土佐藩邸址

河原町通りから蛸薬師通りを東に入ると「土佐稲荷大社」の幟のある小さな祠がある。この神社は江戸時代には、土佐藩邸内にあった社で、土佐藩邸の無くなった址に社だけが残されたようである。更に通りを数メートル東に行くと、木屋町通りと交差する通蛸薬師橋のたもとに「土佐藩邸跡」の石標がある。関が原の合戦後、それまで土佐の藩主であった長宗我部に代わり、山之内一豊が藩主になって以来、土佐を差配してきた土佐藩の、京都における屋敷の跡である。

この地に藩邸が置かれたのは江戸時代の元禄年間と思われる。藩邸は藩における京都での出先事務所の機能を持ち、各種の連絡事務に当たった。最も藩邸の存在性がクローズアップされたのは幕末の動乱のときで、土佐藩が薩摩、長州と並んで幕末政局に重要な影響力を発揮する本拠地となった。武市(たけち)瑞山(ずいさん)、坂本龍馬、中岡慎太郎、後藤象二郎らの志士たちも頻繁にこの屋敷を出入りした。
 慶応31115日(18671210日)、坂本龍馬は中岡慎太郎とともに「近江屋」にて暗殺されたが、当時、近江屋と土佐藩邸との距離はなく、ほとんど隣接している位置関係であつた。いわば土佐藩邸と目と鼻の先で龍馬は殺害されたのである。龍馬にしてみれば、土佐藩邸のすぐそばの近江屋であったため、まさか襲われるとは思わず、かなり油断をしていたと推察される。現在、土佐藩邸の建物はなく、石標が立つのみである。

護国神社?

京都霊山護国神社は、東山の山懐に抱かれた静かな場所である。護国神社は明治の頃、明治維新前後から国家のために殉難した英霊を、各都道府県に祀った招魂社(しょうこんしゃ)を、当時の内務省命により、その府県の戦死者や殉職者を祀る神社として作られた。  

終戦後、護国神社は軍国主義施設と見なされ、存続を図るために名称から「護国神社」のを外された時期もあったが、サンフランシスコ平和条約を締結し、日本が独立を回復するとともに、元の社名に戻した。

京都霊山護国神社の歴史は、浄土宗の一派であった時宗(じしゅう)霊山派の正法寺の中の神道葬祭場霊明社により、古来よりの山岳信仰の神である菊理媛神(くくりひめのかみ)、速玉男命、事解男命の3神を有志者により祀ったのが始まりとされる。後の明治元年、明治天皇の意思により維新を目前に倒れた志士たちの鎮魂を目的として、京都東山・霊山の地に作られたのが京都霊山護国神社である。

作られた当初は、社号を「霊山官祭招魂社」と称し、国費で運営されていた。昭和に入り支那事変を契機に、京都府出身の戦没者を祀ろうとする気運が起き、境内を拡大して社殿を造成した。昭和14年、内部大臣布告により正式に京都霊山護国神社となったが、第二次世界大戦の敗戦により、米軍占領下では、「護国」の名前が削られ「京都神社」とされた時期もあった。しかしサンフランシスコ平和条約を締結した後は複名した。昭和45年(1970)、境内に幕末から明治維新にかけての資料を展示した「霊山歴史館」が開設され、勤皇の志士たちの遺品やゆかりの品、また彼らと敵対した新撰組の遺品や、手紙等も展示されるようになった。
護国神社? 境内の墓地には、志し半ばで倒れた勤皇の志士たちや、戊辰戦争での戦死者が各藩毎に整然と並んでいる。その中には三条木屋町の近江屋において刺客の手によって没した坂本龍馬と中岡慎太郎の墓が並んでいる他、薩長連合の一方の立役者木戸孝允(桂小五郎)、倒幕のきっかけを作ったとされ、吉野で挙兵した吉村虎太郎が率いる「天誅組」の墓、安政の大獄により獄死した国学者・「梅田雲浜(雲濱)(うめだうんぴん)」や頼三樹三郎(らいみきさぶろう)の墓、討幕論を広めた先駆者とされる平野国臣ひらのくにおみ)の墓等がある。

 

池田屋騒動址

 「池田屋騒動」は、幕末の元治元年6月5日、三条木屋町(三条小橋)の旅館池田屋に、新撰組が長州藩の尊皇攘夷派を襲撃した事件である。事の発端は、四条小橋上ル真町で炭薪商を装い、情報活動と武器調達にあたっていた長州藩間者の古高俊太郎を捕え、家から書簡や武器等が発見される。土方歳三らの拷問により、祇園祭の前の風の強い日を狙って京都御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王(後の久邇宮朝彦親王)を幽閉し、一橋慶喜(徳川慶喜)、会津の松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ連れ去るという計画を古高から自白させる。

更に山崎蒸ら新撰組の探索方により、尊王派が古高捕縛をうけて襲撃計画の実行、中止について協議する会合が、池田屋か四国屋に於いて行われる事を突き止める。新選組は会津藩、桑名藩等に応援を要請するが、両藩の動きは鈍く、一刻を争うと判断した近藤勇は、新撰組単独で乗り込むことを決め、捜索方を近藤隊と土方隊に分ける。

近藤隊は池田屋に向かい、土方隊は四国屋に向かう。池田屋で謀議中の尊攘過激派を発見した近藤隊は、近藤勇以下9名で斬り込み、真夜中の戦闘となる。池田屋襲撃当日の新撰組では、病人が多い等の理由で人手が少なかったが、一刻を争うとの近藤の判断から、四国屋に向かった土方隊の到着を待たずに、少人数で討ち入ったと思われる。

20数名の尊攘過激派に対し当初踏み込んだのは近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の4名で残りは屋外を固めたといわれる。屋内に踏み込んだ沖田総司は奮戦したが、肺結核による喀血で戦闘中に倒れ、戦線を離脱する。また藤堂平助も汗で鉢金がずれたところに太刀を浴びせられ、額を斬られ戦線離脱し、一時は近藤、永倉の2人となるが、土方隊の到着により、戦局は新選組に有利に傾き、9名を討ち取り、4名捕縛の戦果を上げた。
 この戦闘で数名の尊攘過激派は逃走したが、翌朝の市中掃討で会津、桑名藩らと連携し20余名を捕縛した。この掃討では、ところによっては激戦となり、会津藩は5名、彦根藩は4名、桑名藩は2名の死者を出したといわれる。
 

「池田屋騒動」で宮部鼎蔵(みやべていぞう)や吉田稔麿(よしだとしまろ)等の実力者を失った尊攘過激派は、大きな打撃を受けることとなる。長州藩内ではこの騒動の報復をとなえる強硬派が台頭し、京都市内の三分の一を消失した「禁門の変」へと発展した。

この功績で新撰組は、幕府より多大な報奨金を与えられたと伝わる。金額は600両で、参加した隊員には10両、近藤や土方は20両であったという。何よりもこの功績により、新撰組の存在が幕府に認められたことが、近藤ら隊士には、最大の喜びとあったと推察される。後年、この事件への見方の中に「明治維新が早まった」という説と「明治維新が遅れた」という説があるが、未だ結論に達するには至っていない。現在池田屋跡地には、石標が立っているのみで、当時を偲ばせるものは残っていない。