猪熊通り(いのくまどおり)は、賀茂川に架かる御園橋西詰めから久世橋通りまでの路である。京都の通り名は、平安京造成時より経緯がはっきりしている路が多い中で、この猪と熊の名の入った奇妙な通り名のこの路が、どのような経緯で出来たのかは、今ひとつはっきりしていない。
鎌倉期の書物である「拾介抄(しょうがいしょう)」の中で記された平安京図によると、この路の北辺は「猪隈」と書かれ、南辺は「南市門」と二通りの名前が記されている。南市門と付けられているのは、平安京の公営市場であった東市の南に市の門があり、これが通り名とされたものと推察される。しかし北辺の猪隈の由来については、今もって不明である。これは憶測であるが、平安京の頃の北辺は、一条通りから以北は都の外とされる洛外であったため、未開の荒野が広がり、猪や熊も出没する地域であったと思われ、そのようなところからこの名が付けられた名ではないかと考える。
東西に交差する一条通りを西に少し入ったところに「黒田如水邸趾(くろだじょすいていあと)」記された石標が立っている。黒田如水は、豊臣秀吉の軍師として名を馳せた人物で、一般的には黒田官兵衛の名で知られている。安土桃山時代には、この近くに秀吉が造った聚楽第があり、黒田官兵衛の他にも、秀吉の主だった家臣たちがこの付近で屋敷を構えていた。官兵衛は小説やドラマにも度々取り上げられる人物で、播州大名・小寺氏に仕える家老の子として姫路城で生まれ、黒田官兵衛孝高と名付けられた。家老の家督を継いだ官兵衛は、若き時代から、その卓越した戦略眼で播州の諸豪族に恐れられ名を馳せる。
羽柴秀吉率いる織田軍が播州に入ると、自ら進んで居城姫路を秀吉に提供し、さらにその先導役を務めて近隣諸勢力の懐柔を図る。しかし天正6(1578)年、信長に反旗を翻した荒木村重を説得するために摂津有岡城に出向くが、説得が聞き入れられず捕えられ、約1年の間石牢に閉じ込められてしまう。一年後に織田信長の家臣により幽閉から開放されるが、劣悪な環境に置かれたため両膝が曲がり、立つこともできなかったという。
牢から出て官兵衛が受けた衝撃の中で最も大きかったのが、僚友・竹中半兵衛の病死であった。官兵衛の幽閉されたときに、織田信長は、官兵衛が敵方に寝返ったと思い、人質となっていた官兵衛の一人息子・松寿丸(後、長政)を殺すように命ずるが、半兵衛は命を賭して松寿丸の命を守った。これを後に聞いたとき、官兵衛は、顔を腹へ掻いこむように垂れて、激しく泣いたと伝わっている。
これ以後官兵衛は豊臣秀吉に仕えることになるが、やがて勃発した本能寺の変の際には、毛利輝元と和睦し、光秀を討つように献策し、中国大返しを進言したと言われる。秀吉の天下が定まった後、官兵衛のこれまでの働きは当然一国の恩賞に値するものであったが、与えられたものは、一万石の加増(前と合わせて三万石)に過ぎなかったという。また官兵衛はその後にも多くの功を挙げるが、秀吉は官兵衛に対して、その知略を逆に恐れ、終生その功に報いることはなかった。
秀吉が没した後の関が原以降は、徳川家康の軍門に下り、その子黒田長政が大名として筑前福岡藩52万3,000石を治めた。黒田官兵衛は58歳でその生涯を平穏に閉じるが、その歴史的存在については様々な評価があるが、晩年の号である「水の流れの如く」とした如水の名に、人間の業も含めて、自分に正直に生きようとした人間的なもの感じさせる武将である。
更に路を南下すると下長者町通りを過ぎた西側に、白地の暖簾を垂れた料亭が在る。有職(ゆうそく)料理の萬亀楼である。有職とは端的に言えば、宮中にまつわる伝統的な行事・儀式などに関する知識やそれを行なうことを指すが、その意味で言えば、有職料理は宮中に供せられる料理ということになる。この萬亀楼は、平安中期から朝廷の包丁方を務めた家系といわれ、京都の中でも唯一、伝統的な有職料理を継承している料亭である。生間(いかま)流式庖丁という料理方を代々が継承してきている。この料理方の特徴は、料理人は烏帽子、袴、狩衣姿で、まな板の上の魚や鳥に直接手を触れずに包丁を使って料理する。一年の中の桃の節節句や端午の節句といった節句の時に行なわれるが、日本の様式美が凝縮されたものといわれている。
通りを更に南下し丸太町通りを過ぎた西側に「京都所司代跡」石標が立っている。ここには幕末まで江戸幕府行政機関である京都所司代が置かれていた。京都所司代は、室町幕府から始まるが、江戸幕府もそれを踏襲し、京都の治安維持、朝廷・公家の監察、西日本諸大名の監視,五畿内及び近江、丹波、播磨の8カ国の民政を総括した。所司代屋敷は二条城北一帯の広大な敷地を持ち、上屋敷・堀川屋敷・千本屋敷などからなっていた。この石標は、ここに京都所司代屋敷が在ったことを示すものである。