壬生寺

壬生寺は京都では珍しい律宗(総本山は奈良・唐招提寺)寺院で、園城寺(三井寺)の僧快賢が、991年(正暦2年)に自身の母のために建立したとされる。
 壬生寺は通称で、正式な名称は寺号を宝憧三昧寺、院号を心浄光院という。本尊は地蔵菩薩
で、通称「壬生狂言」の名で知られる「大念仏狂言」を伝える寺として京都市民に親しまれている。
 
 そして何よりも新選組ゆかりの寺として広く知られている。
幕末の京都の治安維持を目的に活動した新選組(当初は壬生浪士組)は、その本拠を壬生村の八木家に置いた。そもそも新撰組は、文久31863)年2月、江戸から将軍警護の名目で上洛した浪士隊として京都に入った。
 浪士隊は文久22月、
出羽庄内出身の尊皇攘夷の志士、清河八郎の発案を松平上総介が幕府政治総裁の越前藩主・松平春獄に持ち込み、春獄の許可で実施されることになった幕府の傭兵集団である。しかし実のところ清河は、浪士隊を幕府の名を借りた尊王倒幕の兵としての構想を持っていたので、京都に着いたその夜に爆弾発言をする。その発言内容は、浪士隊は尊皇攘夷の先兵として、天皇に一身を捧げるべきというものであった。

これに反対したのが近藤勇や土方歳三と芹沢鴨らで、このまま江戸に引き返して攘夷の遂行を主張する清河に対して、近藤と芹沢らは京都残留を主張する。
 近藤らの主張は、朝廷から「攘夷決行」の命が将軍に下れば、幕府ごと攘夷となるので、それから行動を起こすべきとの考えであった。清河はその翌日、天皇に攘夷の建白書を奏上したうえで総勢2百人を引き連れて京都を去る。
 彼らと別れて京都に残ったのが近藤や土方の試衛館の仲間と、水戸派の浪士であった芹沢ら総勢13である。京都に残った近藤・芹沢らは、「将軍が京都に居るときだけでも、我々に何らかの役割を持たせて欲しい」と京都守護職・松平容保に嘆願し、「会津藩お預かり」の約束を取り付け、壬生浪士隊と称した後、ほどなくして新撰組を名乗るようになった。

新撰組の実質的な京都における活動は、約4年間の短期間であったが、彼らは鉄の結束の下、尊皇攘夷派や倒幕派の弾圧を行った。主だったものでも文久 3813日の大和屋焼き討ち、元治元年520日の大坂町奉行与力の内山彦次郎を殺害、元冶元年620日池田屋で長州新撰組の実質的な京都における活動は、約4年間の短期間であったが、彼らは鉄の結束の下、尊皇攘夷派や倒幕派の弾圧を行った。主だったものでも文久 3813日の大和屋焼き討ち、元治元年520日の大坂町奉行与力の内山彦次郎を殺害、元冶元年620日池田屋で長州藩士ら名を殺害(池田屋騒動)、慶応2912日三条大橋で土佐藩士を襲撃し2名を殺害、慶応3127日天満屋で海援隊と乱闘等がある。

 この他の新撰組についての逸話や史実は、小説やドラマで広く周知されているから、改めて述べないが、この集団の最も特筆すべきものは、近藤や土方を始め、ほとんどの隊員が農民、町人の出身者で、武士でもせいぜい郷士と呼ばれた下級武士あったことである。
 その意味では武士を頂点としたこの時代において、武士社会から何の恩恵も受けていない彼らが、武士社会の存続のために全身全霊を掛け、最も武士らしい生き方をしたということがある。確かにその底流には、正式な武士に取り立ててもらいたいという目的があったと思われるが、それだけでは説明が付かず、やはり時代の空気がそうさせたのかも知れない。
 境内には近藤勇の銅像や、新選組隊士の墓である壬生塚がある。壬生塚には新選組局長・近藤勇の胸像と遺髪塔、また新選組屯所で暗殺された隊士・芹沢鴨と平山五郎の墓、勘定方・河合耆三郎の墓の他、隊士7名の合祀墓がある。その合祀墓には池田屋騒動で亡くなった隊士・奥沢栄助、安藤早太郎、新田革左衛門らも併せて葬られている。

かつての壬生寺境内は新選組の兵法調練場に使われ、武芸や大砲の訓練が行われたという。また隊士にまつわる逸話も寺には数多く残っていて、剣豪で知られた一番隊長・沖田総司が境内で子供達を集めて遊んだとか、或は近藤勇をはじめ隊士が壬生狂言を観賞したこととか、新選組自身が相撲興行を壬生寺で企画して、寺の放生池の魚やすっぽんを採って料理し、力士に振る舞ったとか、面白い逸話が多く残っている。毎年716日には「新選組隊土等慰霊供養祭」がここで催される。

