七本松通り(しとちほんまつどおり)は、北は寺之内通りから南は十条通りまでの路である。平安京造成時は皇嘉門大路にあたる。この大路名は大内理の皇嘉門に通じていたことに由来し、幅員30メートルの堂々とした路であったという。その後右京の衰退と共に鎌倉時代まで路筋の荒廃が続いたという。
現在の七本松通りの通り名の由来は、宝暦12年(1762)刊の「京町鑑」には「此通下の森に一株七本に分れたる松あり、故に通筋の号とする」とある。また平安中期の天暦年間(947~957)に一夜にして七本の松が生えたからという伝承もあり、いずれも七本の松が登場することから、これに由来していることは間違いないようである。
京町鑑に登場する「下の森」とは、かつて北野神社の南にあった森で、現在の西陣警察署のあたりと思われる。その後この路も豊臣秀吉による京都大改造計画により寺町通りや寺之内通りと同様に、市中に散在していた寺院を集めて新たな路として生まれ変わった。現在、道筋には多くの寺院が存在しているのはそのためである。
北の基点となる寺之内通り付近を南下すると、今出川通りの手前の東側に大きな伽藍の寺院と出会う。通称千本釈迦堂と呼ばれる真言宗智山派・大報恩寺である。貞応二年(1223)の鎌倉時代中期、奥州藤原氏、三代当主藤原秀衡(ふじわらひでひら)の孫である求法義空上人が、釈迦念仏の道場として釈迦如来像、十大弟子像を安置したのがその始まりと伝わる。本尊の釈迦如来像に因んで釈迦堂といわれ、同じく嵯峨野にある釈迦堂(清涼寺)と区別するために、この寺の約100メートル東を走る千本通りに近いことから千本釈迦堂と呼ばれている。
この寺の一角には「おかめ塚」と呼ばれる供養塔が建っている。寺を創建した義空上人は、本堂を造るに際して、当時名工名声を馳せていた長井飛騨守高次を総棟梁として選んだ。高次は数百という大工の頭として采配を揮うが、ある日のこと何を勘違いしたのか、本堂を支える親柱の四本の内の一本を短く切り落としてとしてしまう。途方に暮れる高次に妻の阿亀(おかめ)は、「もはや切ってしまったものは元にもどらないので、柱を短く揃え枡組みを入れ、高さを揃えて使ったらいかがでしょう」とのアイデアを高次に伝えた。このアイデアもあって本堂は完成するが、阿亀は「女の知恵を借りて完成させたと言われては主人の恥」との思いに駆られ自害をして果てた。
この話は大工たちにより受け継がれ、江戸時代の中期には、京都三条の大工の棟梁・池永勘兵衛が、本堂の横に「おかめ供養塔」建立した。これ以降京都では、上棟式の際に阿亀の顔が描かれた「おかめ御幣(ごへい)」と呼ばれるお札を一番高い棟木に貼り付け、工事完成の祈願のみならず、家内安全や招福も共に切願する風習が定着した。この逸話を持つ千本釈迦堂の本堂は、京都の大半を焼き尽くした応仁の乱や大永の乱、享保の大火等の戦禍災難を免れ、京都市内の寺院としては、最も古い本堂となっている。