室町通り(むろまちどおり)は、北は北山通りから、南は久世橋通りまでの長い路である。この路は平安京の室町小路にあたるが、何といっても、足利尊氏が開いた室町幕府の室町は、南北を貫くこの路に由来し、その名を歴史にとどめている。室町幕府の中心地であった室町第は、西は室町、東は烏丸、北は上立売、南は今出川までの南北に広い敷地であったようだ。

 室町通り今出川の東北角の理髪店の前に、「従是東北   足利将軍室町第址」記された石標が立っていて、唯一ここに花の御所と呼ばれた室町第があったことを示している。その名残として、この今出川より北の室町通りの町名は「築山北半町」と「築山南半町」というが、ここに花の御所の築山があったことを地名にとどめている。


 路を南下し、一条通りを越えれば西側に京都市立上京中学校が在り、その東門の向かいに「富岡鉄斎邸跡」と記された石標が立っている。富岡鉄斎は、明治・大正期の文人画家で、儒学者でもあった。鉄斎は、幕末の安政年間に京都の商家の次男として生まれ、幼少期には、幕末の勤皇の女流歌人で、陶芸家として名を馳せた大田垣蓮月と共に暮らし、蓮月や蓮月と繋がりのあった文化人たちとの交流を通じて、芸術や儒学のへの造詣を深めて行った。
 鉄斎は後年、文人画家と呼ばれるようになるが、文人画とは、自らの思想や人生観を絵に託すものといわれるものである。70歳を過ぎて描いた作品が多いのが特徴で、大正13年に90歳で没した。
 作品は、現在も広い分野で登用され、西陣舟橋に在る京菓子の老舗・鶴屋吉信の「柚餅」の掛け紙にも使われている。

 路を更に南下すると、下立売通りと交差する西南角の平安女学院の敷地内に、「旧二条城址」と記された石標が立っている。旧二条城とは、永禄12年(1569)、織田信長が15代将軍足利義昭の為に築城した城のことである。本能寺の変により織田信長亡き後は廃城になった。
 この城の築城当時、日本において布教活動をしていたポルトガルの宣教師のルイス・フロイトの記録によれば、永禄12年に着工し、常時1万5千人から2万5千人の人を投入し、わずか70日あまりでほぼ全容を整えたと伝えている。信長は、工期を短縮するための処置として、近郷の石仏・板碑・燈籠等を徴収したという。築城の方法にも、神仏を恐れない信長らしさがうかがえる。

 この城の広さは、北は下立売通りから南は丸太町通りまで。また東は烏丸通りから西は新町通りまでの広域であったと伝わっている。現在京都御苑蛤御門から右に入った所に、地下鉄烏丸線建設工事の際に発掘された、城の石垣が移築保存されている。


 この路のもうひとつの特徴は、西陣と並んで繊維関係の「いとへん」の街としての顔である。特に御池通りから四条通りにかけての路沿いには「むろまち」と呼ばれる呉服店が多く、今も京都を代表する呉服関係の店が軒を連ねている。この路は、京都の夏を彩る祇園祭の鉾町でもあり、祭りともなると、家宝である屏風などを軒先に並べ、通行する祭り客にお披露目をする。中には国宝級のものも在るといわれ、それを楽しみに祇園祭りに繰り出す市民も少なくない。


 桓武天皇が京都に都を築いて以来、皇城鎮護の神、鬼門の守り神、総地主の神として崇められ、今日でも建築関係等の方除祈願で有名な上賀茂神社のほとりの道を賀茂川に沿って行くと、鞍馬に至る街道に出会う。通称、鞍馬街道である。道を更に北に進むと、鞍馬集落の手前で街道は分岐する。道なりに進むと鞍馬に至るが左に道をとる。この道は、左京区貴船を経て右京区京北上黒田に至る、京都府道361号線上黒田貴船線である。
 貴船川に沿ったこの道を進んで行くと、やがて料理旅館が立ち並ぶ貴船に出る。貴船は、夏には貴船川のせせらぎを聞きながら、川魚料理等が楽しめる川床が有名である。貴船神社の奥の院を過ぎると、道幅は極端に狭くなり山道の感を呈してくる。

