岡はそのまま龍馬と話していたが、十津川郷士と名乗る男達数人が訪れた。応対に出た元力士の山田藤吉は龍馬に取り次ごうとするが、後ろから斬られる(1日後に死亡)。このとき龍馬は斬られて悲鳴を上げた山田に、ふざけていると思い込み「ほたえな!」と言い、結果として刺客に自分たちの場所を教えてしまう。龍馬達は近江屋の人間が入ってきたものと思い込んでおり、刀を手元に置いていなかった。龍馬はまず額を深く斬られ、奮戦するも死亡。享年32歳であった。中岡も2日後に死亡した。享年29歳であつた。

この龍馬暗殺の下手人については、後年、元京都見廻組の今井信郎、渡辺篤の口述で、佐々木只三郎らが実行犯であると証言したことで、彼らの確率性が高いとはされているが、当初、中岡の証言で刺客が「こなくそ」と伊予弁を話していたことなどから、新選組の原田左之助や大石鍬次郎らの仕業とされた(事実、大石鍬次郎は、龍馬暗殺の罪で殺されている)。他にも薩摩の陰謀説等、複数の人間の名前が挙がっているが今もって謎とされている。歴史にもしもはないが、もし龍馬が生きていれば明治維新の政治形態は確実に変わっていたと思われる。現在は近江屋の建物はなく京都国立博物館には数箇所の血痕が残る掛け軸が所蔵されている。それは淡海槐堂が暗殺当日に龍馬に誕生日祝いとして贈った「梅椿図」という作品である。付着した血痕は暗殺された龍馬のものといわれている。

 富小路通り(とみのこうじとおり)は、北は丸太町通りから南は上珠数町通りまでの路である。この路は豊臣秀吉による京都大改造計画で出現した。本来の富小路通りは、平安時代の小路名であるが、その旧富小路の道筋は東隣の麩屋町通りであった。何故このようになったのかについては、しかとした理由が判っていない。京都大改造計画では、新しい路が多く出現したが、通りを増加させることで、人間・もの・車の移動が便利になり、住宅開発や商業が発展したことは事実である。

18世紀初頭の宝永の大火後は、御所域の拡大により下立売通りから丸太町通りにあった町家は移転させられたが、移転先になったのが、鴨川以東の仁王門付近であった。町民たちは旧地を忘れず、ここを新富小路と名づけている。

 この道筋には皇室にゆかりの深い遺跡が多い。まず路を南下すると竹屋町通りを過ぎ、夷川通りの手前の西側に「大炊御門万里小路殿址(おおいのみかどまでのこうじどのあと)」小さな碑が立っている。大炊御門万里小路殿は、平安京左京二条四坊十一町にあった但馬守源高房(?~1077)の邸宅で、後に後三条天皇(103473)が延久5(1073)に病を得てこの邸に行幸、この地で崩御したといわれる。またここから夷川通りを過ぎて10mばかり南下した西側に「二条富小路内裏址」と記された碑が立っている。この地には、鎌倉中期の優れた歌人であった西園寺実氏(11941269)の邸宅の一つで、冷泉富小路殿が営まれていた。閑院内裏焼失(1259)後は、後深草天皇(12431304)の皇居となり、その後も上皇・天皇の御所として頻繁に使われた。徳治元年(1306)火災後再建されないままであったのを、正和元年(1312)鎌倉幕府から造内裏費用が献上されて平安宮内裏の殿舎構成に准じた里内裏が建設されたが、これが二条富小路内裏で、のち20年にわたり花園(12971348)・後醍醐(12881339)・光厳(131364)天皇の内裏となった。しかし建武3(1336)、世に南北朝時代に入るきっかけとなった建武新政崩壊による戦乱で焼失した。この石標は、その内裏の跡を示すものである。