堺町通り(さかいまちとおり)は、北は丸太町通りから南は五条通りまでの路である。北の基点には京都御苑の南の正門にあたる堺町御門がある。この堺町御門は、幕末の政変である「禁門の変」の際には、主戦場のひとつになった門である。禁門の変とは、文久2年(1861)から翌年にかけて反幕府派の長州藩は、公武合体派の公家を追い落とし、朝廷内の実権を握っていた。文久3311日と411日、長州藩主導の朝議決定の下、孝明天皇は賀茂上下神社・泉涌寺、及び石清水神社への攘夷祈願の行幸を行った。さらに長州藩は天皇の大和行幸を画策し、その気に乗じて一気に倒幕を果たそうという過激な行動を画した。ところが長州藩の独走に、自らの存在性を危うく感じた薩摩藩は、それまで政敵でもあった会津藩と手を組み、公武合体派の中川宮を擁立して長州藩の追い落としに出た。818日中川宮は、公武合体派の公家による朝議を開き、まず大和行幸の延期及び長州系の公家の禁足と、併せて長州藩の堺町御門守備の任を解くという勅定を発した。また禁裏の各門は、薩摩藩と会津藩・桑名藩を主力とする親幕派及び公武合体派の各藩兵で封鎖した。これにより丸太町通りを挟み、長州藩と薩摩藩・会津藩は一発触発の状態に入った。元冶元年717日、蛤御門長州兵と薩摩・会津藩兵との間で戦闘が始まり、これをきっかけに御所周辺の御門を主戦場とした攻防戦が始まった。堺町御門は越前藩が固めていたが、長州藩は久坂玄瑞率いる一隊で攻めた。門を突破した久坂は、孝明天皇の信認の厚い鷹司邸に入り、参内の供を懇願するが聞き入られず、その後奮戦するが負傷し、逃げ切れないと覚悟し自刃して果てた。

 路をどんどん南下し、高辻通り越えた230メートル程超えたところに、「源語伝説夕顔之墳」と記された石標が立っている。夕顔は「源氏物語」の登場人物で、乳母の「五条なる家」付近の荒れ果てた家に住んでいるところを、光源氏が見出し、光源氏が通った女性である。夕顔が家前に咲いていたことからこう呼ばれた。夕顔は源氏物語の中でも薄幸の女性で、可憐なイメージの或る女性である。この石標は夕顔伝説の地を示すものとされている。なお、この石標の建つ町内を夕顔町といい、地名の中にも物語が息づいていて、やはり悠久の歴史を感ぜずにはいられない。

吉村寅太郎 木屋町通り界隈には、幕末の史跡が特に多く、そのひとつに木屋町三条上がる東側には、武市瑞山(半平太)の住居跡と並んで、幕末の尊皇攘夷の先兵であり、非業の集団となった天誅組を組織し、大和各地で転戦の後、吉野にて没した吉村寅太郎の京都での住居跡がある。吉村寅太郎は土佐藩出身の尊王攘夷派の志士で、佐国高岡郡芳生野村(高知県高岡郡津野町)の庄屋の家に生まれた。武市瑞山の土佐勤王党に加盟し、脱藩して国事に奔走するが、寺田屋事件で捕縛されて土佐に送還され投獄される。再度上洛して、藤本鉄石等と「天誅組」を組織し倒幕の兵をあげるが、蜂起後40日余りで大和国吉野にて戦死した。

吉村寅太郎が「天誅組」を結成した経緯は、文久3年(1863)頃、朝廷では三条実美らの過激攘夷派の公家達が実権を握り、長州藩や土佐藩などの尊王攘夷派の志士達と結び、朝廷の主導権を握る。勢いを増した尊王攘夷派は、攘夷親征と討幕計画を進めるため、孝明天皇の大和行幸を画策する。この計画は、攘夷祈願のために天皇が神武天皇陵・春日大社を参拝したのち、供を命じた在京各藩の兵力を利用し討幕へと進めようとするものであった。そして攘夷派の公家達の画策により813日、大和行幸の詔勅が出た。吉村寅太郎は松本奎堂、藤本鉄石、池内蔵太ら攘夷派浪士と語らい、大和行幸の先鋒となるべく大和へ赴くことを決議する。そして吉村らは尊皇攘夷の公家の中でも急先鋒の中山忠光を、京都東山の方広寺へ誘い出し、挙兵することを説得し、中山忠光を大将として同志38名で大和にむかう。まず陸路と海路にて大阪の堺に到着(この時に正式に天誅組を組織したといわれている)した一行は、河内地方の狭山に入る。中山忠光は、藩主北条氏燕に対して陣に加わるように働きかけるが、対応に苦慮した狭山藩は、とりあえず天誅組に武器弾薬を差し出す。国境の千早峠を越えて大和国へ入り、幕府天領の五条に到着した天誅組は、土地の代官所を襲撃することを皮切りに、以降、壊滅する9月28日までの約40日間を、奈良の西吉野、天川、大塔、高取、御所、下市、大淀、十津川、下北山、上北山、川上、東吉野と奈良県南部地方を転戦した。

天誅組が壊滅した大きな要因は、主将の中山忠光に指揮能力がなかったことと、最後には朝廷から天誅組を逆賊とする令旨が出る等、朝廷を取り巻く狡猾な公家たちの無節操な変節と、事を急ぎすぎたための「急進的跳ね上がり集団」として粛清された感が強い。吉村は高取城の攻撃で負傷し、吉野郡高見村鷲家口に隠れていたところを、津藩兵に発見され射殺された。享年27であった。中山忠光は長州に逃れるが、豊浦郡田耕村で暗殺される。享年20歳の若さであった。「吉村寅太郎寓居跡」の石標が立つこの地は、吉村が京都に潜伏していた場所を記している。

