円山公園を抜け、祇園閣がある大雲院の前を通り、清水寺方面に歩を進めると、秀吉の妻おねが徳川家康の庇護の下、秀吉の菩提を弔うために建立した高台寺の前に出る。その高台寺の西門に至る参道のふもとに、月真院という小さな寺がある。この寺は高台寺の塔頭寺院であるが、幕末には高台党と呼ばれ、新撰組から袂を分った伊東甲子太郎(いとうかしたろう)を中心に結成された、御陵衛士(ごりょうえじ)と称した武士集団がその屯所と使用していた。御陵衛士と
はその名のとおり、天皇陵を守る衛士を指すが、東山泉湧寺内にある薄命の天皇、孝明天皇の御陵を警護するために結成された。しかしそれは表向きであって、実のところは近藤勇や土方歳三ら新撰組の中心人物との伊東との間で、考え方の違いが抜き差しなら事態に発展したため、実質的に伊東一派らが新撰組を飛び出し、その結果結成された集団であった。
慶応3年(1867) 3月、新選組隊士伊東甲子太郎以下15名は、新選組と袂を分かち、孝明天皇御陵衛士を拝命して、東山高台寺塔頭月真院に居を構え、「禁裏御陵衛士屯所」の標札をあげ、ここを本拠地とした。伊東と行動を共にしたのは弟の三木三郎、篠原泰之進、藤堂平助、服部武雄、毛内有之助、山弥兵衛、阿部十郎、内海次郎、加納鷲雄、中西昇、橋本皆助、清原清、新井忠雄、斎藤一(斎藤は新選組の間諜)の計15名であった。中でも藤堂平助は、新撰組局長近藤勇の道場である試衛館以来の生え抜きの同志で、新撰組八番隊組長も勤め、近藤の信認も厚かったといわれる。北辰一刀流の使い手で、江戸の時期に剣術を通じて伊東と知り合い、伊東の勤皇思想に感化されたと思われる。
伊東甲子太郎は常陸・志筑藩に生まれた。幼名は祐之、元の名は鈴木大蔵(大藏)といい私塾「俊塾」の校主、鈴木忠明の長男として生まれた。父の塾で学んだのち、水戸に出て金子健四郎(徳川斉昭に仕えた人物)の道場に入門する。このときに神道無念流剣術と水戸学を学び、当時流行しつつあった勤王思想に傾倒する。のちに江戸深川佐賀町の北辰一刀流剣術伊東道場に入門する。その後、道場主伊東精一に認められて跡目を任され、これより伊東姓を名乗り伊東大蔵(伊東大藏)と称する。元治元年(1864年)10月、同門の藤堂平助の仲立ちで新選組に入隊する。同年11月、弟の鈴木三樹三郎ら盟友、同志らと引き連れて京都へ上り入隊する。この上洛の年が元治元年甲子であったため、それにちなんで伊東甲子太郎と改名する。(甲子太郎は「きねたろう」との説もあるが、「かしたろう」が正しいとされている)
文武両道に優れた伊東は、新選組でも伊東道場の場主ということで、参謀兼文学師範に就く。伊東の巧みな弁舌に近藤勇も当初は傾倒するが、副長の土方歳三は、ひとかたならぬ策士と当初より警戒したようである。伊東のその弁舌は、人を納得させる説得力を持っていたようで、伊東と近藤とは攘夷という点で一致をみたが、誰を押し擁くかについては近藤や土方は将軍を頂点とする佐幕思想であり、伊東は天皇を頂点とする勤皇思想であった。伊東は弁舌を尽くして勤皇を説いたが相容れず、その結果密かな対立が広がり、やがて伊東一派は新撰組を抜け、御陵衛士を名乗るに至った。
慶応三年(1867)11月18日、近藤勇の招きに応じ、七条醒ヶ井にあった近藤の妾宅に出かけた伊東は、近藤や新選組幹部の歓待を受け、したたかに酒を飲まされ泥酔する。その帰り道、油小路木津屋橋(油小路七条付近)にさしかかった時、突如として刺客に襲われる。伊東は、道の南側の板塀の隙間から走り出た槍に、肩から喉にかけて差し抜かれてしまう。しかし、気丈にもさらに襲いかかって来た勝蔵(元伊東の馬丁をしていたといわれる)という男を抜き打ちに切り捨て、近くの本光寺の門前まで歩いたところで倒れ、「奸賊輩!」と叫んで絶命したと伝えられる。伊東の死を知った高台寺の御陵衛士達は、新選組の罠があると知りつつも、篠原泰之進、藤堂平助等7人の隊士は、駕籠を用意して遺体を引き取りに七条油小路まで出かけるが、現場で遺体を駕籠に乗せかけたとき、周囲から40名を超える新選組隊士が群がり出てくる。7人はそれぞれに奮戦するが、服部武雄、毛内有之助、藤堂平助の三名は討死する。残る篠原、鈴木三樹三郎、富山弥兵衛、加納道之助の4人は、活路を開いて重囲を切り抜け、薩摩藩邸に身を投じて生き延びた。
伊東と討死した三人の遺体は、その後も御陵衛士をおびき出すために路上に放置されていたが5日目に新選組の手によって光縁寺に埋葬された。そして、鳥羽伏見の戦いの後、四人の遺体は仲間の手によって泉涌寺の塔内戒光寺に改葬される。その後中心であった伊東を始め、多くの同志を失った御陵衛士は解散し、その生き残りは、新政府の東海道鎮撫総督指揮下の一部隊である赤報隊に身を投じた。