八坂神社?              
 「祇園さん」の名で、京都市民に親しまれている八坂神社は、素戔嗚尊(すさのうのみこと)を祭神として全国で約2300社の末社を持つ総本社である。社伝によれば、656年頃、高句麗より来日した調進副使・伊利之使主(いりしおみ)が、新羅の牛頭山に祀られる素戔嗚尊を山城国愛宕郡八坂郷(現在の北区、左京区あたり)に祀り、斉明天皇より「八坂造」の姓を賜ったのに始まるという。しかし他にも諸説あり、そのひとつの説としては、貞観18年(876年)に僧・円如が播磨国広峯の神仏習合の神である牛頭天王(ごずてんのう)の分霊を遷し、その後、藤原基経が精舎を建立して観慶寺(別名祇園寺)と称したのを始まりとしている。
最も
有力な説として、この地域を支配していた渡来系の氏族であった八坂氏が菩提寺にしたのを、後に神仏習合を経て神社になったという説である。いずれにしてもこの時代、この地域は比叡山延暦寺の支配が強く、最初は神社ではなく、寺院としての色が濃かったようである。
平安時代中期に入ると、次第に神社としての形態を成してきたようで、東山地域界隈の産土神(うぶすなかみ)として信仰されるようになったと思われる。産土神とは、それぞれの人の生まれた土地には、そこを領有、守護する神が居るとの考え方で、現在の氏神に転化されていった原型と考えられる。しかし氏神が、氏子という血縁集団を基にして成立しているのに対して、産土神は、地縁集団としての信仰意識に基づいて成立した産子の概念を持つもので、産土神と氏神は、別の性格を持っていたとの節もある。
いずれにしてもこの時代、
京都では同族集団の結合が薄れ、地縁意識が起こると共に、中世には稲荷神社、御霊神社、賀茂神社、北野神社などの有力な神社を中心に産土神を基にした産子区域の観念が発達した。後世、産土詣でが一般化し、生まれた子の初詣をはじめ、成年式、七五三等に産土詣でをする風習が生まれ、現在に至っているものと思われる。
明治元年の神仏分離令(廃仏毀釈運動)により、元々「祇園社」「祇園感 神院」と呼ばれていたのを「八坂神社」と正式に改められた。

八坂神社の大きな特徴は、多くの神が祀られていることである。本殿は三つに分かれていて中座には素戔嗚尊(すさのうのみこと)、東座には櫛稲田姫命(くしなだひめ)、西座には八柱御子神(やはしらみこがみ)と呼ば八坂神社? れる神が祀られている。本殿の他にも三つの摂社と、春日大社や日吉大社を始めとする全国三十余りの神社の末社が在り、神道におけるあらゆる神が祀られ、まさに神様のオンパレードの感がある。
建物は、切妻造の楼門(2階建て門)を始め、「祇園造」と言われる本殿、本殿南側の正面入口に立つ石鳥居が、建築物としての重要文化財に指定されている。その他にも約2200通にも及ぶ八坂神社文書が、美術工芸品として重要文化財に指定されている。

八坂神社は、日本の三大祭のひとつである「祇園祭」でも有名である。71日の切符入りから始まるこの祇園祭は、1ヶ月を通じて神事が行われる長い祭りである。祭りの起こりは、平安時代の後期に、疫病が流行り多くの人が亡くなったが、貞観11(869)、この疫病の退散を祈願して全国66国に因んで66本の矛を立て、御輿三基を奉じて御霊会を行ったのが起こりとされている。御霊会とは平安時代、天変地異はすべて御霊の所業と考えられ、御霊に対する儀礼を行なうことで、死者の魂を鎮め、平穏の訪れを願ったものである。
 元々は八坂神社は、産土神(うぶすなかみ)信仰から始まり、後に京都の氏神のひとつになったが、氏子地域が広いのも大きな特徴である。しかし今では、氏子だけの祭りではなく、京都市民全体の、或は我が国を代表する祭りとして定着しているようである。716日の宵山と、17日の山鉾巡行が祭りのハイライトで、全国から多くの人が訪れて、祭りを楽しんでいる。

