天使突抜通り(てんしつきぬけどおり)は、仏光寺通りから木津屋橋通りまでの短い路である。天使の名を冠する奇妙な名を持つこの路は、キリスト教のエンジャルのことではなく、下京区西洞院通松原下るにある五条天神社が、かつては「天使の社と呼ばれたことに由来している。京都の今昔をつづった「京都坊目誌」によると、「元五条天神社の境内を貫通し、新たにこの街を開く」とあるが、五条天神社を突き抜けて開設された路の由来を示している。

現在の五条天神社は、本殿、拝殿、社務所があり、駐車場にもなっていて、さほど大きな神社ではないが、平安遷都のとき、弘法大師が大和宇陀郡より天神(あまつかみ)を勧請したのが起こりと伝わっている。また鴨川の氾濫の源とされた水神、雷神を鎮め、疫病を防ぐ御霊社としてとの役割も担っていたようである。

また有名な御伽草子である牛若丸と弁慶との出会いの地が、五条大橋とされているが、実はそうではなく、五条天神社なのであるという説がある。叡山西塔の武蔵坊弁慶は太刀千振りを奪いとる悲願を立て、洛中に出没し、九百九十九振を奪い取り、今夜はその最後の一振というときに当って五条の天神社に詣で「今夜の御利益(りやく)によき太刀を与え賜え」と祈念する。その頃洛中には丈(たけ)一丈ばかりの天狗法師が出歩いて、太刀を奪うという噂があった。そのために夜は人通りも途絶え、猫の子一匹見当らない。弁慶はいつまで待っても天神へ参る人が来そうもないので、明け方近くなった頃、堀川を南に向って歩み始めた。すると気持ちよさそうに笛を吹きながら近づいてくる者がある。年若き男であるが、白い直垂(ひたたれ)に胸板を白くした腹巻を着用し、腰には黄金造の立派な太刀を佩いている。これを見た弁慶はよき獲物御参なれとばかり、その前に立ちはだかり「ここを通りたくばその太刀を置いて行け」と大喝した。相手は一向に驚きもせず「欲しくば取ってみよ」という。この歳若き男は、言わずと知れた源義経の幼少期の牛若丸であるが、以下は弁慶が、牛若丸のあまりの強さにひれ伏し、家来になることを請うという、お馴染みの御伽草子の話に続くのである。この話しには更に別の説もあり、平安時代この路の東隣の西洞院通りには西洞院川が流れていて、その川に架かる橋で出会ったとの説もある。

 小川通り(おがわどおり)は、北は紫明通りから、南は錦小路通りまでの路である。路は錦小路一端途切れて、再び高辻通りから塩小路通りまで延びている。ただし高辻より以南は、東中筋通り、或は天使突抜通り(てんしつきぬけどおり)とも呼ばれている。この路は、天正年間の豊臣秀吉による京都大改造計画により出現した路である。小川通りは、現在は、「おがわ」と読ませているが、路の出来た当初は、路沿いに小さな川が流れていたことから「こかわとおり」と呼ばれていた。

この路の基点に近い寺之内通りにと交差する付近には、茶道の家元である裏千家の今日庵と、表千家の不審庵がある。西洞院通りの項でも述べたが、この道筋界隈は良き水脈に恵まれたせいか、茶道の家元が集まっている。表千家の不審庵は、千利休から家督を継いだ千家茶道の嫡流家といってもよいと思われる。不審庵の名は「不審花開今日春」の禅語に由来している。不審は「いぶかしい」という意味であるが、この言葉は、人智を超えた自然の偉大さ、不思議さに感動する心を表している。また裏千家は、表千家の不審庵から見て、今日庵が通りからみて裏にある意味であるが、小川通りに沿って北に裏千家、南に表千家が隣接している。今日庵の由来は、宗旦が亭主をつとめた茶席に遅れた清巌和尚に、所用があるとして留守にした宗旦が明日の来席を請うた際に残した清巌和尚の「懈怠比丘不期明日」の書き付けからきているとされている。



路を南にひたすら下がると、やがて広い路の下長者町通りと出会う。その東南に農林水産総合庁舎があるが、その敷地の一角に「茶屋四郎次郎邸跡」と記された石碑がある。京の豪商茶屋四郎次郎(ちゃやしろうじろちゃやしろうじろう)の屋敷跡である。茶屋家は、代々四郎次郎の名跡を踏襲してきた商家であるが、六代まで中京区新町通蛸薬師下るに居を構えていたが、宝永5(1708)年の大火によってこの地に移転した。この地は、初代清延(154596)が徳川家康に仕えた際に、屋敷地として与えられたものとされる。本名は中島氏であるが、名字帯刀を許された士分扱いであったと思われる。初代から三代までが商人としての絶頂期で、角倉了以の角倉家、後藤庄三郎の後藤家とともに「京の三長者」と言われた。しかし徳川幕府の鎖国政策や、時流の変化に乗り遅れ、江戸時代中期以降は振るわなかったという。この石標はその邸宅跡を示すものである。またこの附近を茶屋町というが、この邸宅に因むものと思われる。


