大極殿跡 上京区千本通り丸太町を北に少し上り、西に入ると、旧漢字で「大極殿跡地」と記された石碑のある小さな公園と出会う。
 その昔、ここには「大極殿」が置かれていた。大極殿とは、朝廷が政治をつかさどる場所であると共に、天皇の在所である大内裏が置かれていた場所である。
現在の京都御所は、ここよりも約2kメートル程東に位置しているが、平安京創生時は、このあたりが都の中心部であった。
 現在石碑のある場所には、朝堂院(ちょうどういん)の正殿大極殿があった。朝堂院とは、政治の中心である大極殿を正殿とする建物群で、天皇の即位礼や外国使節の謁見など、国家の重要儀式に用いられる場所である。朝堂院の正門は応天門と呼ばれ、左右両翼に栖鳳楼、翔鸞楼の両楼閣をしたがえており、華麗さと荘厳さを誇っていたという。
 大極殿は、朝堂院の正殿であるとともに平安宮の正殿になるが、古代国家においては、政治の中心部であり最重要な建造物であった。建物の規模は東西177尺(約53メートル)、南北70尺(約21メートル)であったと推定されている。また大内裏そのものの規模は、東西は現在の堀川通りのやや西から七本松通付近まで、また南北は一条通付近から二条通付近までの広大なもので、周りを廻廊が巡らされ、四方に14の門が作られていた。

桓武天皇の造営した第一次大極殿は、貞観18年(876)に作られたが、その後2度の火災で消滅と再建を果たすがが、治承元年(1177)の「安元の大火(太郎焼亡)」によって三度焼失した後は、ついに大極殿が再建されることはなかった。

明治28年に平安遷都1100年を記念して創建された「平安神宮」の拝殿は、この大極殿を模写して作られた建物である。

知恩院  恩院は、京都市東山区丸山公園の北に隣接する浄土宗の本山である。正しくは華頂山知恩教院大谷寺(かちょうざん ちおんきょういんおおたにでら)という。知恩院は、浄土宗の宗祖・法然房源空(法然上人)が開いた寺院として有名であるが、法然がこの地付近に営んだ草庵をその起源としている。
 法然は、平時代末期の長承2年(1133)、美作国(現在の岡山県)久米南条稲岡庄、押領使・漆間時国の長子として生れた。幼名を勢至丸といい、9歳のとき時国の館が夜襲されるが、時国は死に際に勢至丸に「恨みをはらすのに恨みをもってするならば、人の世に恨みのなくなるときはない。恨みを超えた広い心を持って、すべての人が救われる仏の道を求めよ」との遺言を残す。この言葉に従い、勢至丸は13歳で比叡山に登り、天台
の学問を学び、15歳で僧・源光のもとで得度(出家)する。
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歳で比叡山・西塔黒谷の叡空に師事し、師であった源光と叡空の名前の1字ずつを取って法然坊源空と改名する。その後、43歳の時「専修念仏」の思想に開眼し、浄土宗の開宗を決意して比叡山を下りる。「専修念仏」とは、いかなる人間も、一心に弥陀(阿弥陀如来)の名を唱え続ければ、極楽往生できるとする教えである。この教えは、天台宗をはじめとする旧仏教側から激しく迫害を受け、法然は建永2年(1207)に讃岐国(香川県)に流罪となり、4年後の建暦元年(1211年)には都に戻るが、翌年の1月、80歳で没した。
 
法然は流罪となった晩年の数年間を除き、浄土宗を開宗する43歳から生涯を閉じた80歳までの長きにわたり、浄土宗布教を行ったが、布教の本拠地としたのが現在の知恩院付近にあり、当時の地名を取って「吉水御坊」或は「大谷禅坊」などと称されていた。
 
その後この地に法然の廟が造られ、弟子たちによって守られていたが、嘉禄3年(1227)、延暦寺の衆徒によって破壊されてしまう。文暦元年(1234)、法然の弟子にあたる勢観坊源智が再興し、四条天皇から「華頂山知恩教院大谷寺」の寺号を下賜される。その後も永享3年(1431)の火災や応仁の乱などで焼失するが、その都度再興されている。

