桂川[1] 桂川は、賀茂川と並び京都を代表する川であるが、その源流は、左京区広河原と南丹市美山町との中間に位置する佐々里峠に発している。その後、左京区花背を南下して花背南部で流れは大きく西に変えて、右京区京北を縦断し、南丹市日吉を経て亀岡盆地に入る。更に保津峡を東南に流れ、やがて名勝・嵐山に至る。その先は伏見区で鴨川と合流し、大阪府との堺である淀で、宇治川、木津川と合流し淀川となり、大阪湾に注ぐのである。
 桂川は、佐々里峠の源流から嵐山まで140キロ、大阪湾までは約200キロの長い流れの川であるが、この川のもうひとつの大きな特徴として、通過する地域によって名前を変えて行くことである。源流から右京区京北までは上桂川、南丹市園部町に入ると桂川、南丹市八木町から亀岡市にかけては大堰川(おおいがわ)、亀岡市保津町請田から京都市嵐山までは保津川となり、嵐山の渡月橋から再び桂川と次々と名前を変えて流れて行く。

この川にゆかりの人物といえば、角倉了以が挙げられる。角倉了以は、安土桃山時代の後期に京都嵯峨で医師の家系に生まれた。若くから海外貿易に目をむけ、現在のベトナムである安南貿易で富を築く。江戸時代に入り、丹波地方の農産物を始めとする物品の輸送のため、保津川(大堰川)地域の約30キロの開墾を、徳川幕府に誓願し、数年後に完成をみた。これによりこの地域の船運は飛躍的に発展し、了以も船運の権利を独占することで、更に富を蓄積した。船運の発展に伴い船夫を定住させることになるが、止宿を嵯峨・弘源寺に定め、後に荒地を開墾して、そこを定住地と定めた。現在の右京区嵯峨角倉町の地名に、その歴史をとどめている。白鷺[1]

 角倉了以以前よりこの川の船運の歴史は古く、長岡京に都があったころから行なわれていたという。特に中世では、大阪城の築城や伏見桃山城の造営には、丹波の豊富で質の良い木材が、筏を組んで多く運ばれたという。現在の保津川は、亀岡から嵐山までの16キロの流れを下る「保津川下り」で有名である。保津川渓谷には迫り来る巨岩をはじめ、緑に映える山々、しぶきを上げる早瀬、そして鏡のような淵等、変化に富んだ景観が、船客の目を楽しませている。

 渡月橋[1] この川の流域の主役は、やはり嵐山であろう。本来嵐山は、桂川の右岸を指し、左岸は嵯峨になるが、観光案内等の便宜上、渡月橋付近を中心に、全体を包めて嵐山と呼んでいる。現在、国の史跡・名勝に指定されているが、桜や紅葉の名所としても有名で、平安時代には貴族たちの別荘地になっていた
 渡月橋のほとりに「琴きき橋跡」記された小さな石碑がある。あまり目立たないので、見過ごしてしまう程である。「琴きき橋」の逸話は、、平家全盛の頃、碩学として知られた信西入道を祖父に持つ小督(こごう)の局は、平清盛の甥である藤原隆房に見初められた後、高倉天皇の寵愛を得ける。しかし、そのことを知った清盛の怒りをかい、難を逃れるために嵯峨に身を隠すが、高倉天皇の命を受けた弾正少弼仲国が琴琴きき橋 の音を頼りに小督を見つけ出し、宮中に連れ戻す。再び天皇の寵を得、皇女を生むが、清盛の目を逃れることは出来ず、尼にされて宮中を追われてしまう、という悲しい話である。この石標は、高倉天皇の命を受けた仲国が、彼女の琴の音を頼りに居所を尋ね当てたという場所で、その当時、川は行く筋にも分かれていて、ここには小さな橋が在り、琴の音を聴いた のに因んで誰が呼ぶでもなく、琴きき橋と呼ぶようになったという。

川を南下すると松尾橋に差しかかるが、この橋の西岸には、お酒の神様として有名な松尾大社がある。この神社は、この地域一帯を本拠地としていた渡来系の豪族である秦氏の秦忌寸都理(はたのいみきとり)が、時の天皇の勅命により、社殿をしたのが始まりとされている。何故、お酒の神として崇められているかといえば、秦氏が酒の製法を、我が国に最初に持ち込んだためと思われる。秦氏は、他にも織物技術を我が国にもたらしたことで有名であるが、松尾橋から北東方向一帯を太秦(うずまさ)と呼ぶが、その地名に秦氏の影響力をとどめている。松尾大社の社殿の木組みは、独特の工法で組まれていて、現在の建築技術にも影響を与えたといわれている。他には伏見稲荷神宮も、秦氏の創建と思われ、古代国家におけるこの一族の京都への影響力は、かなり大きかったようである。
更に川を下ると西京区桂に至る。ここには17世紀造られた桂離宮が在る。この離宮は、現在宮内庁が管理している皇室の所有物である。7ヘクタールの敷地の中には、入母屋造(いりもやづくり)の 古書院、中書院、新御殿を中心として、庭園には、桂川の水を引いた池や、茶屋、築山、州浜、橋、石灯篭などを配されている。