 一度途切れた路が再び始まる高辻通り付近に、石囲いがされた23坪程度の敷地に、墓標のような石碑が立っている。曹洞宗の開祖道元(120053)が、この地で没したことを記したものである。道元は貴族の家系に生まれたが、後に出家して比叡山延暦寺で天台宗の教義を修め、更に我が国で始めて茶葉の苗を植えたことで有名な栄西禅師の弟子となる。その後中国に渡り、曹洞宗の高僧から曹洞宗の印可を受けて帰国し、都の喧騒を離れた越前の国永平寺に曹洞宗を開山した。道元が説いた禅の特徴は、臨済宗の禅のように悟りを開くためのものではなく、心を空にして、ただひたすら座り続ける只管打坐(しかんたざ)という禅思想である。




西洞院通り(にしのとういんどおり)は、北は武者小路通りから、南は久世橋通りのまでの長い路である。平安京造成時の西洞院大路にあたり、建設当時は幅員24メートルの堂々とした大路であった。別名、洞院西大路とも呼ばれ、洞院(院御所)の名前の示すとおり、この道筋の北域には、高陽殿や大炊殿、東三条殿といった官庁が軒を並べていた。

この路の基点にあたる武者小路通りには、茶道三千家のひとつである武者小路流家元の茶室・官休庵(かんきゅうあん)が在る。この三つの家元が出来た経緯は、千利休の次男の一翁宗守(いちおうそうしゅ)、三男の江岑宗左(こうしんそうさ)、四男の仙叟宗室(せんそうそうしつ)がそれぞれ、武者小路千家の官休庵(かんきゅうあん)、裏千家の不審菴(ふしんあん)、表千家の今日庵(こんにちあん)として千利休以来の道統を継いだとされる。ここに茶道の家元が置かれた推移に、この道筋が良い地下水脈に恵まれたていたことが考えられる。京都は昔から良き水に恵まれていたが、特にこの西洞院通りと西に隣接する小川通りに、それぞれ三千家が在るが、茶道には欠かせない良き水がこの地域で得られたことと、関連しているものと考えられる。


路を南に下がり、三条通りを越した東側に「村田珠光・織田信雄・加藤清正・紀州藩古墳」と記された石碑が立っている。この地にも清泉があり、その名も「柳水」として有名で、千利休も茶を点じたという。柳水は、平安時代末期には崇徳院(111964)の御所があった所で、利休(152291)も茶の湯に用い、側に柳樹を植え直接陽が射すのを避けたと伝える。中世初期には、織田信長の息子である信雄(15581630)がこの地に住み、寛永初年に北野五辻に移った後、肥後加藤家京邸となった。また貞享年間(16847)以降から明治3(1870)まで、この地に徳川御三家の一つである紀州和歌山藩の京邸があった。

石碑の最初に記されている村田珠光(14221502)は、室町時代中期の茶人で、「わび茶」の創始者とされている人物である。茶道といえば千利休と思われがちだが、いわゆる茶の湯の根本を作り出したのは村田珠光である。その人物像は11歳の頃、奈良の浄土宗の寺に入り僧になるが、寺の仕事を嫌い、茶を好んだという。20歳で寺を破門され、全国に放浪の旅に出る。25歳で京に入り三条町に小庵「南星庵」を結び、やがて30歳で大徳寺の一休宗純の元で禅を学び、一休が説いた茶禅一味の境地に至る。この茶禅一味とは、茶と禅は形こそ異なるが、人間形成という本質において同じである意味である。 33歳で、一休より珠光の号と圜悟禅師(えんごぜんじ)の名跡を授かる。一休は珠光に対して、僧侶が座禅により正覚を目指すように、茶の湯に心を入れることで、仏法は茶の湯の中にありと教え、珠光は茶の湯を人間の生き方をふくむ「道」としてとらえるようになる。茶道に仏法、禅の教えが含まれるのは、珠光に始まって言える。その後足利義政、津田宗柏(天王寺屋)、志野宗信、石黒道提、篠道耳、誉田屋宗宅、尊行院、一路庵禅海、西福院、竹倉屋紹滴、松本珠報、牡丹花肖柏、古市澄胤、粟田口善法、鳥居引拙、村田宗珠、珠徳といった数々の弟子をとり、60歳の頃、侘び茶を完成させ、わが国の茶祖と称されるようになった。

 この道筋も応仁の乱一で時荒廃したが、戦国期に入ると、この道筋に流れていた西洞院川の流れを利用して、四条通り以南では、紙漉、紙屋、染屋の集まる路になった。江戸期まで、室町将軍家の兵法指南役であった吉岡憲法が考案した「憲法染め」や、再生紙の一種である「西洞院紙」と呼ばれた品が、この道筋の特産物となった。