
「池田屋騒動」は、幕末の元治元年6月5日、三条木屋町(三条小橋)の旅館池田屋に、新撰組が長州藩の尊皇攘夷派を襲撃した事件である。事の発端は、四条小橋上ル真町で炭薪商を装い、情報活動と武器調達にあたっていた長州藩間者の古高俊太郎を捕え、家から書簡や武器等が発見される。土方歳三らの拷問により、祇園祭の前の風の強い日を狙って京都御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王(後の久邇宮朝彦親王)を幽閉し、一橋慶喜(徳川慶喜)、会津の松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ連れ去るという計画を古高から自白させる。
更に山崎蒸ら新撰組の探索方により、尊王派が古高捕縛をうけて襲撃計画の実行、中止について協議する会合が、池田屋か四国屋に於いて行われる事を突き止める。新選組は会津藩、桑名藩等に応援を要請するが、両藩の動きは鈍く、一刻を争うと判断した近藤勇は、新撰組単独で乗り込むことを決め、捜索方を近藤隊と土方隊に分ける。
近藤隊は池田屋に向かい、土方隊は四国屋に向かう。池田屋で謀議中の尊攘過激派を発見した近藤隊は、近藤勇以下9名で斬り込み、真夜中の戦闘となる。池田屋襲撃当日の新撰組では、病人が多い等の理由で人手が少なかったが、一刻を争うとの近藤の判断から、四国屋に向かった土方隊の到着を待たずに、少人数で討ち入ったと思われる。
20数名の尊攘過激派に対し当初踏み込んだのは近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の4名で残りは屋外を固めたといわれる。屋内に踏み込んだ沖田総司は奮戦したが、肺結核による喀血で戦闘中に倒れ、戦線を離脱する。また藤堂平助も汗で鉢金がずれたところに太刀を浴びせられ、額を斬られ戦線離脱し、一時は近藤、永倉の2人となるが、土方隊の到着により、戦局は新選組に有利に傾き、9名を討ち取り、4名捕縛の戦果を上げた。
この戦闘で数名の尊攘過激派は逃走したが、翌朝の市中掃討で会津、桑名藩らと連携し20余名を捕縛した。この掃討では、ところによっては激戦となり、会津藩は5名、彦根藩は4名、桑名藩は2名の死者を出したといわれる。
「池田屋騒動」で宮部鼎蔵(みやべていぞう)や吉田稔麿(よしだとしまろ)等の実力者を失った尊攘過激派は、大きな打撃を受けることとなる。長州藩内ではこの騒動の報復をとなえる強硬派が台頭し、京都市内の三分の一を消失した「禁門の変」へと発展した。
この功績で新撰組は、幕府より多大な報奨金を与えられたと伝わる。金額は600両で、参加した隊員には10両、近藤や土方は20両であったという。何よりもこの功績により、新撰組の存在が幕府に認められたことが、近藤ら隊士には、最大の喜びとあったと推察される。後年、この事件への見方の中に「明治維新が早まった」という説と「明治維新が遅れた」という説があるが、未だ結論に達するには至っていない。現在池田屋跡地には、石標が立っているのみで、当時を偲ばせるものは残っていない。