現在の京都市街地の北限の通りは「北山通」であるが、その昔、平安京造成時の京都の北限の通りは「一条通」であり、この路から南が都とされた。ここから南が、都の中という意味の洛中であり、その外は洛外とされたのである。
現在の一条通の西の端は地図で見ると、妙心寺北門付近までと思われ、東の端は烏丸通りである。平安京造成時は、「一条大路」とよばれ、中世から江戸期にかけては「一条の辻」ともよばれていた。この路筋には、歴史に因んだ遺跡や逸話が多く、京都の特徴である平安時代から幕末までの時代が堆積している、象徴的な路である。
一条通の東の基点になる烏丸一条の北西角には、「和菓子司・とらや」と染められた暖簾が悠然と風にたなびいている。「とらや」といえばほとんどの人が東京赤坂の店を思い浮かべるが、元々はここが本来の地で、明治の東京遷都のときに天皇と共に東京に行き、東京赤坂にも出店を出したという訳である。
現在は赤坂が本店になっているようだが、「とらや」に限らず京都の街を歩けば、和菓子屋さんの暖簾や看板に「御菓子司」という文字を目にすることがある。この「御菓子司」というのは、禁裏御所に出入りを許された者のみが許された菓子屋の商号であったという。少し余談になるが、「とらや」といえば羊羹が有名であるが、その中に「夜の梅」という商品がある。正真正銘の「とらや」の商標登録商品であるが、この商標の製品は全国の和菓子屋の店頭に溢れているという。その理由は、「とらや」の「夜の梅」が余りにも有名であったため、それにあやかろうとのことで、こぞって羊羹に「夜の梅」と名付けた。その結果、全国津々浦々の菓子店の店先は「夜の梅」だらけになったのである。当然ながら商標法違反であるが、数が多いだけに問題にすれば収集が付かないこともあり、「とらや」はそれを打ち捨てているようである。これも老舗の懐の深さなのかも知れない。今では羊羹の代名詞にもなった「とらや」の「夜の梅」、お値段も良いがやはり逸品である。
一条通を西に行けば、小川通りから西は道幅がそれまでの倍ほどに広がる。その理由は昭和30年年代まで小川通りには川が流れ、流れは一条通に沿って90度西に流れを変え「一条戻り橋」付近で堀川と合流していた。一条通を流れていた川も今では埋め立てられ、その分路幅が広くなったということである。この川の正式名称は知らなかったが、小川通りに沿って流れていたから、その名も小川だったのかも知れない。筆者が小学生の頃の昭和30年代、この小川の川幅は、2メートル程であったのが、一条通りからは急に川幅は広くなり、5メートル程あったように記憶している。その当時は、西陣に近い関係で、小川通り界隈には染屋が多く、川の色が毎日変化していたことを思い出す。
一条通を更に西に行くと、北側に小さな小路がある。路といえるほどの幅はなく、どちらかといえば京都によくある路地を思わせる路である。その入口付近に道標があり、その側面には「小町通」と「小野小町雙紙(そうし)洗水遺跡」の文字が刻まれている。道標は小さく気を付けていなければ見過ごしてしまうほどである。この通りには次のような逸話が残されている。
平安時代の六歌仙の一人であった小野小町(おののこまち)と大伴黒主(おおとものくろぬし)が、歌を競うことになった。以前から小町の名声を妬んでいた黒主は、小町邸で歌を盗み聞き、万葉集の草紙に書く。そうして歌を競う歌合せの席でその草紙を見せ、小町の歌を盗作だという。黒主の計略を知った小町は、草紙を井戸で洗う。そうすると黒主が書き加えた文字が洗われ、小町は自らの歌であることと、身の潔白を証明するという話である。
その逸話の井戸がここにあったという。またその井戸から湧き出でた水は、京の名水のひとつとされた「清和水」と呼ばれていたという。現在では正確な井戸の位置はわからないが、こんな小さな路にも歴史が存在するのが京都なのだろう。
また小町通を挟んだ西側に「諸侯屋敷・一条下り松遺跡」という小さな石碑がある。これは豊臣秀吉が天正14(1586)年に造成した「聚楽第(じゅらくだい)」近くである当地に、秀吉家臣の諸侯たちが、この界わいに邸宅を構えていたという碑である。
