烏丸通り(からすまどおり)は、北は北区の今宮神社の前の路である今宮通りから、南は南区の久世橋通りまでの長い路である。途中、京都の玄関口である京都駅で中断されるが、南北路のメインストリートでもある。   
 平安京の頃は烏丸小路あたるが、その当時道幅は、12メートルであったようだが、現在の烏丸通りは20メートルの幹線道路である。烏丸四条を中心に、特に御池通りから五条通りにかけては多くのビルが建ち並び、京都のビジネスの中枢が集まった路でもある。その一方でこの道筋には多くの史跡が点在しているが、特に京都御苑の西側を通っている関係で、史跡も多いように思われる。
 昭和55年(1981)に完成した地下鉄烏丸線の工事は、着工より八年で京都駅から北大路通りの間で完成するが、これほど時間を要した原因に、工事中に埋蔵文化財が発見され、しばしば工事が中断したことにあるようだ。やはり千年の間日本の中心であったことから、歴史が縦に堆積され、どこを掘っても何がしかの時代の埋蔵物が確実に発見されるという、類まれな街であることを証明したともいえそうだ。
 路名の由来に関して貴族の烏丸家からとの説があるが、明らかにはなっていない。平安時代中期には、藤原一族の豪邸が軒を連ね、本来の内裏が火災などで焼失すると、それらの屋敷は臨時の内裏という意味の里内裏として使われるようになる。中世に入ると、現在の千本丸太町付近にあった平安京以来の禁裏御所が、度々の火災で焼失し、再建することを断念し、臨時の里内裏であったものが、ある時期から御所として固定し、現在の京都御苑である烏丸通り以東に定着したものと思われる。しかしこの烏丸小路筋も、十五世紀後半に勃発した応仁の乱で、壊滅状態になってしまう。この道筋を再建したのが、やはり秀吉の手による京都大改造計画であった。禁裏御所の再建は織田信長時代から始められていたが、秀吉の時代、今出川通りから丸太町通りの道筋には、公家屋敷や町家が軒を連ねるようになったようである。


 この路のランドマークは、なんといっても京都御苑であろう。御苑内には、特に幕末の歴史遺産や跡地とされる場所が多くある。東京遷都後の現在、建物として残されているのは、禁裏であった京都御所及び現在も天皇の宿舎になっている大宮御所(仙洞御所)のみである。現在緑地となっている場所は、そのほとんどが公家の屋敷であった。緑地帯は現在、環境庁が管理する国民公園としとて京都市民の憩いの場になっている。まず幕末の史跡としての筆頭は蛤御門であろう。この門をめぐって、守る会津・薩摩藩と、攻め上った長州藩とが激戦を展開した。この戦いは蛤御門の変(禁門の変ともいう)と呼ばれるものであるが、現在もその時に長州藩が放った鉄砲の痕が門に残されている。
 その蛤御門を入り東に百メートル程行くと太い椋の木がある。清水谷家という公家の屋敷があったことから「清水谷家の椋」と呼ばれている。蛤御門の変の際には、ここが最大の激戦地となり、長州藩士・来嶋又兵衛がここで戦死した。
 そこから京都御所の西の壁に沿って北に行き、更に北西の角を東に行くと御所の北東の角に至る。御所の東北東の方向は、鬼門にあたるが、ここは「猿が辻」と呼ばれる場所で、敢えて一角を削って入隅を造っている。屋根の下には御幣を担いだ木彫りの猿が置かれているため、猿ヶ辻と呼ばれている。文久三年(1863)五月二十日、この猿ヶ辻で公武合体派の公卿姉小路公知が襲われる事件が起きた。三人の刺客を相手に姉小路は気丈に戦ったが、深手を負いその二日後に息を引き取った。
 またそこから東南に進むと松林があるが、その中に「皇女和宮の生誕地」と記された石標が立っている。和宮は仁孝天皇の八皇女として生まれた。後に公武合体の天皇家の証として、第十四代将軍家茂の妻として徳川家に降嫁し、家茂亡き後も江戸にとどまり、その生涯を終えたといわれる。和宮は、自らを時代の犠牲にした悲劇の皇女として、度々ドラマ等に登場している。
 また猿ヶ辻の北側に祐井と呼ばれる井戸を保存した場所がある。ここは公家の中山邸跡であり、明治天皇の誕生の地である。祐井の名は、明治帝の幼名祐宮に因んだものである。御所の南側の緑地に「有栖川宮邸跡」と記された石標が立っている有栖川熾仁親王は、皇女和宮の婚約者であったが、時の政治情勢により破棄された。戊辰戦争では東征大総督に就いた。この職は、明治新政府により、征夷大将軍職が廃止された後、作られた臨時の司令長官職である。
 そこから京都御苑を南西方向に行くと、池を湛えた瀟洒な庵がある。拾翠亭と呼ばれるもので、ここには九条関白邸があった。幕末の九条家当主は九条尚忠であるが、九条尚忠は、親幕派で幕府が策動した条約勅許にも尽力した。安政4年(1857312日早朝、岩倉具視、大原重徳らの急進派公卿88人が御所に集まり、その勢いで九条家に押しかけ強訴に及んだ。九条はあまりの事態に腰を抜かしたとも伝わる。結局、条約勅許は得られず、九条関白朝廷における地位も急降下し、明治4年に74歳で没した。
 ここを東に行くと堺町御門に至るが、堺町御門を挟んで東側には公家の鷹司邸があった。蛤御門の変の際には、長州藩兵による放火で炎上した。長州藩の久坂玄瑞、寺島忠三郎らが、戦の負けを悟ってここで自刃している。