 

 


吉村寅太郎

木屋町三条上がる東側に、吉村寅太郎住居跡の石標に並んでその左に「武市瑞山先生寓居跡」と記された石標が立っている。武市瑞山は幕末の土佐藩の郷士で通称を半平太という。何よりも土佐勤皇党の盟主として、幕末にはその名を馳せたことで有名である。

郷士とは、この時代一般的には下級武士のことを指すが、農民階級の中でも、名字帯刀を許された人々も郷士と呼ばれた。特に土佐藩では武士階級内での身分制度が厳しく、上士と下士とに明確に区分されていた。上士は「家老、中老、馬廻組、小姓組、留守居組」で、下士は、「郷士、用人、徒士、足軽、小者」とされていた。

土佐でのこの身分制度が出来た経緯は、関が原の戦いで西軍に組みしていた土佐藩主・長宗我部家が滅び、変わりに東軍の山内一豊が藩主に就くが、山内家の家臣として土佐に来た武士団が上士となり、敗れた長宗我部家に仕えていた侍たちが下士となったのが主な理由である。

土佐藩に限らず他の藩でも上士と下士との身分制度はあったが、特に土佐藩においては厳しく、下士は住居も城郭に屋敷を持つことは出来ず、また下駄を履くことや衣服も木綿以外のものを着ることが禁じられていた。最たるものは上士が下士に対して無礼と感じた場合、問答無用で切り捨てることも出来たという極めて理不尽なことも存在していた。

上士と下士の中間の身分である白札と呼ばれた家に生まれた武市であったが、実際には下士と変わらない身分であったようだ。土佐勤皇党を作るに至った尊皇攘夷思想の中に、天皇の下では等しく臣下であるとの考えを見出し、虐げられてきた自らの身分への強い義憤の念を、晴らそうとしたようにも思われる。


 武市瑞山は文政12年、土佐藩郷士・武市正恒の長男として土佐の
吹井村に生まれた。武市家は、元々は数代続いた土着の豪農で、数代前に土佐藩・郷士に取り立てられた。幼少の頃から剣術において秀でた才能を発揮し、一刀流の剣術を学び、高知城下に転居の後には、小野一刀流の剣技を習得した。後に下級武士や郷士のための剣術道場を開き、ピーク時には弟子の数も100人を超える規模であったという。

安政3年、藩の許しを得て江戸に出て、当時江戸三大道場といわれた士学館道場で学び、鏡新明智流の免許皆伝を授けられ、その後帰郷した。勤皇思想に傾倒することになった経緯は安政6年(18592、時の大老・井伊直弼は、将軍・徳川家茂を将軍継嗣に決定させるが、一橋慶喜を将軍職に押していた土佐藩主・山内容堂らは、井伊により隠居謹慎を申し渡される。世にいう安政の大獄である。翌万延元年(186033日、開国政策を執った井伊が桜田門外の変で暗殺されるに伴い、土佐では下級武士を中心に尊皇攘夷思想が高まった。

その翌年の文久元年、以前より交際を持っていた攘夷派の招きで再び武市は江戸に出るが、その時に長州藩の桂小五郎や久坂玄瑞、高杉晋作、或は薩摩藩、水戸藩士ら急進的な攘夷派と交流する。特に久坂には心服したといわれ、土佐・薩摩・長州の3藩で各藩主を担ぎ、朝廷を押し立てて幕府に攘夷を迫ることを約した。その年の9月に帰郷した武市は、同士を募り土佐勤皇党を立ち上げた。この中には坂本龍馬や中岡慎太郎、吉村寅太郎といった、後に歴史に名を留める人々も含まれていた。

当時の土佐藩では、藩主・容堂の厚い信頼の基、参政・吉田東洋が藩政の中心にいた。東洋は開国と公武合体を持論とし、武市は東洋に勤皇と攘夷を進言するが退けられる。武市は藩論を転向すべく各方面に働きかけるが功を奏さず、武市はなおも東洋宅を訪問し、時勢を論じて勤王と攘夷を説くが、侮蔑の言葉と共に一蹴される。その当時の藩主・山内容堂を始め土佐藩の上層部は、関が原以後、徳川家康の取立てにより山内一豊が土佐一国を賜った歴史的経緯から、幕府への恩義を感じていたと推察される。