 円山公園を抜け、祇園閣がある大雲院の前を通り、清水寺方面に歩を進めると、秀吉の妻おねが徳川家康の庇護の下、秀吉の菩提を弔うために建立した高台寺の前に出る。その高台寺の西門に至る参道のふもとに、月真院という小さな寺がある。この寺は高台寺の塔頭寺院であるが、幕末には高台党と呼ばれ、新撰組から袂を分った伊東甲子太郎(いとうかしたろう)を中心に結成された、御陵衛士(ごりょうえじ)と称した武士集団がその屯所と使用していた。御陵衛士と御衛士屯所跡はその名のとおり、天皇陵を守る衛士を指すが、東山泉湧寺内にある薄命の天皇、孝明天皇の御陵を警護するために結成された。しかしそれは表向きであって、実のところは近藤勇や土方歳三ら新撰組の中心人物との伊東との間で、考え方の違いが抜き差しなら事態に発展したため、実質的に伊東一派らが新撰組を飛び出し、その結果結成された集団であった。

 慶応3(1867) 3月、新選組隊士伊東甲子太郎以下15名は、新選組と袂を分かち、孝明天皇
御陵衛士を拝命して、東山高台寺塔頭月真院に居を構え、「禁裏御陵衛士屯所」の標札をあげ、ここを本拠地とした。伊東と行動を共にしたのは弟の三木三郎、篠原泰之進、藤堂平助、服部武雄、毛内有之助、山弥兵衛、阿部十郎、内海次郎、加納鷲雄、中西昇、橋本皆助、清原清、新井忠雄、斎藤一(斎藤は新選組の間諜)の計15名であった。中でも藤堂平助は、新撰組局長近藤勇の道場である試衛館以来の生え抜きの同志で、新撰組八番隊組長も勤め、近藤の信認も厚かったといわれる。北辰一刀流の使い手で、江戸の時期に剣術を通じて伊東と知り合い、伊東の勤皇思想に感化されたと思われる。

 伊東甲子太郎は常陸・志筑藩に生まれた。
幼名は祐之、元の名は鈴木大蔵(大藏)といい私塾「俊塾」の校主、鈴木忠明の長男として生まれた。父の塾で学んだのち、水戸に出て金子健四郎(徳川斉昭に仕えた人物)の道場に入門する。このときに神道無念流剣術と水戸学を学び、当時流行しつつあった勤王思想に傾倒する。のちに江戸深川佐賀町の北辰一刀流剣術伊東道場に入門する。その後、道場主伊東精一に認められて跡目を任され、これより伊東姓を名乗り伊東大蔵(伊東大藏)と称する。元治元年(1864年)10月、同門の藤堂平助の仲立ちで新選組に入隊する。同年11月、弟の鈴木三樹三郎ら盟友、同志らと引き連れて京都へ上り入隊する。この上洛の年が元治元年甲子であったため、それにちなんで伊東甲子太郎と改名する。(甲子太郎は「きねたろう」との説もあるが、「かしたろう」が正しいとされている)

 文武両道に優れた伊東は、新選組でも伊東道場の場主ということで、参謀兼文学師範に就く。伊東の巧みな弁舌に近藤勇も当初は傾倒するが、副長の土方歳三は、ひとかたならぬ策士と当初より警戒したようである。伊東のその弁舌は、人を納得させる説得力を持っていたようで、伊東と近藤とは攘夷という点で一致をみたが、誰を押し擁くかについては近藤や土方は将軍を頂点とする佐幕思想であり、伊東は天皇を頂点とする勤皇思想であった。伊東は弁舌を尽くして勤皇を説いたが相容れず、その結果密かな対立が広がり、やがて伊東一派は新撰組を抜け、御陵衛士を名乗るに至った。

 慶応三年(1867)11月18日、近藤勇の招きに応じ、七条醒ヶ井にあった近藤の妾宅に出かけた伊東は、近藤や新選組幹部の歓待を受け、したたかに酒を飲まされ泥酔する。その帰り道、油小路木津屋橋(油小路七条付近)にさしかかった時、突如として刺客に襲われる。伊東は、道の南側の板塀の隙間から走り出た槍に、肩から喉にかけて差し抜かれてしまう。しかし、気丈にもさらに襲いかかって来た勝蔵(元伊東の馬丁をしていたといわれる)という男を抜き打ちに切り捨て、近くの本光寺の門前まで歩いたところで倒れ、「奸賊輩!」と叫んで絶命したと伝えられる。伊東の死を知った高台寺の御陵衛士達は、新選組の罠があると知りつつも、篠原泰之進、藤堂平助等7人の隊士は、駕籠を用意して遺体を引き取りに七条油小路まで出かけるが、現場で遺体を駕籠に乗せかけたとき、周囲から40名を超える新選組隊士が群がり出てくる。7人はそれぞれに奮戦するが、服部武雄、毛内有之助、藤堂平助の三名は討死する。残る篠原、鈴木三樹三郎、富山弥兵衛、加納道之助の4人は、活路を開いて重囲を切り抜け、薩摩藩邸に身を投じて生き延びた。

 伊東と討死した三人の遺体は、その後も御陵衛士をおびき出すために路上に放置されていたが5日目に新選組の手によって光縁寺に埋葬された。そして、鳥羽伏見の戦いの後、四人の遺体は仲間の手によって泉涌寺の塔内戒光寺に改葬される。その後中心であった伊東を始め、多くの同志を失った御陵衛士は解散し、その生き残りは、新政府の東海道鎮撫総督指揮下の一部隊である赤報隊に身を投じた。