浄福寺通り(じょうふくじどおり)は、北は船岡山に在る建勲神社の南参道から、南は竹屋町通りまでの路である。この路も知恵光院通りと同様に、屈折しながら南に延びている。元は寺之内通りから丸太町通りまでの短い筋であったようだが、他の編でも度々登場する豊臣秀吉による京都大改造計画によって現在の路に延長された。北の基点付近にある船岡山は、高さ111メートルの山というよりも小高い丘といった趣の山である。平安京造成に際して都の基点とされた山で、形が船に似ていたために、この名が付けられたものと推察される。平安時代から貴族たちを中心に、その美観が愛され、清少納言が綴った枕草子にも、その美しさが記されている。

その一方で東山の鳥部野や、愛宕山の麓の化野(あだしの) と共に、都を代表する葬送地であったことが、兼好法師の綴った徒然草に記されている。都を焦土と化した応仁の乱の際には、西軍の山城ともなったが、これ以来、船岡山を含む周辺地域が「西陣」と呼ばれるようになったとされている。また船岡山には建勲神社が在るが、織田信長・嫡男信忠親子を祀神として、豊臣秀吉によって建立されたといわれる。現在の建物は比較的新しく明治8年に建立されたものである。

船岡山は、京都市内が一望出来る場所として、また毎年行なわれる大文字の送り火等の際には、多くの人々が訪れている。現在は船岡山公園として京都市民の憩いの場になっている。


この路の一条通り付近には、路の語源となっている浄福寺が在る。浄福寺は、平安時代に創建されたが、元はこの場所ではなく、江戸時代初期の元和元年(1615)に、現在の場視に移転された。門には京都の寺院では珍しい朱色が使われ、「赤門寺」とも呼ばれている。天台宗の末寺として創建されたが、後の室町時代末期の大永5年(1525年)に後柏原天皇から念仏三昧堂の勅号を与えられ、これも京都では珍しい浄土宗も兼ねる寺院になったようである。寺には重要文化財に指定された鎌倉時代の阿弥陀三尊二十五菩薩来迎図等がある他、お堂には鞍馬山の天狗を祀る等、ユニークな寺院である。

境内には皇格天皇(こうかくてんのう)の皇女であった霊妙心院(れいみょうしんいん)の墓や、旧華族の墓等があり、皇族との関係の深さを偲ばせている。またこの寺は、幕末には薩摩藩の宿舎のひとつになったようで、司馬遼太郎氏の短編小説の「薩摩浄福寺党」で紹介されている。

 知恵光院通りは、北は大徳寺南門前の北大路通りから、南は二条城の北の堀端の路である竹屋町通りまでの比較的短い路である。この路は、所々で屈折しながら細くなったり広くなったりして延びているが、寺之内通りから南は、比較的直線の路になっている。この路は織物の町西陣の真ん中を貫いているが、中立売通りと交差する付近では、平安京造成時は、大内理の東部にあたり、その後、現在の京都御苑に大内理が移転後は、秀吉が造った聚楽第が置かれた。この地域名を「山里町」というが、聚楽第に山里の風景を採り入れた広大な庭園があったとされ、その名残として町名に留めている。当時を偲ばせるものはなにも残っていないが、この近隣の町名には聚楽第とのゆかりの地名が多く、かろうじてその栄華の昔を偲ばせている。



 知恵光院通りの通り名の由来は、一条通り西側に在る浄土宗知恵光院という知恩院の末寺にある。この寺は知恩院八世の如一国師(にょいちこくし)が、平安時代初期の摂政関白鷹司兼平の命を受けて創建したと伝わっている。観光寺院でないため、平素は訪れる人も少ないが、毎年8月2223日の六地蔵巡りのときには、多くの人が訪れる。六地蔵巡りとは、平安時代の歌人でもあった小(おののたかむら)の伝説に因んでいる。篁は「堀川通り」の編で、紫式部の墓と隣接した墓が北大路堀川に在ることを紹介したが、不思議な伝説を残している平安時代初期の人物である。その伝説によると、ある時、篁は病で息絶えてしまうが、冥土で地蔵菩薩と会ったことで蘇り、そのことに感謝をして桜の大木の一本木から六体の地蔵を刻み、伏見の木幡の大善寺に安置した。その後平安時代後期に入って、都では疫病が流行り、時の天皇後白河は、平清盛に命じて都を往来する旅人たちの路上安全や健康、さらには疫病退散、福徳招来を願って京に通じる主要街道の入口に六角堂を建て、一体ずつ分置し「廻り地蔵」と名付けた。これにより庶民に地蔵信仰が広まったとされている。これとは別に知恵光院の地蔵堂には、小野篁が彫り上げたとされる6本の腕を持つ六臂地蔵尊(ろっぴじぞうそん)という地蔵尊が安置されているが、8月2223日にこれを拝めば、六地蔵を全て廻らなくても大きな功徳が得られるとされている。こうして地蔵信仰は、六道(地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天上道)に迷い苦しむ全ての人々を救済するように願い、六体の地蔵菩薩を巡拝してご利益を求める庶民信仰として定着したようである。現在、京都の町々で子供の健やかな成長を願って毎年行なわれる「地蔵盆」は、このような地蔵信仰から発したものと思われる。