その後吉田東洋は、城からの帰宅途上で、土佐勤皇党と思われる数名により暗殺される。それにより東洋派は藩庁から一掃され、一時期武市の率いる尊攘派が藩政の主導権を握るが、藩主・容堂は、土佐勤王党の台頭に露骨に不快感を示し始めた。

他方、長州藩は、関門海峡を通過するアメリカ商船やフランス軍艦ら外国船に対して孝明天皇の勅命を理由に、攘夷を実行するが、米仏の軍艦が次々と下関に報復攻撃を行い、長州は惨敗した。これら諸外国の力を見せ付けられたことにより、急速に尊攘の機運は衰退していった。

尊攘派の情勢が急激に悪化する中、土佐勤皇党幹部に対する逮捕命令が出され、武市も投獄されることになる。吉田東洋の暗殺への嫌疑もかけられ、武市は否認するが、京都で捕縛された岡田以蔵が拷問により自白する。なおも武市は東洋暗殺を否認するが、藩主・容堂より「君主に対する不敬行為」という罪目で死罪を命ぜられる。

土佐勤皇党の岡田以蔵、久松喜代馬、村田忠三郎ら9名は死罪となり、上士格であった武市は切腹を許された。慶応元年(1865511日、南会所大広庭にて三文字の切腹を成し遂げ、武市は武士の気概を見せて絶命した。

維新後、山内容堂は、武市を殺してしまったことを何度も悔いていたと伝えられる。明治10年に名誉は回復され、正四位を寄贈された。
 新国劇を代表する作品であった「月形半平太」は、武市瑞山をモデルとして作られたものとされている。この石標は武市瑞山の京都による住居の跡を示すものである。

 

 両替町通り(りょうがえちょうどおり)は、北は丸太町通りから南は三条通りまでの短い路である。この通りが出来たのは天正18年(1590)とされ、平安時代の通り名でいえば烏丸小路と室町小路の間に造られた。通り名の両替町は、おそらく慶長末年以降から呼称され始めたと思われ、寛永14年(1637)以降の古地図には、しばしば「両替町」の記載が記述されている。この通りに住む町人の職種も、両替商を始め、針口屋(貨幣を計る天びんの製作・販売)、蒔絵屋等、金銀に関係する業者たちが軒を並べていたといわれる。

 

 この路は江戸時代には、日本の通貨・金融をつかさどる重要なストリートであった。北の基点となる丸太町通りを南下し、押小路通りを過ぎた西側に、「徳川時代金座遺址」と「徳川時代銀座遺址」と記された石標が少し離れて立っている。金座は江戸幕府の金貨(小判・一分判)鋳造所で、烏丸通の西、二条通と三条通間の両替町筋にあった。慶長年間(15961615)に、堺・大坂・伏見から金屋・金吹きをこの地に集めたことに始まる。幕府御用達商人筆頭の後藤庄三郎が金座の御用改係をつとめ、役所が置かれたと伝わる。寛政の改革(1800)以後は、京都での小判の鋳造は行われず、御所御用箔・京坂金職の取り締まりのみをするようになったという。明治元年には金座は廃止された。また銀座は江戸幕府の銀貨(丁銀・小玉銀)の鋳造所で、慶長6(1601)伏見につくられたのが最初で、同13(1608)伏見から京都の烏丸通の西、二条通と三条通間の両替町に移された。金座と同じく、寛政の改革(1800)以後、京都では銀貨幣の鋳造は行われず、銀道具・銀箔材料としての南鐐の売り渡しを行うのみとなり、明治元年(1868)に金座と同じく廃止された。この他にもこれらの石標は金・銀座の址を示すものである。

 

 「金座遺址」と「銀座遺址」の石標に挟まれたかたちで「二条殿址」記された石標が立っている。ここには南北朝時代太政大臣を務め、和歌連歌で著名な二条良基の屋敷があった。二条家は藤原氏北家の公家で、史上最後の関白を輩出した家系でもある。鎌倉時代から室町時代にかけて衰退するが、南北朝時代に北朝方のもとで良基が勢力を取り戻した。良基が造ったこの二条殿屋敷は、別名押小路屋敷とも呼ばれたが、邸内には龍躍池があり、その景観の美しさから皇族や織田信長が好んで使用した。後に正親町天皇皇太子誠仁親王に献上するが、天正10(1573)の本能寺の変の際には、信長の長男信忠がこの地で自害し、二条殿は焼失した。室町時代の洛中洛外図屏風にも描かれた瀟洒な建物であったようだが、現在はその痕跡はなにも存在していない。