 路を烏丸通りに戻り、今出川通りを越えて更に200m程北に行くと西側に「大聖寺」という寺がある。その中に「花乃御所」と記された石標が立っている。この地に室町幕府三代将軍足利義満(13581408)が造営した将軍家の邸宅跡で幕府が置かれた。北は上立売通、南は今出川通、東は烏丸通、西は室町通に囲まれた東西一町、南北二町の規模であったと伝わる。邸内の樹木苑地が美しかったことから花の御所とも称された。応仁の乱の戦火で焼失し、後の文明年間(146987)に再建したが再び焼失した。
 そこから路に沿って50m程南下した東側に「薩摩藩邸跡」と記された石標が立っている。幕末の薩摩藩は、蛤御門の変までは公武合体を推進する中心的な存在であったが、後に倒幕に傾き、薩長連合に至るのである。京都における薩摩藩の本邸は錦小路通り東洞院にあったが、この地にも設けられた。
 更に路を南下し、上長者町通りを越した西側に「土御門内裏跡」と記された石標が立っている。土御門内裏は里内裏のひとつで、鳥羽(110356)・崇徳(111964)・近衛(113955)三代の天皇が約24年間にわたって利用した。現在の上長者町通りは、平安京の土御門門から東に延びる大路で、土御門大路と呼ばれ、その名から内裏の名前になったと思われる。現在でも、平安京の名残が町名等に残っていて、上長者町通りの筋には、土御門町や元土御門町といった町名が残されている。
 更に路を南下ると、御池通りの手前の西側に「梅田雲浜邸址」と記された石標がある。雲浜は若狭小浜藩士で、後にペリーの来航に伴う幕府の開国政策を激しく批判する尊皇攘夷の先鋒であった。安政の大獄により捕縛され、江戸に送られ獄中で病死した。享年45歳であった。

 東洞院通り(ひがしのとういんどうり)は、北は丸太町から南は塩小路通りまでの路である。平安京の頃は東洞院大路、或は洞院東大路と呼ばれた大路で、現在の一条通りが北の基点であったようだ。また現在呼び名は「ひがしのとういん」になっているが、かつては「ひんがしのといん」と発音していたようである。洞院とは天皇が退位したあとの住居を意味するが、平安時代のこの道筋には、桓武天皇の皇子であった賀陽親王(かやしんのう)の住居である高陽院や、花山法皇の後院である花山院といった院。また宮中で行われる仏事・神事の供物や宴会の準備等を管理する機関であった大炊内裏や、太政大臣 二条良基の邸宅といった建物が構えられていた。鎌倉時代に入っても院御所等は存在していたが、姉小路付近を中心に武家が住居を構えるようになった。更に室町時代に入ると、南の下京地域では、酒屋や魚屋といった商家が進出してきた。また現在の五条通りから松原通りにかけて、京都唯一の遊里である傾城町が出現するようにもなった。その後、都を焼き尽くした応仁の乱によりこの路筋も荒廃した。現在は丸太町以北に東洞院通りは存在しないが、天正18年(1590)、豊臣秀吉による京都大改造計画で、この路は復活され、ほぼ現在の路幅の通りになった。江戸期に入ってもこの道筋は発展したが、現在の京都御苑の広さの皇居の再建・拡大が行われ、それに伴って丸太町以北の東洞院通りは消滅した。