 大宮通り(おおみやどおり)は、北は御園橋通りから南は久世橋通りまでの路である。平安京造成時は大宮大路と呼ばれ、現在よりも道幅は広かったようである。京都では、繊維関係の仕事を「いとへん」と呼ぶことがあるが、この路に沿って北は五辻通りから南は元誓願寺通りまでは、別名糸町とも呼ばれ、糸屋や織屋が、まさに「いとへんの町」西陣の中心を成していた。

 この地域の建物には特徴があり、明治時代後期以降に造られた「かしき造り」といわれる、深い軒下を持つ町屋が多く、雨の日の生糸等の搬入等に、配慮が施されていた。 

 糸町の中心部は、今出川通り付近になるが、この交差点は「千両ヶ辻」とも呼ばれ、江戸時代の最盛期には、一日千両の荷が動いたというエピソードからこのような名が付けられている。他にもこの地域では、「大宮絹」と呼ばれる宮中に納める織物を任された人々が住まいしていた。その名残として、織部町や大舎人町といった町名がその歴史を留めている。しかし「いとへんの町」も、織物産業の衰退と共に、昨今はビル化が進み、様変わりする傾向にあるが、幾代にも渡って積み重ねてきたものが、失われていくのは寂しい限りである。



 大宮通り今出川の西北角には西陣中央小学校が在るが、その校内南の隅に、観世稲荷社と呼ばれる小さな祠が在る。この稲荷社は、能楽の創成者である観阿弥・世阿弥父子が、足利義満から拝領した邸宅内に鎮守社として創始されたものだという。その傍らに、「観世水」とも「観世井」とも呼ばれている井戸がある。日本の古代紋様に、「観世水(かんぜみず)」と名付けられた流水の紋様があるかが、この井戸の水面は、常に動いて波紋をつくっていることから、観世流の紋である「観世水」ができたとの伝承のある井戸である。

 どこかの項でも触れたが、京都は名水に恵まれた土地柄であるが、この観世水の井戸も京の名水のひとつに数えられている。ちなみにその他の京の名水を挙げると、村田珠光(むらたじゅこう)が足利義政に献茶した際に使用したと伝えられている堀川五条下がるの「醒ヶ井(さめがい)」。平安時代の摂政・藤原良房の屋敷跡といわれる萩の花の名所である梨木神社の中にある「染井(そめのい)」。千利休が茶の湯に用いたと伝承され、井戸のそばに柳を植えたためこの名で呼ばれるようになったという西洞院三条下がるにある「柳の水」。茶人武野紹鴎(たけのじょうおう)の邸宅跡といわれ、祇園祭の菊水鉾の由来となった室町通り四条下がるにある「菊水井(きくすいのい)」。清和源氏の祖といわれ、清和天皇の孫であることから、六孫王と称した源経基の使用した井戸とも伝えられている六孫王神社の中にある「六孫王誕生水」。その他にも清水寺の滝として有名な「音羽の滝」など、枚挙のいとまのないほどに存在している。






 

 路を更に南下すると中立売通りと交わるが、その少し手前の東側に、石柵に囲まれた大きな石碑がある。南北朝時代の南朝の武将・名和長年(なわながとし)」が戦死した場所とされ、それを記すために立てられたものという。

 名和長年は、村上天皇から発した村上源氏の流れをくむ伯耆の国の豪族・長田行高の子とされている。その後、後醍醐天皇の腹心として、短命であった建武政権の施策を担ったが、鎌倉でこの政権に反対した足利尊氏軍が京都に進撃し、名和長年はこれを向え討ったが、奮闘もむなしくこの地で戦死した。これを契機に、南朝政権は滅亡の路を歩むのであるが、名和長年は、楠正成と共に忠君愛国の武士として歌舞伎の演題にも取り上げられる人物である。

 人と成りやその人物像は、今ひとつ文献が少なく、詳しいところは伝わっていないが、この石碑は昭和14年に建てられたようであり、第二次大戦の戦雲が漂い始めた時代にあって、国民への忠君愛国の戦意向上策のひとつとして作られたと推察している。