八坂の塔 俗に「八坂の塔」とよばれる塔を有する法観寺は、東山の麓にある古刹である。創建については諸説あるが、ひとつは平安京造営の以前より、この界隈に住んだという朝鮮半島からの渡来人、八坂氏の氏神であったという説が有力とされている。またもうひとつの説は、聖徳太子の夢まくらに立った如意輪観音(にょいりんかんのん)のお告げにより、太子が仏舎利を収めて、法観寺と号したという説である。いずれにしても創建の時期は奈良時代と思われるが、寺の創建当初は、延喜式七ケ寺の一つで、大坂の四天王寺式の大伽藍を構える壮大な境内を持つ寺院であったと伝承されている。時の変遷を経て、現在の境内はあまり広くなく、塔以外に目立った建物はない。何度も火災で焼失したが、その度ごとに再建されてきたようで、現在の塔は、室町幕府第六代将軍・足利義教により再建されたものとされている。また寺の宗派は、臨済宗建仁寺派に属する禅宗寺院である。

 京都には塔を有する寺院が、この塔の他に、高さ55mを誇る東寺の五輪塔があるが、ここ法観寺の塔の高さは、それに次ぐ高さ49mのものである。この塔の特徴は、初層から四層までに高欄がなく五層にだけある。足利義教により建設された現在の塔の建物を受けている心礎は、創建当初の飛鳥時代ものであるといわれている。初層内部には大日如来を中心に五智如来像が安置されている。他の堂塔には、太子堂、薬師堂、茶室などがある。また太子堂には、聖徳太子の3歳と16歳の像があり、薬師堂には本尊の薬師如来、日光菩薩、月光菩薩、夢見地蔵、さらに十二神将像が安置されている。その他には境内に、旭将軍と呼ばれ、源義経に破れて大津で果てた、木曽義仲の首塚と伝承される石塔がある。       
 八坂の塔は、東山界隈のランドマークとして、また京都市内を背景にした夕刻の塔のシルエットは、多くの旅雑誌の表紙を飾るほど、ポピュラーな存在となっている。塔の二階まで公開されているため、そこからは京都市内が一望することが出来る。
 平家物語の巻四に記述されている源頼政による「鵺退治(ぬえたいじ)の伝説」は、二条城の北に位置する二条公園の中の一角に、「鵺池」としてみることができる。この池は、頼政が鵺を退治した時に、血の付いた矢尻を洗った池といわれる。しかし現在の池は、その伝説にちなみ、京都市によって再現されたものである。では洗ったあと、矢尻は何処へ行ったのかといえば、頼政が鵺退治成就のお礼に奉納したとかで、四条烏丸の南東、東洞院の綾小路東入ルの神明神社の中に、残されているという鵺伝説?
  この源頼政による鵺退治の伝説は二度あり、一度目の話は平安時代の後期、まだ禁裏御所が、現在の千本丸太町付近に在った平安時代の中期、時の天皇である近衛天皇が、ひどくうなされる夜が続いていたある日の丑の刻、警護の者が鳥とも獣とも判らぬ奇妙な音を聞き、東三条の森から黒雲がわき出て、清涼殿の上を覆い尽くす光景をみる。それを聞いた天皇は、武勇で名の知れた源頼政に、その原因をつかみ、得体の知れぬ怪物を退散させるように命じる。
 頼政は神明神社に成就の祈願を行い、清涼殿を覆う黒雲の中で動く影に向かって、「南無八幡大菩薩」と念じ矢を放つと、奇怪な声をあげ、頭は猿、胴体は狸、尻尾は蛇、手足は虎という奇妙な妖怪が庭先に落ちてきたといわれる。また二度目は後年の二条天皇の頃、天皇をおびえさせた怪鳥を、またしても頼政が退治したといわれる。
鵺伝説?
 この場所には、元禄年間から幕末まで、京都所司代屋敷が置かれていた。明治維新になって獄舎となるが、更に後年、獄舎が山科に移転された際に、跡地から池の跡が出土した。二条公園の北隣り、NHK京都放送局の脇に、この伝説にゆかりの「鵺大明神」の祠がある。いつの頃に出来た祠かは分らないが、妖怪すらも祀ってしまう都人の懐の深さを感じる。
 伝説の世界の話で真実のほどは定かでないが、後年には能や歌舞伎、そして浄瑠璃の題材にされるほど私たち日本人にとって、印象深い伝説であったようだ。

長楽館東山の麓、円山公園の南にルネサンス様式の洋館がある。明治の時代「煙草王」と呼ばれた実業家・村井吉兵衛が国内外の賓客をもてなす迎賓館として建設された邸宅「長楽館」である。現在はホテルとそれに併設したレストランとして使用されているが、この明治を彷彿させる瀟洒な建物は、この界隈の名物として、京都市民や観光客に愛され京都市の指定有形文化財に指定されている。
 「長楽館」は、アメリカの建築家ジェームズ・マクドナルド・ガーディナー(18571925)によって設計された。カーデイナーは、我が国の建築技術の普及に多大に貢献した人物であるが、平安女学院の礼拝堂である聖アグネス教会(京都市指定有形文化財)、愛知県犬山市にある聖ヨハネ教会堂(国指定重要文化財)、や他にも数多くの教会や邸宅を設計している。

明治の煙草王・村井吉兵衛は元治元年(1864)に、京都の煙草商の次男として生まれた。その後9歳で叔父の養子となり行商を始めた。当時の煙草といえば、きざみ葉をキセルで吸うものであったが、吉兵衛は行商で得た資金をもとに一冊の洋書を手に入れ煙草の研究に踏み出した。そして明治24年(1891)日本初の両切り煙草を製造し、「サンライス」と名づけて発売した。続いて発売した「ヒーロー」は年間生産量日本一の大ヒットとなった。
 一方でキセルの吸い口付き煙草「天狗」を販売していた岩谷松平氏と激しく競ったが、早くから米国等への見聞を広げていた吉兵衛は、ハイカラなデザインで岩谷氏を圧倒した。しかし皮肉なことに彼の見事な手腕が、煙草の専売化を急がせた。
 時の政府はやがて勃発する日清・日露の戦いの戦費調達のため、それまで民間事業であつた煙草産業を国家による専売制に切り替えた。
 その後、吉兵衛は莫大な保証金を元に、村井銀行、東洋印刷、日本石鹸、村井カタン糸などの会社を設立し財閥を形成するが、昭和の恐慌によりその多くが破綻した。
 今も村井吉兵衛の煙草工場の建物が東山馬町にあるが、レンガ造りの建物で、煙草王と呼ばれた当時の彼の隆盛を偲ばせている。