京都の水運を語る上で、角倉了以(すみのくらりょうい)を無くしては語れない。角倉家は代々、室町幕府に仕える医者の家系であったが、了以の祖父の宗忠が、商人(あきんど)の手腕を発揮して帯座(帯を独占的に販売する組合)の座頭職を手に入れ、その資金をもとに土倉業(金融業)を営むようになる。また、宗忠の次男・宗桂(了以の父)は、土倉業を引き継ぐ傍ら、天文年間に2度も明に渡り、中国の先進医術を学んだ開明派の人物でもあった。 角倉家は、茶屋四郎次郎の「茶屋家」、後藤庄三郎の「後藤家」とともに「京の三長者」といわれる権勢を誇ったが、他の2家が徳川家康に接近することで急成長したのに対し、角倉家はその以前より成功していた商人であったところが異なっている。宗桂が海外に目を向けたこの頃の世界は、大航海時代を迎えようとしていた。
了以は、父親から諸外国の経済事情などを聞かされ、家長となった18歳のときには既に海外貿易がもたらす莫大な利益に着目するようになったと思われる。世界に目を向けた了以は、徳川家康によって確立された「御朱印船貿易」で、後に莫大な資産を築くことになる。
「御朱印船貿易」とは、日本を出港する商人らの船に海外渡航を許可する朱印状を与え、貿易を行うものである。この朱印状を与えられた船を朱印船といい、出港地・帰港地ともにほとんどが長崎であった。渡航先は、中国南部・インドシナ半島など東南アジア全域に渡り、我が国からの輸出品は、銀・銅・鉄等。また輸入品は、生糸・絹織物・砂糖・鮫皮・鹿皮等であった。
角倉了以と京都のかかわりについては、御朱印船貿易を通じて、工芸品をはじめとする京都の産品が海外に輸出されていったことが挙げられる。これに伴って物資を運ぶための保津川や高瀬川等の河川の建設が必要となった。まず了以が手を付けたのが、家康が江戸幕府を開いて3年後の慶長11年、京都の西を流れる保津川(大堰川)開掘の願書を出し、30数キロ上流から嵯峨までの舟運に関する権利を得た。そして、開削を始めて6カ月後には竣工させている。
保津峡の開削の成功によって搬送船が嵯峨に着き、大堰川開削により丹波地方の農作物は旧倍して運ばれはじめ、嵯峨近辺は商人の往来が多くなり発展したと記録されている。大堰川の開削後、水運を担う舟夫たちの居住地を、大雄寺の荒れ地を開拓して作った。現在でも、嵯峨角倉町の地名にその名を留めている。
了以にとってもうひとつの大開削事業は、高瀬川の開削である。この川は江戸時代初期、角倉了以・素庵父子によって開削され、京都の中心部と伏見港を結んだ10.5キロメートルの運河であった。伏見からは淀川を通じて大坂に通じ、さらに西国航路と結ばれていた。多くの日常貨物の上り下りに加えて人々が移動したため、高瀬川流域の開発はめざましく、近世京都の町づくりと、経済的発展に大いに寄与した。
二条木屋町の高瀬川のほとりにある「角倉了以屋敷跡」は、この川の開削に寄与した了以が住まいした場所で、慶長19年(1714)7月12日、了以はこの地で没した。墓は京都洛西嵯峨の「二尊院」に所在している。

