
八木邸は、京都市中京区の中心部よりやや西に位置する壬生寺のほとりに所在している。
今でこそ京都市であるが、幕末の頃は壬生村と呼ばれた都の近郊農村であった。
この壬生に所在する八木邸は幕末の頃、上洛する十四代将軍・徳川家茂の警護の為に組織された、清川八郎の発案による浪士隊の宿舎のひとつに使われた郷士・八木家の邸宅である。浪士隊はその後分裂し、京都守護職松平容保のお預かりとして京都に残った者が、新撰組と改称して八木邸を屯所とした。
八木家はその家伝によれば、祖を但馬の国(兵庫県養父郡朝倉の庄)に発し、鎌倉時代初期に、八木安高という人物を祖として起ったとされる。富士の裾野の狩場で、白い猪を射止めた功績により、源頼朝より家紋(三つ木瓜)を拝領したと云わる。以来十数代の後、現在の京都壬生村に居を構え、有力郷士として村の発展に寄与した。浪士隊が新撰組になってから、年月を経るに従って隊士の数が増え、やがて西本願寺に屯所を移すまでの三年間、八木邸は新撰組の主だった人達が宿舎として使用された。
八木邸は新撰組三大抗争のひとつ、局長・芹沢鴨と関係する四人の人が粛清の場となったことでも有名である。
芹沢鴨は、水戸藩上席郷士の家に生まれた。郷士というのは、農村に居住する名字帯刀を許された下級武士のことである。水戸藩では、藩の骨格としての思想である「水戸学」の影響から、幕末には尊皇攘夷の気運が高まった。芹沢もそれらの影響を受け、尊皇攘夷思想を掲げる水戸天狗党の前身である玉造党に参加し、横浜で攘夷を決行するために、豪農や豪商を対象に資金造りに奔走した。しかし天狗党を詐称して攘夷を口実とする恐喝が多発するに至り、幕府は水戸藩に対して攘夷論者の抑圧を指示し、藩も方針を転換する。それに伴って玉造党も弾圧を受け、ついには芹沢も献金強要の罪で入獄し、死罪を待つ身となる。しかし再度攘夷派が藩の主導権を奪い返したことから、死罪を免れ出牢した。
文久3年(1863)2月、庄内藩浪人・清河八郎発案の浪士隊に仲間数人と共に加わり、組頭に任命され、一隊と共に京都に向かった。京都に到着後は、近藤勇一派と共に八木邸に宿すが、清河が朝廷に攘夷の上奏文を提出し、浪士隊を朝廷の直属に置き、即刻江戸に戻るとの爆弾発言を発する。これに近藤、芹沢グループは反対を唱え、残留を決めるが、この時点で浪士隊は正式に分裂するのである。
近藤・芹沢らは、幕府擁護派の先鋭である会津藩主・松平容保に嘆願書を出し、「会津藩預かり」の身分を得て、「壬生浪士隊」を名乗った。その後も浪士隊内での主導権争いによる内部抗争は続き、一派を構成する殿内義雄の暗殺などを経て、近藤及び芹沢派が浪士隊を差配するに至り、新撰組となるのである。
やがて新撰組は、芹沢、近藤、新見が局長に就任し、なかでも芹沢は筆頭に就任する。新撰組もこの時期は、会津藩預かりとはいえ給金も少なく、大坂の豪商から資金の援助を受けたが、芹沢は脅迫まがいの資金調達を行ったとも伝わっている。
その後、芹沢の乱暴狼藉はとどまらず、自分に好意的でなかった芸妓の置屋に乗り込み、芸妓の髪を切った事件が発端となり、朝廷から芹沢の逮捕命令が出たことなどから会津藩は、近藤・土方らに芹沢を斬ることの密命を下すに至った。一説では、尊皇攘夷の思想の強い水戸学を学んだ芹沢を危険視したとの説もあるが定かになっていない。
文久3年3月16日、新撰組は島原・角屋で芸者総揚げの宴会を催した。芹沢は、一派の平山五郎と共に八木邸に戻り、妾であるお梅や馴染みの芸妓・吉栄らと再び宴会をし、宴席が終わると女たちと同衾し眠った。
その深夜、数人の男たちが芹沢の部屋に押し入り、同室の平山を殺害した。異変に気が付いた芹沢は、刀を取りそこね、真っ裸のまま当主・八木源之丞ら親子の寝ている隣室に飛び込むが、刺客によりずたずたに切られて絶命したといわれる。その際に同衾していたお梅も殺されるが、別室にいた平間は逃亡し、吉栄らも難を逃れたという。
隊内では、その実行犯は長州藩とされ、芹沢と平山の葬儀は、隊葬として盛大に行われたという。実行犯については、色々な説があって、定かになっていないが、土方歳三、沖田総司、山南敬助、原田左之助の説や、それに加えて藤堂平助の説もあるが、試衛館以来の近藤派の側近たちの犯行と考えるのが、無理がない説と思われる。いずれにしても、新撰組内における近藤派と芹沢派の主導権争いであったことは、違いない事実であろう。八木邸には、芹沢が殺された部屋の鴨居に、暗殺者が付けた刀傷が、今も残されている。
新撰組を語る際に、近藤・土方の側からみる場合が多いが、客観的にみて、新撰組における芹沢の功績は多大であったようだ。壬生残留初期の近藤一派は、片田舎から出てきた無名の剣客集団でしかなく、会津藩への嘆願書にしても、尊皇攘夷の浪士としての芹沢の名があったが故に、聞き届けられたものと思われる。
教養も豊かで、かっぷくの良い豪傑肌であったともいい、平素から、「尽忠報国の士芹沢鴨」と彫られた鉄扇を愛用していたと伝わっている。
新撰組が屯所とした当時の八木家の当主は、八木源之丞(1814~1903)であったが、京都の人々には、人斬集団の「壬生浪」と恐れられ、あまり評判が良くなかった新撰組の数少ない擁護者として、何かにつけて後ろ盾になったという。
源之丞の子息である為三郎が、作家の子母澤寛に父の遺談を伝え、それが基となって後年に「新撰組始末記」として世に出た。