また桂離宮は、観月をテーマとして造られているため、古書院の縁側から更に張り出した竹簀子(すのこ)は、「月見台」と呼ばれ、名月の時には、幻幽な世界になるそうである。

 この跡桂川の流れは更に南下し、やがて淀川となって大阪湾に注ぎ、200キロの長い水の旅は、完結する。

 鴨川[1] 現在の京都市の水道水は、琵琶湖から取水した水で賄っているが、明治の頃、この計画が発表されたとき、反対の声の中に、滋賀県の水を京都盆地へ流しこむと、鴨川の水が変質して京美人が台なしになる、という珍論があった。京女は、鴨川の水で洗うから色白なのだと、昔からいわれているが、京都に住む年配の人たちは、それが気がかりだったようである。この人たちは何も琵琶湖の水が悪いといっているわけではなく、他国から水がはいると、京都の水の特性が失われはしないかと、真剣に心配をしたようだ。当時の人達はそれほど京都の水に誇りをもっていたのと同時に、後の世に良き水を渡そうとする、京都人の心意気を伝える逸話のひとつである。

その京都を代表する川といえば、京都の中心部を南北に貫く鴨川を挙げる人が多い。鴨川(賀茂川)は、源流となる複数の川が合流したものであるが、本流とされているのは、北区雲ヶ畑の桟敷ヶ岳東部の谷を源とする祖父谷川と、桟敷ヶ岳南部の薬師峠を源とする岩屋川が合流した雲ヶ畑川である。またもうひとつの流れは、右京区の芹生峠を源とする貴船川と、左京区の花脊峠を源とする鞍馬川が貴船口で合流し、その鞍馬川が西賀茂付近で賀茂川に流れ込んでいる。
 京都市北区雲ケ畑中畑町に出会い橋という橋があるが、賀茂川の源流である雲ケ畑川が、橋の下で左岸に中津川を迎え、合流してここから始めて賀茂川と名が付く。そして一級河川・鴨川の行政上の起点でもある。川幅も、ここから徐々に広がってゆくが、雲ケ畑を出た川は北区上賀茂地区に入ると流れは、蛇行しながら南へ向かう。また賀茂川は、出町柳で高野川と合流するが、合流後は「鴨川」となる。更に流れは南区上鳥羽付近で桂川に合流し、淀付近で淀川となり大阪湾に注いでいる。
 
賀茂川は、古来より氾濫を繰り返す暴れ川とされ、平安末期に権勢を誇った後白河法皇も、意にならないものとして「賀茂川の水の流れ」を上げている。平安の昔より幾度となく氾濫を繰り返す中で、昭和10年の水害では死傷者83名を出した他、三条大橋や五条大橋が流失し、甚大な被害をもたらした。これを契機に河川改修事業が行なわれ、昭和22年に完成をみる。これにより河道が掘り下げられた他、落差数十cmの堰を多く持つ現在の姿になった。

 賀茂川が川としての形を整える賀茂地域は、古来には、人生の無常を説いた古典の名著「方丈記」を記した賀茂長明を輩出した賀茂氏が本拠地とし、上賀茂神社・下鴨神社はその氏神を祀っている。上賀茂神社は、正式には賀茂別雷神社(かもいかづちのおおかみ)という。
 
社伝によると、桓武天皇の頃に都が京都に遷されて以来、皇城鎮護の神、鬼門の守り神、総地主の神として崇められ、現在では方除祈願のご利益があるということで、建築関係の人を中心に、多くの人が参詣に訪れている。また出町柳付近に在る下鴨川[3] 鴨神社は、天平の頃に上賀茂神社より分置された社と考えられて、両社をもって一社のような扱いをされてきている。
 毎年515日に行なわれる「葵祭」は、上賀茂、下鴨両神社の祭で、別名「賀茂祭」とも呼ばれている。葵祭の始まりは、今から約1400年前の欽明天皇の567年、国内は風雨がはげしく、五穀が実らなかったので、当時賀茂の大神の崇敬者であった、伊吉の若日子(わかひこ)に占わせたところ、賀茂の神々の祟りであるというので、若日子は勅命により、4月の吉日に祭礼を行い、馬には鈴をかけ、人は猪頭(ししがしら)をかぶって駆競(かけくらべ)をしたところ、風雨はおさまり、五穀は豊かに実って国民も安泰になったという。
 この祭の特徴は、平安時代装束そのままの勅使、検非違使、内蔵使、山城使、牛車、風流傘、斎王代などで列をつくる。本来は勅使が主役であるが、近年は斎王代に注目が集まり、京都市在住の若き女性の中から選出されている。
 京都御所を出発した列は総勢500余名、馬36頭、牛4頭、牛車2台、輿1台の風雅な王朝行列が、遠く東山や北山の峰々を眺望しながら下鴨神社へ、さらに上賀茂神社へ向かい、往来の人々の目を楽しませてくれる優雅な祭である。