 知恩院の境内は、上・中・下段によって成されている。下段に属するのは三門や塔頭寺院、中段に属するのは本堂(御影堂)など中心伽藍、また上段に属するのは開創当初の寺域である。三門と本堂は国宝に指定され、経堂、大鐘楼、小方丈、勢至堂は重要文化財に指定されている。
 その他にも「知恩院の七不思議」と呼ばれるものがあり、御影堂から大方丈・小方丈への廊下で、歩くと鶯の鳴き声に似た音がするため「鶯張りの廊下」と呼ばれる廊下がある。また
三門楼上には二つの白木の棺があり、その中には三門造営の命を請け、三門完成後に工事の予算が超過したため、責任をとって自刃した大工の棟梁五味金右衛門夫婦の自作の木像が納められている。一般的によく知られているのが、御影堂正面軒下にある、左甚五郎が魔除けに置いたと伝えられる「左甚五郎の忘れ傘」であるが、この傘は、知恩院を火災から守っているとされている。その他にも大方丈の菊の間の襖絵で狩野信政が描いたとされる「抜け雀」。狩野信政筆の猫の絵で、どちらから見ても見る人の方を正面からにらんでいるので「三方正面真向の猫」と呼ばれる絵。長さ2.5m・重さ約30kgの大杓子で、阿弥陀仏の大慈悲ですべての人が救いとられるという一切衆生救済を表したという「大杓子」。知恩院が建立される前からあるとされる大きな石で、一夜にしてこの石から蔓が延びて花が咲き、瓜が実ったと伝わる「瓜生石(うりゅうせき)」などがある。
東寺 東寺は、平安京を開いた桓武天皇の命により、羅生門の東に作られた官寺である。官寺とは、国家の監督の下に、経済的な保障を受けた寺院のことである。この寺の他に、羅生門の西には西寺が同時に作られ、それぞれ平安京の左京と右京を守る王城鎮護の寺であり、また東国と西国とを守る国家鎮護の寺という意味合いを持った寺院であった。西寺はその後寂れ、今では東寺の西約300メートルの地点に礎石のみを残している。
東寺の創建については、東寺の記録書である「東宝記」に、延暦15年(796)、時の造寺長官であった藤原伊勢人(ふじわらのいせんど)が創建したと記されている。しかしこの人物については不明な点が多く、実在そのものが定かになっていないこともあって、今もって確かなところは判明していない。東寺が明確な歴史に現れるのは、弘仁14年(823)、真言宗の宗祖である空海(弘法大師)が、嵯峨天皇から東寺を賜り、国家鎮護と真言密教の根本道場になった時からである。その時から東寺は、国家的仏教寺院として、歴史に登場した。東寺?

 空海(弘法大師)は、最澄(伝教大師)とともに、それまでの奈良仏教から平安仏教に転換をもたらした主要人物である。他方、中国から真言密教をもたらした功績を持ち、また我が国の仏教の発展を語る上で欠かせない人物である。
 生国は讃岐の国、現在の香川県多度郡
(たどのごおり)とされ、生年は奈良時代後期の宝亀子5年、土地の豪族・佐伯直田公(さえきあたいたぎみ)の子として生まれ、佐伯真魚(さえきまお)と命名されたといわれている。
 
仏教への造詣を深める中で、19才の頃に修行の道に入り、各地で修行を積んでいた空海が、今の高知県室戸市付近での修行の途上で悟りを開いたと伝わる。悟りをひらいたときに、空と海しか目にしていなかったため、その後「空海」と名乗ったともいわれている。
 
延暦23年(804)に留学僧として唐に渡るが、その当時は、何らの評価もない無名の学僧であったという。唐の長安でインドの僧であった般若三蔵から、仏教を学ぶ上で不可欠な凡字(サンスクリット語)を学び、その後、密教の重鎮から数々の教えを受ける。その学問の研鑽が認められ、密教の正統な継承者として最高の称号である阿闍梨(あじゃり)が与えられた。大同元年(806)に帰国するが、空海が持ち帰ったものは曼荼羅を始め、祖師図、密教法具、阿闍梨付属物等々膨大なものであった。

 
 帰国した空海は高雄山寺(後の神護寺)に入る。その後弘仁7年(816)、真言密教の修禅道場として高野山を下賜された。空海が持ち帰ったものは真言密教関係の物のみならず、当時最新であった中国の治水技術やかんがい技術を我が国にもたらした。
  弘仁14年(823)、太政官符により東寺を賜り、真言密教の道場にすると共に、それまでは貴族階級の特権であった学問を、庶民にも門戸を開いた画期的な学校である芸種智院(しゅげいしゅちいん)」を開設する。その後も数々の功績を積み承和(じょうわ、しょうわ)元年(835)に没した。没後である後年の延喜21年(921)、後醍醐天皇により弘法大師の諡号(しごう)を贈られる。諡号とは生前の事績への評価に基づく名号のことである。
 東寺の伽藍は、金堂(国宝)・講堂(重文)・食堂(じきどう)・五重塔(国宝)・御影堂(国宝)・灌頂院(重文)・宝蔵(重文)・八幡宮・南大門(重文) ・小子房 から成る壮大なものである。その他にも国宝に指定されている曼陀羅などの絵画類や彫刻、工芸品まで国宝級が目白押しで、世界遺産にも指定されている。