その名残として現在の近辺の町名にも、黒田如水に因む如水町(じょすいちょう)、加藤清正に因む主計町(しゅけいちょう)、黒田長政に因む甲斐守町(かいのもりちょう)などの地名に、その歴史を留めている。またこの付近は、宮本武蔵(みやもとむさし)との決闘で名高い吉岡一門の道場があったとされる。その裏庭に松があり、「下がり松の決闘」が行われた場所とされる「一乗寺下り松(いちじょうじさがりまつ)」は、この「一条下り松」が誤って伝えられたものという説があるが、本当のところは定かではない。
小町通りの更に西に50メートルほど行くと、堀川に架かる小さな橋に出会う。「一条戻り橋」である。この橋には様々な伝説が伝わっているが、「戻り橋」という名前の由来については、平安後期の作者不明の説話集「選集妙(せんじゅうしょう)」で、次のような内容で記述されている。
延喜18年(918年)、著名な漢学者であった三次清行(みよしきよゆき)の葬列がこの橋にさしかかった際、父の急をきいて急ぎ帰った熊野で修行中のその子浄蔵(じょうぞう)が棺にすがって天に祈ると、雷鳴とともに父清行は蘇生し、父子は喜びあったというのである。黄泉の国から現世に戻った、そんな逸話から戻り橋の名が付いたといわれている。
また「平家物語」では、武勇を誇った摂津源氏の源頼光(みなもとのよりみつ)の家来で、頼光四天王の筆頭である渡辺綱(わたなべのつな)が、夜更けに「戻り橋」のたもとを通ると美しい娘がおり、夜も更けて恐ろしいので家まで送ってほしいと頼まれる。綱は夜更けに女性ひとりでいることをいぶかしく思いつつも自分の馬に乗せる。すると娘はたちまち鬼に姿を変え綱の髪の毛を掴み、愛宕山の方向に飛んでいこうとする。綱は鬼の腕を切り落とし、かろうじて逃げる。切り取った鬼の腕は摂津の国の綱の屋敷に置かれていたが、綱の義母に化けた鬼に取り戻される。
この他にも戻り橋は橋の上で占う「橋占い」の名所でもあったようだ。「源平盛衰記」第十巻に「橋占い」の記述があるという。高倉天皇の中宮であった平清盛(たいらのきよもり)の娘、健礼門院徳子(けんれいもんいんとくこ)の出産がこじれ、健礼門院の母である二位の尼が、橋の東詰めに車を立て占いを問うたという。すると十二人の童子が現れて手を打ちながら橋を渡り、「君の床、八重の波路はなよせ床」と歌ったという。生まれた皇子は後の安徳天皇で、西海で亡くなられることが、すでにこの歌で予言されていたという。この十二人の童子とは、陰陽師(おんみょうし)の安部晴明(あべのせいめい)が橋の下に封じておいた十二神将の化身であろうといわれる。その安部晴明を祀る「清明神社」は、一条戻り橋から堀川通を北に100メートルほどのところにある。
平安京造成時には、この橋を堺として洛中と洛外を分ける橋でもあったようだ。また戻り橋はこの名前から、嫁入り前の女性や縁談に関わる人々は嫁が出戻ってはいけないとの理由から、この橋に近づかなかったという。逆に第二次世界大戦に召集された兵士とその家族は、無事の帰還を願ってこの橋を渡りにきたという。一条戻り橋はこのような庶民のささやかな願いもこもった橋なのである。
路は更に西に伸びているが、戻り橋を過ぎ堀川通を渡ると、ここから西陣となる。この界わいから七本松通りまでは道幅は極端に狭く、西陣独特の低い軒端の家が連なってくる。繊維業界の不況などで、最盛期よりも織物業者は減ったようであるが、今もって芸術品とでもいうべき製品が、この界わいの家々から今も生まれている。
千本通りを過ぎ更に一条を西に行くと御前通りと出会う。ここから西大路にかけて商店街が広がっている。最近この商店街は面白いことをしていて、ちょっとした話題になっている。この商店街が「妖怪ストリート」という打ち出しをしているのである。
古来より鬼(妖怪)が徒党を組んで徘徊することを百鬼夜行(ひゃっきやこう)というが、その昔一条通がその妖怪たちの通り道であったというのである。それにちなんでそのような打ち出しをしているようだ。
この商店街以外にも近隣に北野白梅町に駅を持つ京福電鉄や、京都市なども巻き込んで「京都妖怪まちづくり実行委員会」なるものが出来ているようである。確かに京都は古い街であるから、色々な人々の怨念や魑魅魍魎(ちみもうりょう)が徘徊していても不思議ではないような気がする。多分商店街の若い人達が中心になって取り組んでいると思われるが、通常は忌み嫌うものを取り上げて町興しをするのもウイットがあって面白い。