 道をさらに先に進むと、険しく蛇行を繰り返しながら車一台がようやく通れる急斜面に差し掛かる。樹齢500年もあろうかという直立した杉林を抜けると芹生峠に出会う。更に進むと急にあたりが開けて萱葺き屋根の民家がちらほらと見えてくる。標高700メートルに位置する京北芹生町(けいほくせりょうちょう)である。
 この里はあまりに雪深いため、冬は無人の里となる。夏でも3軒ほどが住まいしているだけであるが、こんな小さな里にも平成10年まで学校があった。今は跡地に創設者と思われる人の胸像がひっそりと佇んでいる。
 その奥に小さな祠がある。勢竜天満宮である。歌舞伎や人形浄瑠璃の演目として有名な「菅原伝授手習鑑」に登場する寺子屋の跡とされる。菅原道真(すがわらみちざね)の配流とゆかりの人達の悲劇を主に描かれたこの物語は、「義経千本桜」「仮名手本忠臣蔵」とともに、日本の三大名作と呼ばれる戯曲のひとつである。
 
物語のあらすじは平安時代、代々学者の家系に生まれた菅丞相(菅原道真)は、学問に優れ醍醐天皇の時に右大臣に抜擢されるが、異例の出世が藤原氏や学閥の反感を買い、藤原時平の策略によって大宰府に流罪となる。それを巡って菅家に仕える家柄に生まれた三つ子の兄弟、梅王丸、松王丸、桜丸が活躍し、それぞれが数奇な運命をたどりつつ、その功もあって、やがて時を経て菅公が天神として祀られるまでの物語である。
 
物語に登場する芹生は、洛北大原にも同じ地名の里があり、そこが正しいという説がある。また物語そのものがフィクションともいわれているが、真実はともかくとして、寺子屋跡である勢竜天満宮の前の灰屋川には、「寺子屋橋」と呼ばれる小さな橋がかかっている。

 今もって草深い当地に立つと、史実はともあれ、今にも劇中の人物が現れそうな不思議な感覚を覚える。芹生で道は分岐しているが、道なりにたどれば右京区京北黒田に至り、東に延びる道をたどると、洛北花背に至る。
 北黒田には京北の名刹常勝皇寺がある。ここは桜の名所として有名で、八重と一重の花が同じ木に咲く「御車返しの桜」や、天然記念物で樹齢500年を数える「九重桜の古木」がある。桜の季節ともなると、遠くは関東からも見学客が絶えないという。また東へ延びる道をたどれば京都市最北の集落・花脊の別所に出る。
 灰屋川のせせらぎの中、しんしんとした空気に抱かれつつ、茅葺屋根から立ち昇る煙を見ていると、人の世の喧騒をしばし忘れ、清楚な心持にさせてくれる。芹生は、凡人もそんな感慨へと誘ってくれる、森閑とした風情の山里である。




八木邸?

八木邸は、京都市中京区の中心部よりやや西に位置する壬生寺のほとりに所在している。
今でこそ京都市であるが、幕末の頃は壬生村と呼ばれた都の近郊農村であった。
 この壬生に所在する八木邸は幕末の頃、上洛する十四代将軍・徳川家茂の警護の為に組織された、清川八郎の発案による浪士隊の宿舎のひとつに使われた郷士・八木家の邸宅である。浪士隊はその後分裂し、京都守護職松平容保のお預かりとして京都に残った者が、新撰組と改称して八木邸を屯所とした。

八木家はその家伝によれば、祖を但馬の国(兵庫県養父郡朝倉の庄)に発し、鎌倉時代初期に、八木安高という人物を祖として起ったとされる。富士の裾野の狩場で、白い猪を射止めた功績により、源頼朝より家紋(三つ木瓜)を拝領したと云わる。以来十数代の後、現在の京都壬生村に居を構え、有力郷士として村の発展に寄与した。浪士隊が新撰組になってから、年月を経るに従って隊士の数が増え、やがて西本願寺に屯所を移すまでの三年間、八木邸は新撰組の主だった人達が宿舎として使用された。

八木邸は新撰組三大抗争のひとつ、局長・芹沢鴨と関係する四人の人が粛清の場となったことでも有名である。

芹沢鴨は、水戸藩上席郷士の家に生まれた。郷士というのは、農村に居住する名字帯刀を許された下級武士のことである。水戸藩では、藩の骨格としての思想である「水戸学」の影響から、幕末には尊皇攘夷の気運が高まった。芹沢もそれらの影響を受け、尊皇攘夷思想を掲げる水戸天狗党の前身である玉造党に参加し、横浜で攘夷を決行するために、豪農や豪商を対象に資金造りに奔走した。しかし天狗党を詐称して攘夷を口実とする恐喝が多発するに至り、幕府は水戸藩に対して攘夷論者の抑圧を指示し、藩も方針を転換する。それに伴って玉造党も弾圧を受け、ついには芹沢も献金強要の罪で入獄し、死罪を待つ身となる。しかし再度攘夷派が藩の主導権を奪い返したことから、死罪を免れ出牢した。
 