 京都には小学校や発電所等、我が国で始めてのものが多く存在するが、我が国における盲唖教育も京都が始まりである。路を南に下り押小路通りを過ぎた東側に「日本最初盲唖院開学之地」と記された石標が立っている。明治6(1873)、時の上京区第十九組区長が、隣家の聾唖姉弟の教育を待賢小学校に依頼し、同8年、区内有志の賛助を得て、同校教師古河太四郎(18451965,初代校長)らが校内にそのための教場を開いたことに始まる。同112月より盲生教育も開始した。明治11(1878)5月、この地旧生糸改会所を仮校舎として盲唖院が開校された。翌年正式に府立学校となり、府庁前に移転した。大正14(1925)まで人件費以外はすべて寄附金に頼り、府市民や皇族の慈善により維持されたという。この石標は日本最初の盲唖院の跡を示すものである。また路を更に南に行き、三条通りと交差する北西角に「京都電信電話発祥の地」と記された石標が立っている。明治5(1872)明治政府は、既に行っていた郵便事業開始に続き、全国的な電信網敷設に着手した。京都ではこの地に西京(さいきょう)電信局を設置した。電話は明治10(1877)に輸入され、同21(1888)官営の方針を決定し、同23年公衆電話事業が始まった。同29(1896)京都電話交換局が設置され、翌305月に交換業務を開始した。この石標は京都における電信電話発祥地、西京電話局・京都電話交換局の跡を示すものである。

 高倉通り(たかくらとおり)は、北は丸太町通りから南は八条通りまでの路である。この路は平安京の頃は高倉小路と呼ばれていた。平安時代、この路の北域には桓武天皇の皇子の賀陽親王(かやしんのう)の邸宅である高陽院(かやいん)や花山法皇が住まいした花山院、大炊内理(おおいだいり)といった貴族の邸宅が建ち並んでいた。南域にも六条内理があったから、この路は「内理通り」といってもよい路であったようだ。安土桃山時代に入り、この道筋には酒屋、油屋等、或は土倉と呼ばれた当時の金融業者等が軒を連ねた。それらの業者は、「倉」を必要とするものが多く、通り名と何故か合致していた。しかしこの路も都を焼き尽くした応仁の乱以降は荒廃し、戦国時代に入ると当時は二条通を挟んで北が上京、南は下京に区分されていたが、下京地域での町を形成する東限の路となった。現在では想像が出来ないが、それより東側は田畑や荒地が広がる田舎であったと伝わっている。江戸時代に入ると、下立売通りから丸太町通りの間の道路が公家町・御所(現在の京都御苑)の拡大により消滅した。竹を原料にした扇骨屋や葛屋といった手工業者が軒を連ねたといわれている。

 路を南下すると御池通りの手前に「足利尊氏邸・等持寺跡」と記された石標が立っている。この地には足利尊氏が政務を行った三条坊門第があった。この建物は二条大路・三条坊門小路・万里小路・高倉小路に囲まれた南北250メートル、東西120メートルの土地を占めていたと考えられる。この地が室町幕府発祥の地といわれ、尊氏はこの地で没した。室町時代の政治・文化に大きな影響を及ぼした。室町今出川の花の御所に移転するまで、この地が足利幕府の中心であった。尊氏の死後、等持寺という寺院に改められ、足利氏の菩提寺として崇敬を集めた。応仁・文明の乱(146777)以降は衰退し、別院であった北野の等持院に合併された。この石標は等持寺の跡を示すものである。