北野神社[1]  北野天満宮は、平安時代初期の学者であり貴族であった菅原道真が、無実の罪とされる流罪により、配流先の大宰府で没した後の天暦元年(947)、時の朝廷により道真を祀る社殿を造ったのが始まりとされている。
 菅原道真は、承和12(845)に、参議であり学者であった菅原是善の三男として生まれた。幼少の頃から学問に才を見せ、18歳で律令制度の国家公務員試験の科目のひとつ「進士」の試験に合格し、23歳でさらに上級の「秀才」に合格して文章博士となる。以後、その才を遺憾なく発揮して、醍醐天皇の時には55歳で右大臣に上り詰めた。しかし道真の異例の出世が、時の権力の中枢を占めていた藤原氏を脅かすところとなり、藤原時平の讒言によって失脚し、九州大宰府に配流された。

 都を去るに際して、「東風吹かば にほひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」と詠んだ歌は有名であるが、その道真の愛した梅が、あるじを慕って一夜にして京都から太宰府に飛んできたという飛び梅の伝説まで生まれた。
 道真が大宰府で没した頃から都では天変地異が続出し、まず道真を讒北野神社[2] 言した藤原時平が39歳で急死する。巷では疫病がはやり、農村部では日照りのため作物が出来ず、飢饉が生じた。道真が没した20年後には、醍醐天皇の皇太子が死亡、次の皇太子も数年後に亡くなる等、都の人々は、この全てが道真の祟りとして恐れた。更に延長8(930)には、紫宸殿に落雷があり、死傷者が多数出た。
 我が国では古来より、怨霊は雷と結びつけられることが多かった。北野天満宮の在る北野の地には、古くより農作物に雨の恵みをもたらす火雷天神という地主神が祀られていたが、それが道真の怨霊と合体したものといわれる。そこで怨霊の怒りを鎮めるため、天暦元年(947)
に、この地に北野天満宮が創祀されたのである。
 考えてみれば、失脚させた上に流刑にまでしておきながら、今度は神として奉るところは、我々日本人のご都合主義的な感は否めないが、我が国では奈良時代以降、御霊が疫病などさまざまな災害をもたらすと考える風潮が盛んであった。
そのため御霊を神に祀り上げて、その怒りを鎮めようとして生まれたのが御霊信仰であり、北野天満宮も、そのような信仰思想から始まったものである。

菅原道真が学問の神となった理由は、祟りを成していた御霊としての力が静まると共に、天神様を慈悲の神、正直の神として崇める風潮が生まれた。やがて怖さが薄れると共に人々の関心は、詩歌、学問に優れた道真の人物や業績といった面に向くようになり、現在の学問の神としての道真像が確立されていった。今では入学試験のシーズンともなれば、多くの願掛かけに訪れる受験生で、境内は大いに賑わう。また北野天満宮は梅の名所としても有名であるが、境内には2千本の梅ノ木があり、道真の命日である225日には梅花祭が、道真を偲んで盛大に行われる。
 天正15101日、関白・豊臣秀吉が行った北野大茶会では、北野天満宮の境内に、町人、百姓を問わず、釜一つ、釣瓶一つ、呑物一つ、茶道具が無い物は替わりになる物でもいいので持参して参加することとした茶会で、大いに賑わったと記録されている。

                                              竹露ようかん  
 祇園祭も始まり、いよいよ京都にも本格的な夏がやってきた。
夏の京都には、美味しいものが沢山あるが、先斗町駿河屋が販売する「竹流しようかん 竹露」は、その中でも夏の京銘菓の代表格であろう。
 筍の産地、京都・西山で採れた竹筒の底にキリで穴を開けると、中から水ようかんがつるんと顔を
竹露?]のぞかせ、まさに近隣を流れる京都の夏の風情である鴨川のせせらぎを思わせる。
 先斗町駿河屋は、京都の五花街のひとつ、先斗町に位置していることから、近隣にはお茶屋や置屋が多く、舞妓さんや芸妓さんが店頭にお菓子を求めに
来る姿は、特に珍しくもない。
 夏の京都の代表菓子先斗町駿河屋の「京の水ようかん 竹露」を、是非一度ご賞味されることをお奨めする。