 文久3(1863)2月、庄内藩浪人・清河八郎発案の浪士隊に仲間数人と共に加わり、組頭に任命され、一隊と共に京都に向かった。
京都に到着後は、近藤勇一派と共に八木邸に宿すが、清河が朝廷に攘夷の上奏文を提出し、浪士隊を朝廷の直属に置き、即刻江戸に戻るとの爆弾発言を発する。これに近藤、芹沢グループは反対を唱え、残留を決めるが、この時点で浪士隊は正式に分裂するのである。

近藤・芹沢らは、幕府擁護派の先鋭である会津藩主・松平容保に嘆願書を出し、「会津藩預かり」の身分を得て、「壬生浪士隊」を名乗った。その後も浪士隊内での主導権争いによる内部抗争は続き、一派を構成する殿内義雄の暗殺などを経て、近藤及び芹沢派が浪士隊を差配するに至り、新撰組となるのである。

やがて新撰組は、芹沢、近藤、新見が局長に就任し、なかでも芹沢は筆頭に就任する。新撰組もこの時期は、会津藩預かりとはいえ給金も少なく、大坂の豪商から資金の援助を受けたが、芹沢は脅迫まがいの資金調達を行ったとも伝わっている。

その後、芹沢の乱暴狼藉はとどまらず、自分に好意的でなかった芸妓の置屋に乗り込み、芸妓の髪を切った事件が発端となり、朝廷から芹沢の逮捕命令が出たことなどから会津藩は、近藤・土方らに芹沢を斬ることの密命を下すに至った。一説では、尊皇攘夷の思想の強い水戸学を学んだ芹沢を危険視したとの説もあるが定かになっていない。八木邸?

 

文久3316日、新撰組は島原・角屋で芸者総揚げの宴会を催した。芹沢は、一派の平山五郎と共に八木邸に戻り、妾であるお梅や馴染みの芸妓・吉栄らと再び宴会をし、宴席が終わると女たちと同衾し眠った。

その深夜、数人の男たちが芹沢の部屋に押し入り、同室の平山を殺害した。異変に気が付いた芹沢は、刀を取りそこね、真っ裸のまま当主・八木源之丞ら親子の寝ている隣室に飛び込むが、刺客によりずたずたに切られて絶命したといわれる。その際に同衾していたお梅も殺されるが、別室にいた平間は逃亡し、吉栄らも難を逃れたという。

隊内では、その実行犯は長州藩とされ、芹沢と平山の葬儀は、隊葬として盛大に行われたという。実行犯については、色々な説があって、定かになっていないが、土方歳三、沖田総司、山南敬助、原田左之助の説や、それに加えて藤堂平助の説もあるが、試衛館以来の近藤派の側近たちの犯行と考えるのが、無理がない説と思われる。いずれにしても、新撰組内における近藤派と芹沢派の主導権争いであったことは、違いない事実であろう。八木邸には、芹沢が殺された部屋の鴨居に、暗殺者が付けた刀傷が、今も残されている。

新撰組を語る際に、近藤・土方の側からみる場合が多いが、客観的にみて、新撰組における芹沢の功績は多大であったようだ。壬生残留初期の近藤一派は、片田舎から出てきた無名の剣客集団でしかなく、会津藩への嘆願書にしても、尊皇攘夷の浪士としての芹沢の名があったが故に、聞き届けられたものと思われる。

教養も豊かで、かっぷくの良い豪傑肌であったともいい、平素から、「尽忠報国の士芹沢鴨」と彫られた鉄扇を愛用していたと伝わっている。


新撰組が屯所とした当時の八木家の当主は、八木源之丞(18141903)であったが、京都の人々には、人斬集団の「壬生浪」と恐れられ、あまり評判が良くなかった新撰組の数少ない擁護者として、何かにつけて後ろ盾になったという。

源之丞の子息である為三郎が、作家の子母澤寛に父の遺談を伝え、それが基となって後年に「新撰組始末記」として世に出た。