 出町柳で高野川と合流して賀茂川から鴨川に変わった流れは、京都の中心部に入り、京都盆地を南北に貫いて行く。特に三条大橋から五条大橋にかけては、歴史に度々登場する史実や逸話が多いのが特徴である。その三条大橋は、三条通りに架かる橋で、東海道五十三次の出発点でもある。橋が出来た時代は定かでないが、豊臣秀吉による京都大改造計画時に、石柱の強固な橋が架けられたと考えられる。また橋下は刑場として歴史上の人物が処刑された。主だった人物としては、関が原で敗れた石田光成が徳川家康の命により斬首、石川五右衛門が豊臣秀吉の命により釜茹での刑に、幕末には土佐勤皇党の、「人斬り以蔵」と呼ばれた岡田以蔵や、新撰組の近藤勇が、その首が晒された等、多くの鴨川[2] 人々が河原の露となった。
 また四条大橋は、四条通が八坂神社の参詣路であったため、平安時代の頃から存在していたと思われる。

四条大橋は、鴨川の氾濫により、度々架け替えられた経緯を持つが、現在の橋は、昭和17年に架けられたものである。
また四条大橋は、歌舞伎の創始者とされている「出雲の阿国」が始めて歌舞伎の興行を行なったことでも有名である。三条大橋と四条大橋の間には、夏ともなれば鴨川西岸の料亭や飲食店が「川床」を出し、京都の夏の風物詩になっている。

神泉苑{4]  神泉苑は、二条城の南に位置する神仏習合の真言宗の寺院である。元は平安京造成時、千本丸太町付近にあった大内裏に接した、天皇のための庭園である禁苑と呼ばれるものであった。現在の神泉苑は、敷地約400坪余りであるが、作られた当時の規模は、東西約500メートル、南北250メートルの池を中心にした大庭園で、園内には、大池、泉、小川、小山、森林などの自然を取り込んだ大規模な庭園が造られ、敷地の北部には乾臨閣と呼ばれる主殿を中心に、右閣、左閣、西釣台、東釣台、滝殿、後殿などの建物を伴った、壮大な宮殿であったといわれている。
地下鉄東西線の工事に伴う発掘調査で、それを裏付けるものとして、庭園の詳細な痕跡が発掘された。おそらく平安時代には苑池での管弦の宴などが開かれ、貴族たちが水面に船を浮かべて遊んだものと推察される。
神和泉苑[1] 三方山に囲まれた京都盆地は、地下水が豊富で、京都北東部の山間から浸み込んだ清水が伏流水となり、盆地のどこも水に恵まれ、特に南西地域は沼地が多く、神泉苑も、その名残のひとつと思われる。最近の調査で、京都盆地の下には、琵琶湖の水量に匹敵する巨大な水がめ構造になっていることが判明しているが、神泉苑は、水によって成り立ってきた京都盆地を、ある意味で象徴しているのかも知れない。

正面鳥居(御池通)を潜ると左手側に本堂があり、この本堂前の灯籠に「弘法大師」の名が見られる。言い伝えによる神泉苑と弘法大師空海との関係は、平安初期の天長元年(824)の大干ばつの折、天皇の勅命により東寺の空海(弘法大師)と西寺の守敏(しゅびん)との祈雨の法力競い合いが行われた。結果は空海が勝ち、以降神泉苑は東寺の影響下に入ることとなり、負けた西寺は荒廃の一途をたどったとのことである。この話しには続きがあり、
合戦に敗れた守敏は空海をねたみ、待ち伏せして矢を放ったところ、黒衣の僧が身代わりとなってその矢を受け、空海は難を逃れた。その黒衣の僧は、実はお地蔵様で、いつしか矢取地蔵と呼ばれるようになったといい、その地蔵を祀る堂が東寺南門から九条通を西へ徒歩5分ほどのところにある市バス「羅城門」停留所前にある。伝承のこ神和泉苑[2] となので、本当のところは定かではないが、いずれにしても神泉苑には、古来より水を司る竜神が住んでいるとされ、干ばつの際にはここで頻繁に雨乞いの儀式が行なわれことは事実のようである。
またここは源義経と静御前が出会った場所としての伝承がある。後白河法皇の命で、百人の白拍子が雨乞いの舞を奉納したが、その時のひとりが静御前であったという。法王と同席していた義経が、静の姿を見て見初めたというのである。ちなみにその舞の後、にわかに曇り、大雨が降ったと伝えられている。その他にも神泉苑は、祇園祭とも縁が深いといわれている。貞観5年に疫病が流行り、御霊を鎮めるために御霊会が行なわれ、全国の国の数である66本の鉾を立てて、神泉苑の池にくりこみ、八坂神社の御輿を迎えて厄払いをした。これが祇園祭の始まり考えられている。